諦めきれぬ賭け
おねぇちゃんと鈴さんが海で遊んでいる頃、私は結城ちゃんとショッピングセンターに行っていました。結城ちゃんのお誘いと言うより、結城ちゃんに強制的に連れてこられたと訂正した方がいいのですが、私も何だかんだ楽しみにしていました。いつもは私から結城ちゃんを誘うので、結城ちゃんからのお誘いは珍しいからです。
半月ほど前に出来たショッピングセンターはかなりの土地を使い、大きな施設となっていました。雑貨屋さん、服屋さん、レストラン、お土産売り場、アミューズメントパークなどがあり、そのなかでも私は観覧車に乗りたいと思っています。かなり待ち時間があるようなら、流石に諦めるのですが…。
私は結城ちゃんに付いて行きながらあちこちを見ています。私と結城ちゃんの様なお友だち同士、仲かが良さげな子供連れの家族、青春を謳歌しているようなカップルなど、たくさんの人で賑わっています。オープン当初ほどではないと思うのですが、たまに通り際に当たっちゃったりします。私がどんくさいということもあるのですが。
「ちょっと貴女。突っ立ってないで歩いてくださいます?」
結城ちゃんに言われ、私はいつの間にか足が止まっており、自動ドアの目の前に立っていることに気づきました。私を避けていく他者の目が、私を迷惑そうに見ていました。私はその目から避けるよう、はや走りで結城ちゃんに向かい、結城ちゃんの背中に隠れました。結城ちゃんは私よりも身長があるので、小さな私は容易く隠れることができます。
「貴女、隠れるのはいいのですが、洋服を引っ張るのはやめてくれます?」
結城ちゃんの洋服の裾を手にしていた私は、「ごめんなさい。」と謝り、裾から手を離しました。
私は結城ちゃんから少し距離を取り、結城ちゃんの周りをぐるぐると回って結城ちゃんを見ます。結城ちゃんは「何をじろじろと見ているの?」と赤髪をクルクルとしていました。結城ちゃんは私同様、目が合うと照れるしぐさをします。
私は結城ちゃんからの距離をまた一歩ほどとり、手を後ろにやりニコリと笑いました。
「結城ちゃんの私服姿はあまり見ないので、ちょっと気になりまして…。」
結城ちゃんとお出掛けをすることはあります。しかし、基本的に私は土日も部活があるため、お出掛けはこういった長期連休ぐらいにしかいけません。けれどせめて、一ヶ月に一度は結城ちゃんとカフェに行こうと考えてますが、やはり部活動後になるため、制服でのお出掛けとなります。
だからこうして、結城ちゃんの私服姿を拝見するのが、私のちょっとした楽しみです。結城ちゃんにこの話をすれば、結城ちゃんは多分気を使うので、このことは結城ちゃんには秘密にしています。
ちなみに、今日の結城ちゃんの服装はと言いますと、白黒のチェック柄のワンピースです。腰の辺りに巻いてある白のベルトがちょっとしたおしゃれ感を出してます。結城ちゃんはよく、こういったちょっとしたおしゃれをしています。特にリストバンドを付けるのがお気に入りです。今のところは何処に付けているかは確認できませんが、何処かに付けていることはわかりきっています。
私の言葉に、ほんの少しだけ顔を赤らめた結城ちゃんは、私に向けている視線を反らし、胸の辺りで腕を組みました。他人から見れば怒っているように見えますが、私は知っています。この仕草をする結城ちゃんの心境は嬉しいです。怒っているときはその…。癖と言うべきなのか、結城ちゃんには絶対に話さないのですが、同じような仕草をしているときに頭の真上辺りの髪の毛が僅かながら、アホ毛のようにはねるのです。本人は多分自覚がないのだろうが、優しくそのことについて話しても良いのですが、可愛らしいので話さないことにしています。
「別に貴女のためなんかじゃ…。」
結城ちゃんが何かを呟いていたのですが、最後の辺りが周りの声でよく聞き取れなかったです。聞き直したいのですが、結城ちゃんは基本、同じことは二度は言わないため、言っても無駄な気がした私は、何も言わずに結城ちゃんの腕を掴みました。胸に触れるか触れないかでしたので、結城ちゃんの逆鱗に触れるか心配でした。まだまだ発達途上でお年頃の結城ちゃんは、大事なところを触れられるとかなり怒ります。私は見たことがないのですが、噂ではかなりあれみたいです。
「ちょ、貴女、一体何を…。」
結城ちゃんはやはり動揺していました。触れそうだったからでしょう。
私は結城ちゃんを先導するかのように、腕を掴んだまま連れて歩きました。先程より人の姿が多くなったからです。それと個人的な理由として、テレビ局の取材をしていたからです。テレビに写るのが嫌と言うわけではないのですが、私のおかぁさんがあれなため、娘だとは知られたくなかったからです。
私が何故おかぁさんの娘だと知られたくない理由はというと、私が産まれたことが世間に広まっていないからです。普通、有名人が子供を出産するとテレビなどでその情報が公開されるのですが、私のおかぁさんがそれを拒み続けた結果、私が産まれたことは公開されずにすみました。そのため、おねぇちゃんに娘が二人いることは世間には知られていないのです。
そのため、私がおかぁさんの娘だと知れば世間はざわつくこと間違いありません。世間はデマ情報が流れるので、実は不倫相手の子供だ何てことになってしまえば、おかぁさんどころかおねぇちゃんにも迷惑がかかってしまうので、私は迷惑そうになるような行為は行わないようにしています。部活動に入ったのもそのためと言っても過言じゃありませんが、今では私の楽しみの一つになっています。
私はカメラに写らないよう、結城ちゃんを引っ張りながら早足ぎみでショッピングセンターに入りました。自動ドアがほとんど開けっぱなしのため、予想していたよりも早く侵入できました。
「ちょっと貴女!」
急に後ろから結城ちゃんに呼ばれ、私は驚き結城ちゃんの握っていた手を離してしまいました。ショッピングセンターの中に人が入っているため、私たちのいる所は人が徐々にだが減っていっているように思えます。
私は結城ちゃんの方に振り返ります。怒っている…ようには見えません。けれど、照れているというようにも見えません。左腕が痛んでいるかのように右手で抑えている仕草をする結城ちゃんの姿は始めてみるので、私は何を伝えたいのかがわからないのですが、私が結城ちゃんの目を見るなり、結城ちゃんは私から視線を反らしました。どうやら、これも結城ちゃんの照れ隠しのようです。
「どうしたんです、結城ちゃん?」
私が結城ちゃんに尋ねると、結城ちゃんはこちらをちらりと見た後、また私から視線を反らしました。
「今日は私が貴女を誘ったんですよ?」
結城ちゃんはそう言うが、ほとんど強制的に連れてこられたのは先程も言いましたが、私は「はい。」と頷きながら返答しました。
結城ちゃんは私の返答を聴き、左腕を抑えているような右手を外し、腕を組みました。何に対して嬉しいかは分かりませんが、結城ちゃんは私が行った何らかの行動に対してでしょう。
「だからその…いつもみたいに貴女が先導するのはどうかと思うのですけれど…。」
最後のの方は声が小さくなっていったため、聞き取りづらかったのですが、何とかして結城ちゃんの言葉を聞き取りました。
確かに、結城ちゃんの言うとおりかもしれません。今となっては完全に関係が逆転したのですが、私が結城ちゃんと出会った頃、結城ちゃんは世間をよく知っていませんでした。それは私もだったのですが、結城ちゃんはお嬢様だったということもあり、小学校に通うまではお屋敷から出たことはなかったので、基本的なことすらも知りませんでした。
そのため、私が結城ちゃんに色々なことを教えてあげたりしていました。信号機を知らなかった結城ちゃんは、よく道路に飛び出したりして車に何度か引かれそうになったこともありました。始めてハンバーガーを口にしたときの嬉しそうな顔も忘れることはありません。こうしてお店に行って私が結城ちゃんを先導するのも今となっては当たり前のことだと思っていました。
けれど、結城ちゃんももう中学二年生です。私が結城ちゃんに教えていくうちに、私から自立したいという気持ちがあったのしょう。そして、それを今日実行しようと結城ちゃんは覚悟を決めたのでしょう。
結城ちゃんが私から離れると思うと少し寂しいのですが、いつまでも私に頼ってばかりではいけないと私も思っていました。
私は結城ちゃんが組むでいた手を外し、結城ちゃんの右手を握りました。
「なら、今日は結城ちゃんに頼んじゃいますね。」
私は笑顔でそう結城ちゃんに言うと、結城ちゃんはまたこちらをちらりと見て、また目線を反らしました。けれど結城ちゃんは、握っていた手をギュッと握り返してくれました。私は握り返してくれた手を一度見て、もう一度結城ちゃんを見ます。相変わらず、結城ちゃんは私から目線を反らしていますが、口元が少し笑っていました。
「そこまで貴女が言うのなら仕方ないですね。私に任せてくださいな。」
言わせといて何を言うと思ったのですが、結城ちゃんが楽しそうに言っていただけで、そんな気持ちは吹き飛んでしまいました。
結城ちゃんは言い終えると、私の手を握ったまま歩き出しました。私はほんの少しだけ握っている手に力を入れると、それに反応した結城ちゃんもほんの少しだけ握り返してくれました。
あれから数時間が経ち、気づけば正午を回っていました。お腹もいい感じに空いてきたので、結城ちゃんがどうしてもと言っていた、少しおしゃれなイタリア料理店でお昼にすることにしました。
私たちがお店に入ると、結城ちゃんが何やら店員さんと話始めました。知り合いか何かだと私は思っていましたが実際は違っていたみたいです。
結城ちゃんは話終え、私に「来なさい」というジェスチャーをしました。私はされるがまま結城ちゃんの方へ向かうと、結城ちゃんがまた私の手を握り、店の奥へと入っていきました。どうやら、結城ちゃんが事前に予約しておいてくれたみたいです。昔は電話の仕方も知らなかった結城ちゃんでしたが、今となっては一人で予約ができるようになったみたいです。
結城ちゃんに連れられて来たのは、奥にある個室のようなところでした。と言ってもこのお店のほとんどが個室のようなところがほとんどです。プライバシーは形では守られているというわけです。
私は午前中に雑貨屋さんで買った小物の入った袋をかごに入れ、結城ちゃんが席についたのを確認して私も向かい合わせで席につきました。
店員さんから渡されたメニュー表を開けると、たくさんの美味しそうな料理がのっていました。値段も中学生のお小遣いならお腹いっぱいに食べれるほど安いです。入口で長い列を作るのもわかる気がします。
とりあえず、私は日替わりのパスタセットにしました。私がメニュー表をテーブルに置くと、結城ちゃんも決めたみたいで私と同じよう、メニュー表をテーブルに置きました。
呼び出しボタンを押してしばらくすると、若い女性の店員さんがやってきました。多分バイトの方でしょう。
私がその店員さんに見とれていると、結城ちゃんがつまらなそうな顔でこちらを睨み付けていました。それに気付いた店員さんは、少し早足気味で戻っていきました。
戻ったのを確認した私は結城ちゃんを見ました。結城ちゃんは未だにこちらを睨み付けていました。
「…怒ってますよね?」
私がそう尋ねると結城ちゃんは「別に。」と言い、視線を反らしました。やはり怒っているみたいです。飴で機嫌を直しても良いのですが、お昼を食べる前なのでそれだけはしたくありません。
私と結城ちゃんの間に沈黙が出来ました。他の個室から少しだけ、会話をしているような声が聞こえてくるぐらい静かな沈黙でした。今は何を言っても、結城ちゃんは機嫌を直してはくれないでしょう。
私は結城ちゃんから視線を外し、外の様子を見ながら少し考え事をしました。結城ちゃんをどうやって機嫌を直すかということではありません。機嫌を直す方法など有り余るほどありますが、今はほとんどが無力化しています。
少し話が反れましたので話を戻しますと、私が考えていることはあの日の鈴さんのことでした。
ー私ね、琴美のことが恋愛対象として好きなの…。ー
あの日聞いた鈴さんの言葉に、私はすぐにそれが嘘ではないということがわかりました。声の大きさ、しゃべり方がいつもと違っていたのが何よりの証拠です。
ーねぇ、琴葉ちゃん。私、琴美の恋人になりたいの…。ー
あの時の鈴さんの顔は見たことがないほど赤く染まっており、まるで熱でも出したのかと思ったほどです。
私は鈴さんの言っていることが嘘でなく本気なんだと知り、胸が痛くなりました。家にやって来てから、鈴さんが異常におねぇちゃんにスキンシップをしています。つまり、その時からおねぇちゃんに好意を持っていると思うと、余計に胸が傷み、張り裂けそうな気持ちでした。鈴さんがおねぇちゃんと付き合う、何てことがあれば、私はますますおねぇちゃんと接する機会が無くなるからです。
我慢し続けていた私も、それだけは許せませんでした。私は鈴さんに諦めてもらおうと思いました。
けれど、私に向けられる鈴さんの無垢な目に、私は「諦めてください。」何て言う否定的なことを口にすることは出来ませんでした。それは可哀想だからという理由ではなく、その目がおねぇちゃんに似ていたという理由だったからです。
私は自身の感情を押し殺し、「そうですか。」と一言を発しました。その一言を発するだけでも、私の熱いものが今にも口から出てきそうなぐらいの吐き気を、私は感じました。
鈴さんは何故おねぇちゃんが好きになったのか、おねぇちゃんのどこが好きかを細かく丁寧に話してくれましたが、その声は私の耳に通ることはありませんでした。ただ愛想よく返事をするだけでした。
おねぇちゃんのことを話している鈴さんの姿が、何故か昔の私に似ているなと思いました。私とは口調、しゃべるスピード、間の取り方は全く違います。けれど、一生懸命おねぇちゃんを肯定的に話しをしている姿は…嫌な気持ちなのですが、私を複製したのかと思うぐらい、鈴さんは私に似ています。
ー琴葉ちゃんは琴美のこと、好き?ー
まるで私の心でも読んでいるのか、ふと鈴さんが発した言葉に、私は動揺のあまり、手にしていたティーカップを落としてしまいました。ティーカップの原型を保つことなく粉々に割れてしまい破片が飛び散ったものの、鈴さんに怪我がなかったことに私は安心しました。
琴葉ちゃん、大丈夫!?と本気で心配そうな顔をする鈴さんは、すぐに私のところへ寄り添ってきました。鈴さんからは、柑橘系のシャンプーの香りがしました。私があまり好きではない香りです。
大丈夫ですよ、何て言ってた私でしたが、実際大丈夫ではありませんでした。細かい破片が、私の足に幾つか刺さっていました。もちろん、流血はしています。しかし、大丈夫と言ってしまった私は我慢するしかありませんでした。
私は鈴さん迷惑をかけないよう、破片が突き刺さった方の足をサッともう一方の足の後ろに隠しました。あの時は気づかなかったのですが、あの時点で鈴さんは気付いていたみたいなのです。その後、私の手伝いをよくしてくれるようになりました。傷を痛むことを心配したのでしょうか、日頃のお礼と言って油性クリームをわざわざ買ってきてくれました。最初は鈴さんが買ってきたという理由で使わなかったのですが、傷口がしみるので仕方なく使いました。今では完全に治りきっています。
鈴さんは破片を手掴みで集め、ゴミ箱に捨てました。痛くないのか聞いたのですが、大丈夫と言っていました。けれど、隠した手からはポタポタと血が出ていました。鈴さんも、私と同じような考えをしているに違いありません。
鈴さんがこそこそと絆創膏を張っていたところを、覚悟を決めた私は先程の質問の返答をしました。
ー鈴さん。私とおねぇちゃんは姉妹です。だったら、私がおねぇちゃんのことをどう思っているか、言わなくてもわかりますよね?ー
ー…そうだよね。ー
絆創膏をしまった鈴さんは、こちらを振り返りました。
ー…好きなんでしょ、琴美のこと。ー
鈴さんに言われた言葉を聞いて小さく頷いた私は、「明日、早いので寝ますね。」と言って、部屋を後にしました。鈴さんは笑顔でおやすみと言いましたが、私はそれにも小さく頷いてから部屋を出ました。
私は自分の部屋に戻った後、力尽きたかのように床に崩れ、声を漏らすことなく泣きました。もとから低い確率がわずか一パーセント未満、いや零点一パーセント未満になった瞬間でした。まだわずかながらの確率はあるものの、もうほとんど希望があるとは思えませんでした。
あの日以来、鈴さんが私に話しかけることはあるものの、私から鈴さんに話しかけることはありませんでした。鈴さんと喧嘩したのかとおねぇちゃんはよく尋ねますが、相談しようにも話題がおねぇちゃんのため、私は何も話せずにいました。
唯一相談が出来たのは、まだおねぇちゃんと鈴さんに面識がない結城ちゃんでした。結城ちゃんは詳しいことまでは聞こうとはしないため、私が話す一方だったのですが。
この件について、私は結城ちゃんにどのくらい相談したかは覚えていません。相談するたびに、私は泣きじゃくっていました。諦めなければいけないこの気持ちを、私はどうすれば分かりませんでした。
結城ちゃんには「めんどくさい女」なんて思われても可笑しくはありません。けれど、結城ちゃんは口出しをすることなく、ただ私を抱きしめてくれてました。何度結城ちゃんに包まれたかは覚えていません。そして、何度私は結城ちゃんに包まれたまま寝てしまったのかも覚えていません。けれど、よだれを垂らしていた回数は何故か覚えています。いつか結城ちゃんにはお礼をしなければとは思っています。
私は席から立ち上がり、結城ちゃんの横まで歩きました。結城ちゃんは私が横に来たため、視線を元に戻して私から視線を反らしました。まだ怒っているらしいのですが、視線を反らしてもらっている方が効率が良くていいので、私は何も言わず、ゆっくりと顔を近づけます。
私は結城ちゃんの頬にほんの少し唇をつけました。昔おねぇちゃんが、私が怒っている時や悲しんでいる時によくやってくれていました。今はあまりしてくれないのですが、今は私の方から、よくおねぇちゃんにしています。こうすることで、私たち姉妹は、先程までの感情が吹き飛んでいくような感覚になりるのです。他人の感覚のため、結城ちゃんが落ち着くかは定かなのですが、これで少し落ち着いてくれればとは思っています。
私が結城ちゃんの頬に触れると、結城ちゃんは目を見開きこちらに振り返りました。そうなることは予想の範囲内だったため、私は直ぐ様結城ちゃんから離れました。
「やっとこちらを見てくれましたね。」
私はそう言うが、多分今の結城ちゃんには私の言葉は届いていないと思います。結城ちゃんは私を見たまま固まっているからです。けれど、これで多分機嫌を直してくれるはずです。私が結城ちゃんなら絶対に許します。
「結城ちゃん、反応してください。」
私はそう言うと、結城ちゃんの頬を手で触れようとします。すると急に結城ちゃんが触れようとした方の腕を掴みました。少し驚きましたが、私は動揺しているような行動は起こしませんでした。
その状態でしばらくの間、私と結城ちゃんは見つめあったまま沈黙していましたが、それを打破するかのように結城ちゃんが口を開きました。
「貴女、私にキスをするってことは…。」
その言葉を聞いたとき、私の脳裏にある記憶が蘇ってきました。
それは私と結城ちゃんが出会って間もない頃、担任の教師が結婚する際に結城ちゃんに質問されたことでした。
ー何をすれば結婚するのです?ー
まだ幼かった私も、そのことについてはよくわかっていませんでした。そのため、あのときの私は結城ちゃんにこんな感じに答えました。
ーキス何じゃないですか?ー
幼かった頃の何気ない日常会話だったので記憶が曖昧ですが、確かそんな感じのことを結城ちゃんに言ったような記憶はあります。
つまり、結城ちゃんは私にそう言おうとしているのです。流石に結婚まではいかなくても、それに近いことを言おうとしているはずです。けれど、結城ちゃんはもう中学二年です。女の子同士の恋愛は世間から批判する声も少なくありません。
「あのぉ、よろしいでしょうか?」
いつからそこにいたのかは分かりませんが、先程と同じ若い女性の店員さんがパスタとピザを運びに来ていました。パスタは私のものでピザは結城ちゃんのものです。
私は今の状況から、この女性店員さんは私たちのことをそうだと思っているでしょう。頬に触れようとしている手を掴んでいた結城ちゃんは、何やら焦りながらもサッと手を離しました。結城ちゃんも私と同じことを考えているに違いありません。
ここはこの状況を作った私が謝ろうと思い、私は店員さんの方を向き口を開こうとしたときでした。
「ねぇ。」
私の間に入ってきたのは、女性店員さんではなく結城ちゃんでした。私は開こうとした口を元に戻し、結城ちゃんの方に振り返りました。女性店員さんも一度、料理を運んできたと思われる荷台らしきものの上に置き、結城ちゃんを見ました。結城ちゃんは耳の辺りまで赤く染め、髪を指でくるくるとしていましたが、その手を止めて席から立ち上がりました。私は結城ちゃんが店員さんの前に向かうのだと思い、結城ちゃんが通れるように横にズレようとしました。
しかし、結城ちゃんの考えは違っていました。結城ちゃんは私に向かって来たのです。と言っても、二、三歩程度の距離です。
そして、結城ちゃんは急に私に抱きつきました。これには私も女性店員さんも驚きを隠しきれませんでした。中学二年らしくない胸の膨らみが、私の貧相な胸に当たっています。おねぇちゃん程はないのですが、鈴さんよりは圧倒的に大きいです。
けれど、女性店員さんの目の前ということもあり、私は結城ちゃんが抱きついてきた驚きよりも、店員さんに見られているという恥ずかしいという気持ちの方が上回っていました。私が離れようとしても、結城ちゃんはただただ私を抱きしめています。
「ちょっと結城ちゃん。さすがに恥ずかしいので離れてもらっても…。」
「そこの店員さん!」
私の言葉に割り込んできた結城ちゃんは女性店員さんを呼びました。女性店員さんは私たちをずっと見ていたようでしばらく反応しなかったのですが、結城ちゃんがもう一度呼ぶと反応しました。「はいっ!」と返事をしたのですが、動揺を隠しきれず裏声になっていました。
結城ちゃんは小声で何やらぶつぶつと言っていました。結城ちゃんの癖と言うべきでしょうか。結城ちゃんは緊張しているとき、こうしてぶつぶつと唱えています。一度、結城ちゃんに何を唱えているのかと聞いたところ、結城ちゃんは即答で「円周率」と答えていました。どこまで覚えいるかは定かではありませんが、かなりの桁を暗唱しています。一度、二十分ほど永遠にぶつぶつと言っていたときがありました。
しかし、今日はかなり早くそのぶつぶつが終わりました。結城ちゃんは小さく「よしっ。」と言い、一度大きく息を吸い込み大きく吐き出しました。そして、結城ちゃんは口を開きました。
「私たち、先程こういう関係になりましたので、用が済んだら戻ってくださいます?」
結城ちゃんがどんな表情で言ったかは定かではありませんが、わずかに触れている結城ちゃんの耳から、かなりの熱を感じます。かなり照れているに違いありません。しかし、やはり私の予想は外れていないらしいです。こういうという部分が結婚で無いことを私は願いました。
女性店員さんは結城ちゃんの言葉に返答することなく、てきぱきとやることなすこと終え、部屋を早足気味で出ていきました。部屋の外で転けたような音が聞こえたあと、耳に入ってくるのはわずかな横の個室からの声でした。しかし、その音よりも体全体から感じられる結城ちゃんの心臓の鼓動の方が大きく聞こえるように感じます。
前にも言いましたが、私が悲しんでいる時に結城ちゃんは、私を抱きしめてくれます。何も言わずに何もせず、ただただ私を抱きしめています。けれど、結城ちゃんがどのような心境で私を抱きしめているのかは知りませんでしたが、私は今それを知りました。私が結城ちゃんに抱きしめられる瞬間のドキドキした気持ちと似ていますが、それを遥かに上回るドキドキした心境だと私は知ってしまいました。これが今この瞬間のみかもしれませんが、それでも結城ちゃんの心臓の鼓動は早さを増すばかりでした。
しかし、結城ちゃんから伝わってくる心臓の鼓動とは別に、一定のリズムが私に伝わってきました。訂正すると、私の鼓動が結城ちゃんの鼓動とリズムを合わせるように鳴っています。いつものことなのですが、今は違います。いつものドキドキは驚きなのですが、今は結城ちゃんに対してのものだと思います。
しばらくの間、私と結城ちゃんは抱き合ったままでした。心臓はよりいっそう早さを増し、心臓が潰れそうなぐらいドキドキしていました。それは結城ちゃんも同じです。お互いに顔は見せていないので、今結城ちゃんがどんな顔をしているかは分かりません。ですが、結城ちゃんが今どんなことを考えているかは大体見当がつくきます。結城ちゃんが今考えていることを私に伝えてくれれば、こんなにも結城ちゃんのことを考えなくて済む、何てことを考えているうちに結城ちゃんが私から離れました。しばらくそれに気付かなかった私は、少しの間放心状態に近い状態になっていました。まだ少しだけ、結城ちゃんの耳に触れていた感触が残っている。
「ねぇ、貴女…。」
結城ちゃんが私を呼び、私は結城ちゃんを見ました。その時、結城ちゃんは頬を赤らめて笑っていましたが、目元に残る僅かながらの涙に私は疑問に思いました。その涙の真意は私には分かりませんでしたから。
私はその涙を拭き取ろうと手を差し伸べましたが、その手を直ぐに戻しました。怖かったからです。今の結城ちゃんの状態を私は始めてみるので、結城ちゃんが何をしれかすか分からなかったからです。
「…お昼にしませんか?」
結城ちゃんから言われた意外な言葉に私は驚きましたが、私は驚きを隠しました。私が結城ちゃんが考えていることを悟ってしまったから、結城ちゃんはあんなことを言ったのでしょう。結城ちゃんが何を隠しているかは分かりませんが、それでも私は知りたいです。何故、結城ちゃんが涙を流していたのか、結城ちゃんの口からハッキリと伝えてほしい…。
違う…。伝えたいのは、私…だよね。
そんな変なことを思いながら、私は「わかりました。」と言って席につきました。
私は食べている途中、結城ちゃんを見ました。熱いものを口にすると「あふぅ」と食べる結城ちゃんの仕草に見とれると共に、私が何故結城ちゃんをこんなにも想っているのかが、このときハッキリとわかりました。
どうやら、まだほんのわずかな可能性に、私は賭けているようなのです。
西に沈み行く太陽を見ながら、私は結城ちゃんと電車に揺られていました。まだ五時前と早い帰宅なのですが、結城ちゃんはある人と会う予定がある見たいなので帰宅しているのですが、晩御飯を済ませる気でいた私の頭のなかは、綺麗な太陽を見ているのにも関わらず、晩御飯のことでいっぱいでした。
お肉は明日までのが朝昼晩の三セットだから使えない。野菜は一昨日買い置きしていたのでなんとかなるけど、たんぱく類がない…。せめて二本早いので出ていれば、タイムセールスに間に合っていたけど…。
私は私の肩を枕がわりにして寝ている結城ちゃんを見ました。お昼の後、私と結城ちゃんの間には微妙な距離があったのですが、結城ちゃんの頑張りもあり、気がつけば仲直りをしていました。たくさん歩いて、たくさん買って、たくさん食べてと夏休みを堪能することができました。これもそれも、全部結城ちゃんのおかげです。
それに、私の知らない結城ちゃんが知れて良かったとも思っています。ゲームセンターでは、お嬢様という見た目とは裏腹にシューティングゲームで高記録を叩き出していました。ユーフォーキャッチャーの賞品も、意図も容易く手にいれていました。私が部活で遊べない日などに、よく通っていると結城ちゃんは話していましたが一体どれほどのお金を費やしたかは、考えるだけで寒気がします。
また景品を手に入れすぎたため、結城ちゃんは見ていた小さな子供たちにそれらの八割ほどを分けてました。同級生や歳上には厳しい態度を見せる結城ちゃんでしたが、年下には優しい態度で子供たちと笑っていました。
「何笑って見ているのですか、貴女は。」
私が後ろからクスッと笑ったことに照れ気味で怒られました。子供たちに「ありがと、おねぇちゃん。」と言われてテレる結城ちゃんを見て、笑えないほうが可笑しいですよ、と言った私に、結城ちゃんは持っていた大きめの熊のぬいぐるみをフルスイングで私の顔面に投げつけてきました。もちろん、私は顔面に直撃しました。また、熊のぬいぐるみの鼻が意外にも固く、鼻があたった額にはまだ赤く跡が残っています。痛みは無いのですが、跡が早く消えてくれることを私は願いました。
私は大きな袋の中から、結城ちゃんに投げつけられた熊のぬいぐるみを取り出しました。私、そんな子供っぽいのは要らないんで、貴女に差し上げますわ、とか言っていた結城ちゃんでしたが、このぬいぐるみを取るのが一番手こずっているように見えました。六回ほどお金が入っていくのを私は見逃してはいませんが、結城ちゃんのプライドを傷付けるわけにはと思い、私は黙っておくことにしました。
まぁ、結城ちゃんから貰ったものなら何でも嬉しいんですけどね。
私は寝ている結城ちゃんに微笑むと、それに反応したかのように、結城ちゃんはフッと口元を緩めました。どうやら、楽しそうな夢でも見ているのでしょう。
私は取り出した熊のぬいぐるみを膝の上に置き、結城ちゃんに隠すようにして置いてある袋を熊の両手を私の両手で持った状態で見ました。
もちろん、中身は結城ちゃんへのプレゼントです。午前中のうちに買っておいた、私とお揃いのリストバンドです。何かと結城ちゃんからはお土産やプレゼントを貰うので、少し奮発して良いものにしときました。気に入ってくれるとありがたいのですが…。
「結城ちゃんはどう思ってるのですかね?」
私は熊のぬいぐるみに話しかけますが、勿論返答はありません。むしろ返答があってしまえば困るのですが…。
電車のドアが開き、少しひんやりとした夏風が車内に入ってきました。潮の香りがするのは、駅がちょうど海の前だからだと思います。
私は遠くに見える海を眺めます。おねぇちゃんたちは違う海に行ったのですが、何となく、そこにおねぇちゃんがいるように思えたからです。
「ん…。」
結城ちゃんの寝起きらしき声が聞こえ、私は結城ちゃんを見ました。
「起きちゃいましたか?」
私が小さな声で尋ねると、結城ちゃんはゆっくりと私の肩に置いてある頭を上げ、こちらに視線を移しました。まだボーッとしている結城ちゃんの目は半開きで、おまけによだれが少し垂れています。お世辞でも可愛いとは言えません。
私は念のため、肩によだれが垂れていないか確認しました。案の定、遠目からは見えないと思うのですが、近距離からだと見えるほどの大きさの跡が残っていました。
「貴女…。」
ドアが閉まる音が聞こえたと同時に、結城ちゃんはそう言って直ぐに私の膝にうつ伏せになるよう倒れこみました。私は膝に置いてある熊のぬいぐるみを、すかさず退かします。
「結城ちゃん?」
私はリストバンドの入った袋を熊のぬいぐるみで隠すようにして置き、結城ちゃんの肩を軽く叩きました。しかし、結城ちゃんが反応することはありませんでした。
…お疲れみたいですね。
私は叩くのを止め、結城ちゃんの頭を軽く撫でます。結城ちゃんは何事もなく、私の膝の上でぐっすり寝ています。
結城ちゃんから、先程お店で試していたシトラス系の香水の香りがしてきます。その香りがどことなく鈴さんのシャンプーの香りと似ているような気がしたため、私は自分の香りで今の結城ちゃんの香りを上書きしてやろうかと思い、ポーチの中から香水を取り出しました。私たちの家族でおとぉさん以外が持っている香水で、フローラルの香りがします。平日や部活動がある日などはつけないのですが、お出掛けの際には必ずつけて持ち歩いています。
私は結城ちゃんの手をとり、手の甲に香水を湿らす程度につけます。シトラスの爽やかな香りにフローラルの甘い香りを加えているため、女性らしい香りになったような気がします。
いい香りです、結城ちゃん。
私は結城ちゃんの手の甲を軽く香り、起こさぬようゆっくりと結城ちゃんの手を下ろしました。遠目から見れば変態行為ですが、幸いこちらを見ている人はいません。見られても構いはしないのですが、おかぁさんによく似ていると言われる私の存在がバレないかという考えの方が、私の脳には溜まっています。
私は視線を気にしながらある考え事を悶々としているうちに、気がつけば車内アナウンスが鳴り響いていました。どうやら、最寄駅に着いたみたいです。
「結城ちゃん、着きましたよ。早く起きてください。」
私は結城ちゃんを膝の上から起き上げ名前を呼びますが、結城ちゃんが起きそうな気配はありませんでした。
「結城ちゃん。起きないと寝過ごしますよ。」
いくら揺らしても、それにそってガクンガクンと揺れるだけです。死んでいるのではないかと思うぐらい、結城ちゃんからは一切の反応がありません。
本当に死んでいるのでは…。
私は結城ちゃんの鼻を指で摘まみます。息が出来ないので起きるはずなのですが、これで起きなければお昼の時みたいなことをするつもりです。また気まずい状況になったとしてとも、それで結城ちゃんが起きるのならば構いません。
そんな私の考えを察したかのように、結城ちゃんは急に目をカッと開けて起きました。やはり息は出来なかったみたいで、少し過呼吸気味になっています。
結城ちゃんが起きたのとほぼ同時に、電車が完全に停まりドアが開きました。私は目覚めてすぐで且過呼吸気味の結城ちゃんの手を取りもう一方の手で買った荷物を持つと、人と人との間をくぐり抜け、何とか電車から出ることが出来ました。
「ちょっと貴女。私はまだ寝起きなのですよ?」
結城ちゃんは少し怒り気味でそう言い、私が握っていた手を振りほどきました。
「寝起きだろうが何だろうが、あのまま寝ていれば、結城ちゃんだけ置き去りにしますよ?」
私は外の暑さに耐えきれず、首回りを冷却スプレーで冷やしました。結城ちゃんも欲しそうな顔をしていたので、私は結城ちゃんの首回りもスプレーで冷やして上げました。「ひゃっ!」と結城ちゃんは声を出しますが、すぐさま口に手をあてました。隠したところで、私のメモリーには録音されているのですが…。
「ところで貴女。」
私は結城ちゃんに呼ばれ、すぐにスプレーをしまいました。
「どうしたのです、結城ちゃん?」
私は鞄を肩にかけ直し、結城ちゃんの方に振り返ります。すると結城ちゃんの手には、熊のぬいぐるみで隠しておいていた袋を手にしていました。私が何処かで落としたか、または電車内に忘れたところを結城ちゃんが拾ってくれたのだと思います。熊のぬいぐるみを持った時点で確認するべきでした。
「あ、それ私…。」
「ラッピングの仕方や袋の柄からして恋人にでも渡すはずのものですけど。一体どこのどなたが忘れたのやら…。」
私の言葉が結城ちゃんの言葉に上書きされ、結城ちゃんは聞き取ることが出来なかったみたいです。と言うより、私が口を開いたことに気づいていないでしょう。
「だからその、それは私が…。」
「ですから、持ち主らしき人は回りにはいませんですし、私が貰っちゃっても構いませんよね?」
またも結城ちゃんは、私に言葉を重ねます。正直なところ、少しイラッとしたのですが、結城ちゃんの言葉に私は返答の仕方が分かりませんでした。
私は考えるフリをして袋をチラリと見ます。そもそも、あれは結城ちゃんに買ったものです。私のと合わせて二つ入っているので、結城ちゃんがこの場で開ければ片方を私に渡すと思います。
しかし、真面目な私が開けることに了承してしまえば、結城ちゃんは私を怪しむはずです。昔、同じような状況になった際、私は駅員さんに渡しました。そのことを覚えていれば、結城ちゃんに買ったサプライズプレゼントだと分かってしまい。まぁ、結城ちゃんが持っている時点で、サプライズは失敗しているのですが…。
私がどうしようか迷っている間に、結城ちゃんの携帯が鳴り響き始めました。結城ちゃんは慌ててポケットから携帯を取り出し、一つ咳払いをしてから電話に出ました。どうやら、結城ちゃんと暮らしているメイドさんみたいです。
結城ちゃんは何やら怒り気味で話した後、携帯をポケットに投げ入れるようにしまいました。結城ちゃんの携帯がよく壊れる原因です。確か、今のが八台目とか言っていました。
「客が予定より早く来たからと言って、私の予定を狂わせないでくれます?」
結城ちゃんはひとりぶつぶつとそう呟いていました。どうやら、かなりお怒りのようです。
私が声をかけようとすると、結城ちゃんは急に走り出しまし、そのまま何処かへ行ってしまいました。急なことだったため、私は驚きのあまり尻餅をついてしまいました。
しばらく尻餅をついたままの私でしたが、駅員さんの助けのもと私は立ち上がりました。周りからは心配そうな目で見られていたことに気づき、私は駅員さんの手を振りほどきました。私本人ですら忘れることがあるのですが、私はかなりの人見知りで私の地域外は知り合い同伴じゃなければ外出できないほどです。
私は駅員さんに何度か頭を下げ、小走りでその場から離れようとしました。すると、いかにも不良とでもいえるような女性が私の腕を掴んできました。私は人見知りのこともあり半ばパニック状態に陥っていましたが、結城ちゃんが持っていたはずの袋を彼女が持っていたため、私は少しだけ落ち着きました。
「これ、あんたの?」
私は小さく頷くと、彼女は袋を差し出してきたので袋を手にしました。中身はリストバンドなので確認しなくとも大丈夫でしょう。
「ありがとうございます…。」
私が口ごもるような声でそう言いと、「聞こえねぇんだよ!」と近距離で怒鳴られました。私は今にも泣き出しそうになりましたが、グッと堪え、もう一度ハッキリとした声でお礼を言いました。
「何だ、ちゃんと出るじゃん。」
そう言って彼女は掴んだ腕を離し、掴んだ腕の方の手に何かを押さえるように入れ込みました。あまりの強引さに、私は思わず手を振りほどきそうになりますが、彼女の逆鱗に触れてはいかまないと、涙を堪えながら我慢しました。
「ほら、これでいいだろ。」
彼女が私の手を離したので、私はすぐに手に握っているものを確認しました。そこにはティッシュを丸めたようにくしゃくしゃになっている千円札が入っていました。 私はてっきり、危ない薬か何かだと思っていたのですが、これはこれで動揺します。
「あの、このお金は…。」
私が頭を上げると、彼女は電車のなかに入って行っていました。彼女は私を見ることなく「それでタクシーでも適当に乗っとけ」と大きな声で言いました。私を助けてくれた駅員さんや他の駅員さんが彼女を取り押さえようとしましたが、電車の発車時刻となり、彼女は電車と共に何処かへ行ってしまいました。
電車が見えなくなり、私は彼女の言われた通りにタクシーを捕まえて帰宅しました。料金は、彼女から渡されたお金よりは少ないものの、その差はたったの二十円ほどでした。