少女は鳥籠のなかで奇跡を歌う
親愛なる我が相方に捧ぐ!
魔界には残忍な魔族の王がいるという。
かの王は冷酷にして無慈悲。強大な力を持ち、人族をはじめとした異種族からはもちろん、同族からも恐れられる孤高の存在。
彼の戯れでいくつもの国が滅んだ。気に入らない臣下の首を飛ばすのも、姦しい側妃の頭を捻り潰すのも彼にとってはいつものことだ。暇潰しと称して種族一つをまるごと滅ぼしたことすらある。
ひとには持ち得ぬ強大な力を振るい、暴虐の限りを尽くす姿はまさに魔の王。
そんな魔王だから、彼に大切なものができるとは誰も――魔王本人でさえも想像していなかった。
◇◇◇
イグナシオが“それ”を見つけたのは単なる偶然だった。
運命や宿命なんて大層なものでなく、必然と呼べるほどの強さもなく、ただ彼の気まぐれが導いた出会い。
ひと月ほど前、ふと立ち寄った人間の国でイグナシオは美しい歌声を聴いた。さほど歌に興味があるわけではないが、足を止めて思わず聴き入ってしまうくらいにはその歌声は美しく、彼の心を揺さぶった。
魔王の心を動かすほどの歌だ。歌い手はどんな人間かと声の主を探してみれば、目に留まったのは一人の奴隷の少女。12~13歳くらいだろう。がりがりに痩せて、脆弱な人間のなかでもとりわけひ弱そうな見た目をしている。イグナシオが触れただけでその命を散らしてしまいそうだ。
市で売られている奴隷らしく襤褸を着ているが、イグナシオの目には身に纏っている布きれより少女の肉体と精神の方が酷い状態にあるように思えた。虐待でも受けているのだろう。この国は奴隷の扱いが悪いと聞いている。目の前の少女はこの劣悪な環境で成人まで生きられるようには見えなかった。よほど良い飼い主に巡り合えないかぎり、少女の命があと数年で尽きてしまうことは明白だった。
奴隷の少女は歌以外の“声”を失っているらしい。だから歌声だけを楽しめる、と耳障りな濁声が商品の説明を始めた。
歌以外の声を奪われたのか、それとも自ら封じたのか。奴隷商人の口上だけでは判然としないが、どちらにしても、この歌を売りにした少女が歌声以外を求められることはきっとないだろう。歌って、歌わされて、歌声だけを紡いで、その短い一生を終えるのだろう。
その儚いとも言える少女の生を、哀れだとは思わなかった。魔族であるイグナシオにとって弱者が強者に虐げられるのは当然のことだからだ。
力こそすべて。強者こそが正しい。理性の弱い下級魔族ほど顕著ではないものの、多分に漏れずイグナシオもその気質を持ち合わせている。弱いものがどれだけ苦しもうが、死ぬより辛い目に遭おうが彼にとってはどうでもいいことだ。
目の前で鞭打たれながら歌う少女がどうなろうと知ったことではない。興味を持ったなら壊れるまで弄び、目障りなら消すだけだ。魔族だろうと人間だろうとイグナシオにとってたいした差はない。
ただ、なぜか――なぜか、奴隷商人に命じられるがままに歌っている少女の姿にわずかな苛立ちを感じた。何とも言えない不快感がせり上がってくる。
「?」
気づけばイグナシオの腕のなかに奴隷の少女がいて、周囲には焼け焦げた跡だけが残っていた。不思議そうな顔で自分を見上げる少女に、触れても壊れないのかなんて考えが頭をよぎる。それでも、少し力を込めただけで殺してしまうような気がしたから、そっと壊れ物を扱うように慎重に抱え直した。
そのまま奴隷の少女を城に連れ帰って、拾ってきたペットを預けるように適当にその辺りにいた侍女に少女の世話を任せる。
そうして私室に独りぽつりと立って、イグナシオははたと我に返った。
なぜ、あれを連れ帰ってきたのだろうか。
使用人として、ではない。城の人手は足りているし、そういったことは侍従長に一任している。魔王自ら奴隷を連れ帰る理由にはならない。
では、伽の相手としてか。あれも子どもとはいえ女だ。だが、戯れにでも己が抱くにはあれは幼すぎる。
玩具やペットにするにしても人間の子どもなんて脆すぎて一日も持たないだろう。退屈で長い生のなかで人間を飼ったこともあるが、あまりにもつまらないのですぐに飽きてしまった。死んでしまったら新しい人間を攫って来ればいい話だが、飽きてしまったらどうしようもない。
「声が……」
そう、声が。
少女の歌声があまりに美しかったから。
「珍しい鳥を飼うようなものだ」
綺麗な声で鳴く、小さな金糸雀。
弱くて脆くて儚くて、すぐに死んでしまうだろうけれど、それまでは彼の無聊を慰めてくれる。壊れるのが先か、殺してしまうのが先かはわからないが、少しでも長くその美しい声を楽しませてくれればいい。
魔族の王としては平穏に過ぎる“お遊び”だが、国を滅ぼしてばかりなのも芸がない。たまには趣向を変えてみてもいいだろう。
すべて戯れだ。ただの退屈しのぎ。
いつもの暇潰しと変わらない。そう、何も変わらないはずだ。
自分の考えに納得してイグナシオは機嫌を上向けた。こんなに機嫌がいいのは何百年振りだろうか。
上機嫌に副官の名を呼べば、気味悪そうな表情を浮かべた魔族の男が姿を現す。己の感情に正直な男だ。いつもなら腕の一つくらいは吹き飛ばしてやるのだが、なぜか今はそんな気分になれなかった。
副官に人間の奴隷を飼うことにしたと告げ、少女の世話を命じる。
「――いや、あれの世話は私がしよう」
口に出してから、それも面白そうだと笑みを深めた。驚きに目を見開く副官を無視し、人間を飼うときは何が必要だったかと古い記憶を引っ張り出してあれこれと考えを巡らせる。
餌をやればもっといい声で鳴くだろうか。あの美しい歌声がさらに磨かれると思えば手ずから世話をするのも悪くない。
そうだ、と思いつきを口にする。
「鳥籠も用意しておけ。あれが入るくらいのものを、な」
鳥は籠で飼うものだ。
たとえそれがヒトの形をしているとしても、イグナシオには彼女の歌声しか愛でる気がないのだから。
◇◇◇
名前を付けると愛着が湧く、というのは己にも当てはまるらしい。
そんなことを思いながら、イグナシオは金の鳥籠のなかで微睡んでいる少女に視線を向けた。
彼が飼っている生き物は、歌う以外には食べるか寝るかしかしない。用意した鳥籠を窮屈だとも感じていないようで外に出たがる素振りもない。羽根を切られた鳥の方がまだ自由を知っている、そう思えるほどに少女は自由を知らなかった。
「ミーナ」
鳥籠の扉に手を触れ、己が付けた名を呼んだ。
主に名前を呼ばれた少女はハッとしたように顔を上げ、こちらに近づいてくる。
籠の外から、内にいる少女の頬へ手を伸ばした。イグナシオの冷たい手のひらに熱が伝わる。彼は体温が低い。人間の熱を鬱陶しく感じるほどに。だが、少女の温もりは彼には熱いほどなのにどこか心地よかった。
イグナシオの手をくすぐったそうに目を細めて受け入れる少女の顔に眠気は見られない。微睡んでいたのは睡魔に襲われたわけではなく、ただ暇だったのだろう。
眠いのなら寝かせてやろう、なんて気は彼にない。彼が聴きたいときに歌を聴かせるのが彼女の仕事だ。それでも、睡眠が不足しているようなら控えようという程度には、冷酷な魔王はペットの体調を気にしている。
少女の顔色を確認して満足したイグナシオが頬から手を離すと、格子越しに己を見上げる瞳と目が合った。
「ミーナ」
もう一度、名を呼ぶ。
ミーナという名前は古の歌姫の名だ。絶世の美女としても知られる人間の女の名はみすぼらしい奴隷の子どもには不似合いにも思えるが、名付け親であるイグナシオ本人はなかなかにその響きを気に入っていた。呼びやすくていい。
「歌え」
イグナシオの命ずるがままに囀る彼女は歌うことしか知らない。
言葉すら教えられずに育ったらしく、読み書きどころか会話もままならなかった。歌声以外の声を失っていることも大きいかもしれない。
話せはしないが、こちらの言っていることはわかるようだ。とはいっても、簡単な単語だけだが。それでも長文になると混乱するようなのでミーナに声をかけるときはできるだけ単語で話すようにしている。
歌うとき以外に声が出せないのは心因性のものだろう、と攫ってきた人間の医師が言っていた。魔法や呪いの類ならばイグナシオがどうとでもしてやれたのだが、話はそう簡単にはいかないらしい。
ミーナの声が戻るかどうかわからないと言った人間の医師はまだ城にいる。イグナシオの温情だ。いつもなら用済みになった人間は殺すか他の魔族に下げ渡すかするのだが、人間を飼っている限り必要になることもあるだろう。
「?」
ミーナが首を傾ける。何を歌うのか、と問うているようだ。
口がきけないぶん、彼女は表情が豊かだ。とくに、いつも怯むことなく魔王を見上げるその瞳は口に出せぬ言葉を雄弁に語る。イグナシオはその澄んだ蒼の双眸を彼女の歌声の次に気に入っていた。
「何でもいい。好きに歌え」
「………………」
不満そうだ。
何でもいいなら何でもいいから曲の要望を言え、と真っ直ぐな瞳が訴えてくる。
魔王を相手にいい度胸をしていると呆れつつ、窓の方へ目をやった。
外では雨が降っている。叩き付けるようなものではなく、しとしとと小さな雨粒が降り注ぐ様は魔界では珍しい。魔界の空は荒れていることの方が多いのだ。岩のごとき雹が降り、雷鳴が轟く。それが魔界の日常風景である。
「ならば、この雨に相応しい唄を。静かな曲がいい」
主の答えを受けて少し考え込んだ後、ミーナが歌い始める。イグナシオの知らない歌だ。歌われている言葉がどこの言語かすらわからない。
だが、それでいい。そう思えるほどに、歌詞などわからなくともいいと思えるほどに、ミーナの紡ぐ歌は心を揺さぶる。歌声しか持っていない少女が生み出す旋律は包み込むように優しく、それでいて何にも負けない強さを秘めていた。
目を閉じ、ミーナの歌だけに耳を傾ける。
歌の意味など知らずとも、鳥籠から溢れ出て辺りを満たす歌声はただひたすらに美しい。その声はどこまでも澄んでいて、聞く者の心を癒すような歌声だった。冷酷非情な魔王の心に響くほどに、美しかった。
――歌声以外の声も美しいのだろうか。
ふと、そんな考えが頭に浮かぶ。
ミーナの歌声は特別なものだ。
慈悲の女神・ラフマの加護を受ける少女は生まれつき様々な歌を知っているうえに、聞く者の心を癒す“祝福の声”を持っている。彼女をただの歌の上手い奴隷として扱っていた人間たちは知らなかっただろうし、この城においても気づいている者は他にいないだろう。イグナシオがそれに気づいたのは彼が魔王だからだ。
ただ美しい歌声というだけではこんなに惹かれない。ミーナに加護があると知って初めて納得できた。魔王の心をも捕らえるのだから、女神の加護とやらも厄介なものだ。
「もし声を失っていなかったら、お前は――どんな声で話し、どんな言葉を紡ぐのだろうな」
その声は美しいのだろうか。
その声で、誰に何を伝えるのだろうか。
魔王が落とした小さな呟きは、祝福されし少女が歌う雨の唄と窓の外から聞こえる雨音にまぎれて消えていった。
◇◇◇
魔王とはいえ、王たるからには政務から逃れることはできない。歴代の魔王のなかには執務を放り出して暴れていた者もいたそうだが。その点だけならば、イグナシオは真面目に王としての務めをこなしていると言える。
その日の執務を終えた後、ミーナの歌を聴く。ここ数か月でそれがすっかりイグナシオの日課になっていた。
今日のイグナシオの機嫌は最悪だ。
機嫌を降下させた原因は執務室に押しかけてきた魔族。なんの感慨もなくその女を捻り潰した彼だが、女のきんきんとした不快な声が耳から離れず眉を顰めた。苛立ちのままに床に沈んだ頭を踏み潰すも気は晴れない。
「陛下が人間の小娘ごときに構うことを面白くないと思う者も多いようです」
ずっと傍に控えていた副官の言葉に、もはやただの肉塊と化したそれが己の側妃の一人であったことを思い出した。思い出したと言っても、もともと名前も覚えていないような存在なのだが。
一瞬にして作り上げられた血の海は、しばらくすると魔王城の有能な侍女たちによって跡形もなく消え去った。
誰かの死。この城において最も価値のないものだ。たとえそれが魔界を代表する大貴族の娘の死であっても騒がれることはない。魔王の機嫌を損ねた、それだけで命を落とす理由には十分だった。弱い者が淘汰されるのは当然。それが魔界という場所であり、イグナシオが魔王として君臨する城の日常だ。
「私に不満があると?」
逆らう者には死を。
向かってくる勇者も反発する魔族もすべて捻じ伏せる。そうでなければ魔王を名乗る資格はない。
「いえ、陛下に不満を抱いているというよりはあの人間の少女に怒りを向けているようです。いつの世も女性の嫉妬は醜いですね」
陛下が後宮の管理をなさらないせいもありますが、と続ける口の減らない副官をぎろりとひと睨みし、執務室の扉へ向かう。
「どちらへ?」
わかっているくせに問うてくる男には答えず、イグナシオはそのまま部屋を後にした。
己が城で起きていることを察知することは容易い。魔王でなくとも、それなりに力を持った魔族ならばこの騒乱の気配を感じ取ることは可能だろう。
イグナシオの力を以てすれば城内と言わず魔界全土の現状すら手に取るようにわかるが、彼が今から向かう先は城の一室だった。魔王の居室。警備を配してはいない。が、ひとによっては最も安全で最も危険な場所だ。
部屋の中央に置かれた大きな鳥籠。
そこには魔王が愛でる鳥がいる。
「何をしている」
視線の先には籠のなかで脅える少女を甚振っている女がいた。こちらに背を向けていた女が、イグナシオの声にハッとした様子で振り返る。
女の顔に動揺が浮かんだのは一瞬だけだった。すぐに媚びたような笑みを貼り付けて駆け寄ってくる。
「どうなさったのですか、陛下。まだ執務の途中だったのでは? もしかしてわたくしに会いに来てくださっ――」
「何をしている、と聞いている」
「……それ、は」
女は口を閉ざした。魔王の所有物を害していたとは言えないのだろう。
「私の質問に答えろ」
刃向かう気かと視線で問えば、女は面白いほどに顔を青くした。
魔王に逆らえば死しかない。質問に答えても魔王のものを傷つけたのなら同じこと。彼女に待っているのは身の破滅だ。自分は殺されないなどと執務室に現れた女魔族ほど図々しく自惚れてはいないらしい。
「お、お話を……」
絶対的な力の差。女はイグナシオの威圧に怯えながらも口を開く。
「陛下お気に入りの愛玩動物と聞いて一目見ようと……魔王の側妃として少しお話させていただこうと……」
「そうか。満足のいく話はできたか?」
相手の脅えを解こうとするかのように、その声は酷く優しかった。女の身がかたかたと震える。何も恐ろしいことなどないのに、その身は恐怖で支配されていた。目の前の存在が恐ろしくてたまらない。
「は、はい……有意義なお話ができたかと」
そんな状態でも、女は上級魔族の一人であるという矜持から必死に言葉を紡ごうとした。残念なことにその勇気を称える者はここにいない。
「そうか」
そう相槌を打って、イグナシオは嗤う。今から殺す相手に向けるには不似合いな、優しげな笑みだった。
思わず女の肩から力が抜ける。もしかしたら許されるのではないかとそんな幻想を抱いた。
「へ、陛下……こたびのことは陛下を恋い慕うあまりに行ったこと。どうか愚かな妃の想いを……」
潤んだ瞳で見つめてくる女の手がイグナシオの腕に触れる――触れる寸前に、彼女の右手は半身ごと消失した。
「誰が触れることを許した?」
耳障りな叫び声が木霊する。
ミーナの驚いたような顔が視界の端に映った。
「誰が私の鳥と口を利くことを許した? 誰が私のものに近づくことを許した?」
問いかける相手は虫の息だ。人間なら即死だっただろう。しかし、頑丈な魔族はこの程度では死なない。殺す一歩手前、ギリギリのところで手加減した。傷だらけのミーナよりも酷い状態を痛めつけた本人が晒していることにイグナシオの嗜虐心が満たされる。
女は物理的に半分になった血塗れの身体を揺らし、呻き声を上げながら許しを得ようと懇願したが、うっすらと笑みを浮かべた魔王にその声は届かない。
「どうか、どうかご慈悲を……っ!!」
悲鳴のような声だった。
地に伏し甲高い声を上げる様はあまりに醜い。上級魔族としての矜持も側妃の一人としてのプライドもなく、みじめに地を這いながら今にも縋りつかんばかりの女を見てイグナシオは嗤う。
「………………」
ふと視線を動かすと、顔を顰めるミーナが目に入った。
「ミーナ?」
その様子に違和感を覚えたイグナシオが声をかけるも、身体のあちこちに傷を負った少女は呼び声に応えることなくその場に崩れ落ちる。
「!」
特大の攻撃魔法を喰らったような衝撃に言葉を失った。
いったい何が。そんな疑問が頭をよぎるとともに、ここ数百年感じたことがないほどの危機感と動揺を味わう。
はずみで、まだ今しばらくは嬲るつもりだった魔族の身体を魂ごと吹き飛ばし消滅させてしまった。だが、それに構う余裕などイグナシオにはとうにない。
「ミーナ!」
倒れ伏した少女のもとへ駆け寄る。鳥籠の扉を開けなくては、という考えはすでに頭になく格子を壊して無理やりに中に入った。
ミーナの身体は傷だらけだった。長い時ではなかったにしろ、か弱い人間が魔族に甚振られていたのだ。死んでいなかっただけ幸運とさえ言える。
そんなことはこの場に来る前からわかっていた。
――いや、わかっているつもりだった。
ミーナが傷つくことも死ぬことも想定していなかったわけではない。
人間は魔族よりも脆弱で、成人にも満たない少女はその中でもとくに脆い。だから、己の気まぐれや魔界の争いに巻き込まれて死ぬこともあるだろうと考えていた。そうなってしまったら、そのときはそのときだと、仕方のないことだと言って終わるだろうと……そう思っていた。
想定していたことだ。
なのに、なぜ、今こんなにも動揺している?
イグナシオのものを彼以外が傷つけるのは許せないけれど、弱い人間一人、死んでしまったらそれまでだと思っていたのに。
傷ついて死んでしまっても仕方がないと割り切れると思っていたのに。
歌声以外の声を失った変わった人間。ただ歌声が気に入っていただけで、それだけだったのに。
いつか失われるもので、失ってもいいから守ろうともしなかった――それが間違いだったとこんなことで気づくなど。
「魔王らしくもない」
自嘲するようにそう呟いて、イグナシオはミーナの身体を抱き上げた。
人間の医師を生かしておいて正解だったと思いながら、彼を押し込めている部屋へと転移する。
破壊しか知らない魔王。
誰かの命を惜しむのも、誰かを助けようと動くのも初めてのことだった。
◇◇◇
イグナシオがミーナを傍に置くようになってから一年の月日が流れた。
長命の魔族にとっては瞬きのような時間だが、人間の少女が魔界に慣れるには十分だったらしい。といっても、彼女が知る魔界は魔王の私室のみだが。
環境に慣れたのか飼い主に慣れたのか、当初より表情も増えて活発になったミーナだが、イグナシオが鳥籠からあまり出したがらないせいで外を知らないうえに、世話も魔王が手ずから行っているせいでイグナシオ以外との交流がほとんどない。イグナシオがいろいろと手を尽くした結果、ミーナを害そうとする者もいなくなった。
魔王の愛玩動物たる人間の少女は混沌こそが相応しい魔界に似つかわしくない穏やかな日々を過ごしている。
いまだイグナシオはミーナの歌声以外の声を聞いたことがない。
ミーナを奴隷に落とした彼女の故郷を滅ぼしても。
彼女を虐げた者たちの首を並べても。
悲惨な過去は消せなくて、心の傷は癒えなくて――ミーナの声は戻らない。
魔王の力をもってして叶わぬことなどそう多くはないのだが、そのうちの一つがミーナに関することであることがイグナシオの心を大きく波立たせる。
はじめは美しい歌声に惹かれて、その歌声を愛でていただけなのに。臆面もなく大切だと言えるくらいに、孤高の魔王の唯一と呼べるほどに、歌声だけでなくミーナという存在がイグナシオにとって大切なものになっていた。
無慈悲で残酷な魔王は人が神に祈るより強く、少女の声を聞くことを願っている。
神なんていない。いたとしたら、きっと魔王より無慈悲で残酷で底意地が悪い性格をしているのだろう。
だからイグナシオは己の長い生を懸けても得られないものがあることを知っている。奇跡なんて起きるはずもなくて、魔王が奇跡を望むなんて滑稽きわまりなくて、それでも奇跡を願わずにいられない。
「お前の声が聞きたい」
そう囁いて返されるのは困ったような表情。
慰めるように歌い始めたミーナに少しだけ心が安らいだものの、歌声だけでは満たされず心にしこりのようなものが残った。
何を壊しても誰を殺しても消えない苛立ちと焦りは、常にイグナシオのなかにあって彼を苛む。不快だ、不愉快だと思うのに、その感情の元に手を伸ばさずにはいられない。
「ミーナ」
鳥籠の鍵を開けて名前を呼べばすり寄ってくる可愛い愛玩動物。もうそれだけでは済まないのは誰よりもイグナシオがよく知っている。
膝の上に置いて抱き締めれば笑う彼女の言葉を聞きたいのに叶わなくて、誤魔化すように歌を求めた。
「歌ってくれ。お前が好きな歌を、お前が思っていることを、歌で教えてくれ」
歌以外にミーナを知る術を知らない。
そのことを悲しむ自分に、イグナシオはどうしようもなく苛立った。
地方での小競り合いに呼び出され、城を空けることになった。小規模とはいえ魔族同士が争っている場にミーナを連れていくわけにはいかず、仕方なく侍女に彼女の世話を命じて城を立った。数日で事を収められたのは僥倖だろう。
城に戻った魔王を出迎えたのは数多の臣下。そのすべてを無視してイグナシオは一人の少女のもとへ向かう。
鳥籠の内と外には一人の人間と一人の魔族がいた。いつか見たような光景だが、大きく違うところが一つ。
――ミーナが笑っていた。嬉しそうに。楽しそうに。
イグナシオに向ける笑みとそっくりな笑顔を、見覚えはあるが名も知らない侍女の一人に向けている。
瞬間、魔王の命で少女の世話をしているだけなのだろう侍女に殺意が湧いた。その殺意が刃となって標的を捉える前に、イグナシオの理性がそれを押し止める。ミーナの命以外を何とも思っていない彼が感情のままに動かなかったのはこの場所を血で汚したくなかったからだ。イグナシオもミーナと過ごすうちに多少は人間的な配慮を覚えていた。
イグナシオ以外に向けられた笑み。それがミーナにとって特別な意味を持っていないことはわかっている。だが、理性でわかっていても不愉快に過ぎる……と思うのはイグナシオが狭量だからだろうか。
己が所有欲も独占欲も強い性質だということを知ってはいたが、ここまでとは思わなかった。彼にとって取るに足らない存在がミーナの笑顔を向けられていることが不快で、その心のままにこの侍女を殺してしまったらミーナが悲しむだろうということにも苛立つ。
すべて壊してしまえたら楽なのに、壊した後を怖れて何もできない。
壊すのは一瞬で、壊したらもう二度と元には戻らないと知っているから。
「……今、戻った」
なんて声をかけようか迷って、口から出たのはそんな言葉。
よほど恐ろしい顔でもしていたのだろう。主の訪れに気づいた侍女は慌てて居住まいを正し、平伏する。それに倣うようにミーナも頭を下げた。
頭を下げさせたかったわけじゃない。ただ笑顔で迎えてほしかった。
そう思ったけれど、それを口に出さないだけの分別はあった。魔王が口にするにはあまりに情けない。
「!」
辺りを覆う重い空気を打ち破るように、突然ミーナが顔を上げた。何か思いついたような表情でこちらを見て嬉しそうに笑う。
そのことにイグナシオの心が多少は慰められたが、ミーナが侍女の袖を引いて何かを訴えようとしていることに気づいて不機嫌さが増した。チラチラとこちらを窺う様子でイグナシオに関したことだろうと見当はつくが、機嫌は降下したままだ。
何か伝えたいことがあるのなら、イグナシオに伝えればいいのに。
不機嫌さを示すようにイグナシオの眉間に皺が寄る。
発する気だけで周囲を破壊しそうな魔王に脅えながら侍女がミーナに小さな紙片に何かを書いて渡した。イグナシオに見られまいとしてか急いだ様子でそれを受け取ったミーナは手元を隠すようにこちらに背を向ける。……立ったままのイグナシオにはミーナがうずくまって紙に何かを書いているのが丸見えだったが。
「文字を覚えたのか」
つい、驚きが口からこぼれる。
イグナシオの言葉は誰に言うでもない呟きのような声だったが、ミーナの耳には届いたらしい。びくりと大げさなまでに肩を震わせた。振り向いて否定するように頭を左右に振っているが、これでは認めているのと同義だろう。
口止めされているらしい侍女が恐縮した様子で、実際に自分が書いた文字を見せるまでは隠しておきたかったようだと話した。はじめに文字を教えたのは別の侍女らしい。説明中、ところどころ言葉を濁しているのはミーナへの配慮だろうか。
「ミーナ様はずっと、陛下にご自分の気持ちを伝える術を探しておられたようです」
その言葉に、些細な苛立ちなど吹き消されてしまうくらいの衝撃を受ける。
言葉を求めているのはイグナシオだけだと思っていた。ミーナは求められても答えられないことを心苦しくは思っても答えたいとは思っていないだろうと、自ら歌以外の声を封じてしまった彼女が言葉を覚えたいと思っているなんて……それこそ、考えもしなかった。
文字を書き上げたミーナがやりきったような表情で紙片を差し出してくる。
なぜか二枚あるそれに少しの期待とわずかな恐れを抱いた。何が書かれているのだろうか。書かれている言葉を想像するより前にその答えが目に入った。
『お かえり なさい』
拙い文字はお世辞にも綺麗とは言えず、文字の間隔すらもまちまちで読み辛い。
しかし、読めないほどではなかった。
「ああ。今戻った、ミーナ」
滅多にお目にかかれない魔王の微笑を見てしまった侍女が固まっている横でミーナは満足そうに頷く。そして、もう一枚の方も見ろと言わんばかりに紙片を握っているイグナシオの手をぺしぺしと叩いた。ミーナでなければできない暴挙に侍女が今度は顔を青くしている。
もう一枚の紙片に書かれた文字は先のものよりほんの少しだけ整っていた。イグナシオがいない間に何度も練習したのだろうと思えるような字だった。
『かってくれて ありがとう
うたを きいてくれて ありがとう
うたを すきって いってくれて ありがとう
いっしょに いてくれて ありがとう』
続ける言葉に悩んだように間を空けて、後で付け足したように書かれた文字はわずかに歪んでいる。
『いつも ありがとう』
手紙というには短く、本来ならたった五文字で事足りたのだろう。そう思えるほどに簡素なものだった。だが、これに、この紙切れに、どれほどの想いが込められているか。それを知っているのはこれを書いたミーナと受け取ったイグナシオだけだろう。
「ミーナ」
照れくさそうに視線を逸らしていたミーナの身体を抱き上げる。
ずっと少女が伝えたかった言葉。ミーナが綴った感謝の言葉は確かにイグナシオに届いた。
◇◇◇
その人間の少女は歌以外の“声”を失っていた。
魔王が、少女が、どれだけ願っても奇跡なんて起こらなくて。魔王が少女の声を聞くことはなく、少女が声を取り戻す日は来ない。
でも、奇跡なんて起こらなくても。声が出せなくても。たとえ世界から音が消えたとしても。
伝えたい気持ちがあるかぎり、伝えたい誰かがいるかぎり――そこに言葉は生まれるのだろう。
はじめましての方もそうじゃない方も、どうも。遊雨季の半分、雨柚です。
今回の短編は相方・吉遊のネタを使って雨柚が執筆しています。実は流れてしまった企画の残骸で……と、まあ、このあたりは長くなるので割愛します。執筆に至るまでの経緯は活動報告に書いているので気になる方は覗いてみてください。
一応、吉遊が考えたネタなので設定を公開しておきます。
ジャンル:恋愛
キーワード:異世界、恋愛、魔王、健気、すれ違い、ハッピーエンド
あらすじ:
孤高の魔王は、ある日歌以外の“声”を失った奴隷の少女と出会う。魔王は彼女の美しい歌声を気に入り、自分の城へと連れ帰った。しかし、籠の中に入れその声を愛でるだけだったはずがいつしか少女自身を大切に思うようになる。そして、少女もまた、魔王へとほのかな愛情を抱いていた――――。
登場人物:
・イグナシオ
魔王。その強大な魔力ゆえに同族からも恐れられている。
無慈悲にして残酷な性格……だったが、少女を傍に置くようになってから優しくなる(少女に対してだけ)。独占欲が強い。というか、少女以外に大切なものがない。
黒髪金眼の美形。
少女を買ってからはこまごまと世話を焼いたり優しくしていたのだが、本人無自覚。
・ミーナ
奴隷の少女。買われた当時、見た目12~13歳(孤児のため正確な年齢は不明)
まともに言葉すら教えられずに育った。慈悲の女神・ラフマの加護により様々な歌を生まれつき知っている。聞く者の心を癒す“祝福の声”を持っているが、本人や周りの人間は誰も知らなかった(魔王のみ気付く)。虐待により歌以外の“声”を失っている。
魔王に自分の(感謝の)気持ちを伝えたくて、言葉を覚えようとする。
タイトルも書き上がった後に相方に考えてもらいました。……リテイク4、5回出したけど。
設定・吉遊、本文・雨柚という私たちにしては珍しい趣向の短編ですが、お楽しみいただけたら幸いです。