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変わりたくないですか

作者: 佐久間ユウ

 多摩川通りの渋谷方面は、昼前にもかかわらず混んでいた。自動車販売店の大橋営業所を出て、道玄坂上を過ぎたあたりから混みだした。信号が赤に変わり、車を止めた。山手線の高架が陽炎で揺れている。

 自動車セールスの駒井三郎は53歳、最近、夏ばてぎみだった。熱帯夜が続いて眠れず、体がだるく、頭がぼうっとする。

 信号待ちをしながら、ちらりと助手席に目をやる。

 新車の購入を考えているのは30代の女性だった。サングラスをかけ、赤いワンピースに白いカーディガンをはおり、長い足を大胆に組んでいる。身なりもよく、資産家の夫人のようだ。

「奥さんも、運転されるんでしょう」

 駒井は話しかけた。

「いえ、ほとんど運転はしません。新車の購入を考えているのは主人のほうなんです。本当は主人が試乗すればいいんですけど、わたしの乗り心地のいい車を選びなさいと、まかされたんです」

「そうですか。いいだんなさんですね」

 ルームミラーに駒井の顔が映る。

 ひょうたんを逆さにしたような顔立ちで、細いあごに比べて頭が大きく、頭頂部の毛が抜けて光沢があった。黒縁の眼鏡を乗せた鼻すじは長く、その横にあるほくろがよく目立った。

「ただ、マニュアル車はあまり得意じゃないんです」

 奥さんが足を組み替えた。

 駒井の眼鏡の奥の目も、それにつれて動く。

「この車でしたら大丈夫ですよ。操作性は抜群ですから。ギアの利きがよく……」

 信号が変わり、車の列が動きだした。

 クラクションの音に、駒井は慌てて視線を女の足から外した。クラッチをつないでギアを入れる。とたんにエンストした。

 クラクションが高まり、四方で響いて流れていく。車の渦に巻かれ、駒井の車だけが取り残された。突然の増水に岩場で孤立した釣り人の心境だ。ぼうっとなった頭に警笛が飛び交う。音はしだいにかすみ、間遠になって、とうとう駒井はハンドルから手を離してしまった。

 ……

 駒井はその後、大橋の営業所で自分より若い上司に叱責された。駒井が失神したあと、試乗していた女性客が営業所に連絡し、社員に迎えに来てもらったのだ。客は、他の店でも検討しているので、と去っていった。

「おまえはバカか。何年、車のセールスをやっている」

「はい。33年になります」

「そんなことを聞いているんじゃない。今月になって、いったい何台、車のセールスをしくじっているんだ。5台です、なんてバカ正直に答えるなよ。こんな失態は前代未聞だぞ」

「わたしも33年勤めていますが、そのような話は聞いた覚えがありません」

「もういい。きょうは帰れ。おまえの代わりなら、いくらでもいるんだ。なんなら2度と出社しなくていいからな」

 駒井はうつむき、筋張った体をすくめ、よろよろと営業所をあとにした。

 昼下がりの児童遊園に来た。駒井には行くあてなどない。木陰のベンチにしょんぼり腰かけた。

 夏休みに入り、公園は子供であふれていた。輝く笑顔と弾ける笑い声のなかで、駒井の座るベンチだけが異質な闇を放っているのだろう。誰も近づこうとしなかった。

 駒井はいまだ独身だった。両親は10年前に亡くなり、数少ない親戚とは疎遠になって久しい。もちろん家族はいない。友人、知人にもとぼしく、会社だけが社会との絆だった。主任は辞職をほのめかしていたが、いまさら転職なんて考えられない。会社を辞めれば、2度と社会に復帰する機会はないだろう。つくづく自分が嫌になった。こんな自分なんか――。

「変わりたくないですか?」

「えっ」

 駒井は顔を上げた。

 真夏の日差しが逆光となって、恰幅のいいシルエットを浮かび上がらせている。

「ものは考えようなんですよ。大切なのは肯定的なものの考え方です。モチベーションによって人間は変わります」

「――はあ」

 陽射しがまぶしく、駒井はしきりに目をしばたたく。

「失礼。わたしはこういうものです」

 男が名刺を差し出した。

 そこには『自己啓発センター代表、畑中新之助』とあった。

「どうです? ちょっと散歩でもしながら、話しませんか。わたしはあなたを、変えられると思いますよ」

 畑中が、にんまりと笑って見せた。

 40歳半ばだろうか。脂ぎった顔は浅黒く、両目は離れぎみで、鼻があぐらをかいている。ぶあつい唇で愛想笑いを浮かべていた。

 頭上で、ジジッ――と鳴いて、セミが一匹飛び立った。

 ふたりは大橋から渋谷の繁華街までぶらぶら歩いた。駒井は自分の不幸をぽつぽつ語りはじめた。畑中がいちいちうなずく。

 日が傾いても暑さは去らなかった。畑中はしきりに汗を拭いていたが、体にぴったりした背広を脱ごうとはしなかった。

 飲み屋の準備中の札がしまわれるのを見て、ふたりはどちらともなく、のれんをくぐった。

「なにごとも自分に都合よく考えればいいんですよ」

 畑中はジョッキを一息に飲み干し、白い歯を見せて笑った。

「そんなものですかね」

 駒井は、ちびちびとジョッキを傾ける。

「例えばあなたがレンタル店でCDを借りようかどうか迷ったとする。気にいれば購入したいと考えていた。ところが気に入らなかった。あなたはレンタル賃の300円を損したと思いますか」

「まあ、そうですね」

「そこですよ。レンタルしないでCDを購入していたら3000円も損していたんですよ。差し引き、2700円の得じゃありませんか。そう考えられるかどうかです。すべてを肯定的に考えられる人は幸せな人生を送れます。確かに決定的な不幸というのは、あります。それは向こうから勝手にやって来ますからね。日常的な幸不幸の多くは、考えかたしだいで決まるんですよ」

 駒井は、畑中の弁舌に圧倒された。

「では」と畑中が続ける。

「あなたが不幸のどん底にいたとする。あなたはますます不幸になると悲観しますか、それとも、どん底にいるんだから、これからは幸せになると期待しますか」

「それは……」

「幸せになると考えたほうが素敵じゃありませんか。それがモチベーションを上げるこつです。向上心しだいで人間は変われます。変えられるんです」

「いや、わたしなんて」

「まだ言いますか。あなたはもっているんです。今日、あなたは信じられないしくじりをした。主任にどなられ、会社を早退し、公園でひとり落ちこんでいた。だからこそ、わたしに出会えたんじゃないですか。自分を変えるチャンスに巡りあえたんですよ。あなたはもっている。そう自分に言いきかせてごらんなさい。駒井さん、あなたはもっていると」

「……わたしは、もっている」

「そうです。そう考えれば気分がよくなるでしょう。そうやってモチベーションを上げていくんです」

 言われてみれば気分がいい。なんだかうきうきしてきた。アルコールがまわってきたせい、ばかりではなさそうだ。

「どうです。こんど、わたしが主催するモチベーションアップセミナーに参加してみませんか。わたしはあなたのお役にたてそうですよ。あなたのお話をもっと聞かせてください。生い立ちや境遇や趣味など、いろいろとね」

「わたしの生い立ちなんてつまらないですよ」

 とは言うものの、駒井はまんざらでもなかった。

「では来週。詳しいことはあとでご連絡します。そうと決まれば祝杯をあげましょう。未来の変身を祝して、冷酒なんかどうです。あなたの顔を見ているうちに、とっくりが恋しくなりました」

 畑中がとっくりを持つまねをする。

 駒井のひょうたんに似た顔から連想したのだろう。

「いいですねえ。新しい自分に乾杯しますか」

 駒井は生まれ変わった姿を想像し、そのモチベーションは高まった。


                * * *


 駒井はみるみる変わった。まるで人間が変わったかのようだ。顔は生気にあふれ、声は生きいきと、動作には張りがあった。駒井の肯定的な言葉は客の気分を好くし、積極的な態度が客の購買意欲をうながした。

 車は売れに売れ、駒井の営業成績は飛躍的にあがった。8月の月間セールスではトップにおどりでた。主任も駒井の変わりようには、目を見張るばかりだった。

 大きな拍手があがった。

 駒井が、店長から表彰を受けている。

 景気低迷による売り上げ不振にもかかわらず、とびぬけた業績を上げた駒井に、会社から社長賞として賞状と金一封が出たのだ。

 営業所の休憩室に社員が集まっていた。長テーブルと椅子を壁ぎわに片づけた室内に、20名ほどの社員が窮屈そうに並んでいる。

 同僚の拍手は心からのものだった。

 駒井は自分の成績を鼻にかけず、仲間に対する態度は寛大で、後輩の相談には快く応じた。誰もが駒井を見直し、好意を抱き、社長賞の授与を讃えた。

 主任に言葉を求められ、駒井が一歩前に出る。

「みなさん。モチベーションのもちようで人間は変わります。自分を肯定的に考え、相手を否定しないことによって、人間関係は良好になり、円滑に進むのです。お客さんは車を求めて営業所を訪れます。その最終的な決断をうながすのは、まさにわれわれ販売員の人間性であります」

 再び盛大な拍手があがった。

 見違えるようになった駒井が、休憩室内を見まわしている。その表情は穏やかで、長い鼻すじの横のほくろがよく目立っていた。


                * * *

 

 短い夏が終わり、新学期が始まった。子供たちは公園からいなくなり、季節は秋へと移り変わりはじめた。暑い日はまだ続いている。うろこ雲を赤くにじませた太陽が、過ぎ去った夏を名残り惜しんでいるようだ。

「早く。こっちだよ」

 ランドセルを背負った少年にうながされ、古びた塀の倒壊したすきまを抜けた。

 やれやれ、と膝についた土を払う。「冒険したい場所があるから、いっしょについて来てよ」と少年に頼まれたのだ。

 好奇心おうせいなのはいいが、つきあわされるほうは大変だ。

 そこは灰色の塀に囲まれた狭い敷地だった。いたるところに雑草がはびこっている。頭上をおおうクスノキが大きな影を落とすなか、モルタル四階建ての古いビルがたたずんでいた。

 少年が、そのビルの出入口へと案内する。

「ここなんだ。怪しいやつがひそんでいるのは」

 まじめな表情で言う少年に、ほほえましい気持ちになった。

 ビルにひと気はなかった。明かりは灯っておらず、現在も営業しているようには見えなかった。壁に立てかけられた看板に、『モチベーションアップセミナー』と大書されていた。

「あっ」と少年が看板の角に、なにかを見つけたらしい。

 少年が背伸びしてつまんだのは、茶色く乾いたセミの抜けがらだった。そんなものでも宝物だった時代を思い出し、なつかしく感じられた。

 ふいにクスノキの葉むらが騒いだ。ざわめきが周囲の樹々へ伝わっていく。なんだか胸騒ぎがして、足がすくんだ。

「ここから先は見つからないように注意しないとね」

 少年が先に立ち、ビルのなかへ足を踏みいれる。

 そこは薄暗いホールだった。いくつもドアが並んだ廊下が暗闇のなかに消えている。ホールのすぐ横は、階段の上がり口だ。

 少年が家から持参したのだろう、ランドセルから懐中電灯を取り出し、足もとを照らす。2人で廊下を進み、最初の部屋に入った。

 なかは学校の教室のような場所で、長いテーブルが何列も濃い影をつくる。奥にホワイトボードが置かれ、演壇がひときわ黒いシルエットになっていた。

 ホワイトボードの横の壁に、なにかがぶら下がっている。

「なんだよ、これ」

 少年が懐中電灯の光りを向ける。

 それはゴムともビニールともつかない、しわくちゃの茶色い全身タイツのようなものだった。もたげた頭部の両側に毛髪が生えている。その表面にはふたつの穴が開き、鼻らしき突起の横に大きなほくろがあった。

 思わず、ぞっと総毛だった。

「うわっ、気持ち悪い」

 少年が声をあげる。

 べちゃり――と部屋の外で、なにか重く粘液質のものが音をたてた。

 少年と顔を見合わせる。

 べちゃり、べちゃり、とそれはホールの横の階段を下りているようだ。ひときわ大きな音が響き、ホールに降り立つ。静まりかえった廊下をずるずると這い進みだしたらしい。

 懐中電灯の明かりを消すように言い、少年と演壇のかげに隠れた。

 それが部屋に侵入するのが気配でわかった。ぬめぬめと体を引きずる音が迫る。演壇の前を通りすぎ、ホワイトボードのほうに向かったようだ。

 演壇の陰から、恐るおそるのぞく。

 大型犬ほどの大きさだろうか。暗い室内に、灰色っぽいかたまりが際立っている。べちゃりと身をもたげ、壁にかかった茶色いタイツらしきものにとりつく。全身をくねらせ、伸縮させて、いそいそと身につけはじめた。

 背後で少年が震えているのがわかる。

 恐ろしかった。心臓が脈打ち、その音がやけに大きく響く。冷や汗でシャツが背中にはりつく。身じろぎひとつできなかった。

 ふいに少年が悲鳴をあげた。

 演壇の陰から飛び出し、並んだ机のあいだを抜け、廊下に逃げだした。叫び声と走る足音が遠ざかり、消えた。室内は再び静けさを取り戻した。

 腰を浮かしたあなたは、そいつと目があった。

 薄闇に慣れた目に、相手の、しまった、という表情がうつる。

 ひょうたんみたいな顔立ちで、長い鼻の横に大きなほくろがある。50歳は過ぎているようだが、ぴったりはりついた肌色の背中は精力的に見えた。

 男は気を取り直したらしい。

「あなた」と呼びかけられる。

「そう、あなたです。あなたも変わりたくないですか」



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