chapter1/夢のまた夢を
ひたすら鼓膜を打っていたのは、嫌な気分を忘れるために大音量で流している歌だ。周りの音が気にならないくらい、自分だけの世界に浸ろうとした。けれど、この気分のまま耳を塞いだのは失敗だったろう。発散したいストレスは外に出て行かず、胸の内で暴れる。
指先で摘むように持っていた一枚の紙が、風で揺れた。あーあ。溜息を吐き出したのと、耳を劈くような音が響いたのは、ほぼ同時だった。聞き心地の良い歌とは比べ物にならないほど凄烈で甲高い擦過音に、現実へ引き戻される。瞠った瞳に、夜色の中では痛いくらい眩しい二つの灯りが映った。
(一)
「皆さんこんにちは。お昼の名無しです」
黒く四角い箱の中、椅子に腰掛けスポットライトを浴びている男がにこりと笑む。短い髪をワックスで整えて、スタイリッシュに着こなしたスーツ姿で足を組み、顎に手を添えている様は気障な感じだ。
「なんだその朝の名無しと夜の名無しがいるみたいな自己紹介は」
木製のテーブルに乗せた右手で頬杖を突きながら、少年は退屈そうに歪めた唇の隙間から呆れたように吐き出した。もちろん、テレビの向こうにいる男に少年の声は届かない。テレビの中で彼――名無しは、笑みを崩さぬまま楽しそうに続けていた。
「テーマパーク楽しんでますかー? ちなみにそろそろ金色の一週間に入るので、僕も少し休業したいんですよー。というわけで休業のお知らせです」
「ゴールデンウィークって普通に言えばいいだろ。……というか、お前が休業してどうする」
「金色の一週間の間は、僕は働く気ゼロなので、皆さんが頑張っても無駄です。ということで、皆さん、課題は一時中止してくださいねー。ではでは、お昼の名無し、本人出演プレミアム豪華版でお送りしました。また来週~」
少年が不満げに言い終える前に、名無しはのべつ幕なしに早口で喋り終えると、立ち上がって椅子の背もたれに指を引っ掛けた。椅子を持ったまま、スキップをしながらスポットライトの外へ移動する。そこでテレビの画面は切り替わり、映った白と黒の砂嵐がノイズを鳴らし始めた。
少年はもうそこにいない名無しに舌打ちをして、テーブルの上に置いていたテレビのリモコンを持ち上げた。それを画面に向け、電源ボタンに親指を添えた直後、背後で響いた衝撃音に親指が動かされ、ボタンは自然と押し込まれる。
テレビの画面は黒く塗られて、室内と少年が薄らと見える。暗い青のTシャツの上に羽織った白いパーカーが、華奢な肩から落ちていた事に気付き、少年はゆっくりとそれを引っ張り上げた。それから黒い画面と見つめ合って数秒。リモコンを握り締め、意を決して振り返る。
リビングと玄関までを繋ぐ廊下へ力なく伸びる足。リビングのフローリングにべったりと付いている、細い手と、頭。その頭の傍にはイヤホンが落ちている。肩甲骨あたりまで伸びた黒髪に、紺と白を基調としたセーラー服を見れば、それが少女であることが分かった。
少年は恐る恐る彼女に近付いて、そっとリモコンを掲げた。力は込めず、リモコンを少女の頭に二度叩き付ける。
「ねぇ。君」
呼び掛けながら、もう一回リモコンを上下させたが、起きそうにない。廊下に足を踏み入れたり、リビングに戻ったりしながら少女を観察し、彼女の頭側に立つと、少年は彼女の手の傍に腰を下ろした。
少女の人差し指と親指に挟まれている紙が何であるか確認するため、強く引っ張ったものの、力の入っていない手からは簡単に取ることが出来た。
「なんだこれ。遺書か? ――違うな……歴史のテスト?」
テストと思われる紙の文字を追って行くに連れ、少年の眉は寄り、渋面が作られる。しかし可笑しな解答が多いせいか、彼の口元はだんだんと緩んでいった。起きていたなら少女にしかと聞こえていたであろう声量で、彼は独り言を連ねた。
「天下統一をした人物を答えよ。……いやいや、シベリアンハスキーって犬だからね? せめて日本名書こう? なんかかっこいい、とか君の感想いらないよ。解答用紙の欄外に自分の感想書く人初めて見たな……。あ、これ惜しい。フランシスコ・ザビエルズって、なんで複数形にしたんだろう。この子の頭の中ではザビエル何人来たのかな。僕は嫌だなぁ、数百人のザビエルが一気に入国してきたら」
「――待って!」
馬鹿にするような笑みを浮かべていた少年の唇が「い」の形に歪む。いきなり飛び起き、前へ伸ばされた少女の指先が、運悪く少年の左目に突き立てられたのだ。彼女はすぐに「あれ?」と零して手を引っ込め、身体を起こすと、座ったまま辺りを見回した。
「おはよう」
目を押さえながら、引き攣らせた唇で弧を描いた彼に、少女は首を傾ける。
「え? あ、うん、おはよう……って、大丈夫? どうして泣いてるの?」
「……初対面の女の子に目潰しをされたから、かな」
「そんなひどいことする人がいるんだね」
「僕の目の前にね」
足の近くに落ちていたイヤホンを回収していた少女は、少年の恨めしげな声を聞き取れなかった。イヤホンを畳んで、手首に嵌めていた黒い髪ゴムで束ねると、それをスカートのポケットに仕舞い込み、ようやく聞き返す。
「なに?」
笑顔で少年の言葉を待つ少女を見て、彼は目に当てていた手を額にずらし、小さく項垂れた。
「なんでもないよシベリアンハスキーザビエルズさん」
「なにその格好いい名前!」
「どこに格好良さがあったのか全く分からないんだけど」
「それが君の名前?」
「そんなわけ――」
反射的に怒鳴ってしまいそうになった少年を止めたのは、彼を見つめる少女の笑顔だ。悪意の類とは縁が無そうな、明るい顔に面食らう。ばつが悪いような気分になって、彼は呟いた。
「……君の名前が分からないから仮の名として使ってみただけだよ」
「あっ、私に名前を付けようとしてくれたんだね。ありがとう。でも私には唯って名前があるんだなー」
少女の、唯という名を唇の裏で反芻し、少年は興味の欠けた声で名乗る。
「ふぅん。僕の名前は三月」
「平凡な名前だね」
「シベリアンハスキーザビエルズよりは断然マシだよね」
「じゃあミツキアンハスキーザビエルズにしよっか!」
「それにしても君、タイミング悪かったね」
三月のパーカーを引っ張りながら、唯は彼に詰め寄りつつ立ち上がった。面倒くさそうに振り返った彼へ不満を呈する。
「ちょっと、スルーしないでよ。せっかくあだ名つけたのに」
「名無しの奴が一週間職務放棄するつもりらしくてさ」
「女の子には優しくしないと駄目なんだよ? ねぇ、三月」
「一週間は適当に過ごすしかないよ。って」
一方的な早口の応酬が奇跡的なタイミングで同時に止まる。すぅっと息を吸った音も、それから吐き出された互いへの苛立ちも、また奇跡的に同時だった。
「聞いてる?」
重なるソプラノとテノール。沈黙が室内を満たして、先に話し出したのは唯だ。
「ていうか、君はなんの話をしてたの? 名無しがなんとかって」
「名無しの課題は一時中止ってさっきテレビでやってたんだ」
「課題? なにそれ?」
話の噛み合わなさに、三月は僅かに目を丸くして固まってから、真剣な面持ちで唯に近付いた。
「……君、もしかして」
「え?」
「名無しとかいうふざけた男に会ったことはあるかい?」
「ない、けど……」
「ここがどこか、分かってる?」
「ここ? 三月の家なんじゃないの?」
当たり前のようにさらっと言ってみせてから、唯は頭上に疑問符を浮かべる。眉間に皺が出来るほど悩んでおり、次第に不安気な色を伴う声で問いかけた。
「なんで私、君の家にいるの? 初対面だよね……?」
「確かにここは僕の家だ。けど僕が言ってる『ここ』っていうのは――」
「まさか君は誘拐犯!?」
悲鳴に近い叫びを放った上、後ずさりをした唯を見て、三月は反射的に持ち上げていた両手を下ろした。耳を劈いた高音の余韻が耳鳴りのように残っているらしく、彼はひたすら顔を顰めていく。
「……人の話を聞かず、思い込みと早とちりが激しいタイプの人間か。相手にするの面倒だな」
失礼な、とでも言いたげに眉を吊り上げた唯だったが、怒鳴るべく開いた口から文句を飛ばす前に、冷たい声に身を固まらせた。
「というわけで唯、不法侵入は犯罪だよ。出て行ってくれ」
犯罪という言葉を独り言の如く繰り返して、はっとしたように目を大きくすると、唯は三月の両肩に掴みかかった。必死の形相に彼が息を呑んでいたが、唯は彼の様子など気にしていられないみたいだった。
「そんな血も涙もないこと言わないでよ!」
「……さっき君に目潰しされたせいで血も涙も落としちゃったんだ」
「ごめんなさいー! 覚えてないけど一応ごめんなさい!」
「心のこもってない謝罪はただの酸素の無駄だよ。環境汚染だからやめた方がいい」
両耳に手を添え目を細めている三月を見て、唯は彼を掴んでいた手を離した。
「ご、ごめんなさい……」
「で、君は本当にここがどこか分からないのか?」
「うん」
「どこまで思い出せる?」
三月は再び唯に背を向け、数歩歩いてテーブルの前まで行くと、腰を下ろした。今まで手にしていたリモコンをテーブルに置いた彼の左手側に、唯もそそくさと座り込む。
「えっと、テスト返ってきて、赤点しかなくて、これ親に見せるのかーってなって……」
「で?」
「それで、テスト睨みながら歩いてたらクラクションが……って、――あーっ!!」
「うるさいな……」
叫ばれる前、唯が大きく息を吸ったのを視界の端で捉えた時既に、三月は両耳の傍に手をやっていた。それでも耳を塞ぐことが無駄に思えるほど大きな声で鼓膜を刺され、彼は溜息に苛立ちの音を混ぜた。
その音に気付いているのかいないのか、唯は遠慮なく叫び続けている。
「うるさいじゃないよほんとに君ひどいよ! つまりどういうこと!? 私もう死んでるの!?」
「おめでとう、死んでしまったあなたはナナシテーマパークに無料でご招待~……って、あのふざけた男が死者の前に現れて言うはずなんだけど、君は言われずにここに来たってことなのかな」
名無しの口調を上手く真似たのが嘘だったと思うくらい、素に戻った彼が纏う空気はあまりに冷たい。感情的になっていた唯も、その空気に感化されたみたいに鎮まった。尤も、鎮められた激情は一分も保たなかったが。
「おめでとうって……なんもめでたくないよ! 嘘でしょ!? これ夢かドッキリのどっちかだよね!?」
「夢だと思うなら自分の頬を引っ張ってみなよ。ドッキリとか下らない事をするために僕は酸素を無駄にはしない」
「……慰めたり、してくれないんだね」
不貞腐れた声に返されたのは、睨むような鋭い視線だ。瞳から鋭さを取り去ることはなく、しかし彼は諭すように言った。
「慰めて欲しいんなら慰めてあげるけど? けどそれで君が生き返る訳じゃないし、無駄なことじゃないかな」
「……っ、最低!!」
自身が何をされたのか、一瞬分からなかったくらい、三月は呆然としていた。おかげで遠ざかって行く靴音は余韻しか聞き取れていない。火傷をした時のように熱くなっている頬へ手の甲を強く擦り付けて、皮膚に滲むそれが痛みであるとようやく知覚する。
叩かれたのだと気付いてから、彼の内に湧いてきたのは怒りや苛立ちではなかった。
「納得出来ない……。なんで殴られたんだ? 初対面だから丁寧に接したつもりなんだけどな」
(二)
どこまで行っても陽気な音楽が響き渡っていた。ジェットコースターに、メリーゴーランド、コーヒーカップなど様々な乗り物がある中、可愛らしいデザインをした民家と思しき家々が、まるでテーマパーク内の店のように建てられている。
そんな建造物や遊具に見向きもせず、三月の家を飛び出した唯はひたすら駆けていた。行く場所も目的地もなく、それらを考えられる隙間が頭の中にない。訳も分からず馳せ、ようやく足を止めると、力尽きたように膝を折った。
「……死んでなんかない。死んでなんか、ないよ。だってほら、ちゃんと体があるもん。私、ちゃんとここにいる。だから死んでなんかないよ。生きてるよ……!」
西洋の道路をモチーフにした石畳の上で両手を握り締める。その手が震えたのと、声が震え出したのはどちらが先だったろう。熱くなってきた瞳を擦り、歪みかけた唇の端を持ち上げた。
「そう、きっと轢かれる前に車は止まってくれた! 私が驚いて失神しちゃっただけ。ここはきっと病院だよ! うん、きっとそうだ!」
「――お前、迷子?」
凛としていて、風のような涼しさを感じさせる女声。それに伴われるようにふわりと揺れた空気が、唯の黒髪を波打たせた。
お読みいただきありがとうございます。
この作品は全4話、週一回更新です。
学生時代に書いた脚本をそのまま小説にしたようなものなので、「三月」と作者は特になにも関係ないです(誰も気にしていないとは思いますが念のため)。
ちなみに「名無し」のアクセントは「モヤシ」とか「タワシ」と同じです。