S、現る……って困るんだけど
やっとの思いで図書館へ到着した私を迎えたのは、貸し出しを今か今かと待っていた一匹狼同志だ。
しかし、いつもと皆の様子が違う。何だかこちらを妙に気にしているようだ。一体何なのだろう。
とりあえず、貸し出しカウンターにおさまり、本を持ってくるのを待つ。……に、しても。
「んごっほん!」
一つ咳払いをすると、私をチラチラと伺っていた視線は、そそくさと書棚の奥へ隠れる。
何だ! 何なのだ! 自分だけがこの状況の意味を理解できない気持ち悪さで、私はまた不機嫌になった。
「……あのう」
何者かの影が私に掛かった。顔を上げると、そこには最近良く来るようになった一年生女子が。
「貸し出しか? カードに記入は」
「鈴木先輩とお付き合いされるんですか!?」
私の言葉を遮って、とんでもない発言をした。
「……何だと?」
一気に私の表情が変わったのを見て、一年生はやや怯えたが、それでもなお食い下がってくる。
「さっきの会話、こっちに聞こえてました。鈴木先輩、声が大きいから。お付き合いされるつもりですか」
さっきの会話って……ああ、いきなり交際を申し込んできたあれか。それで皆、私の方を……。
私はきっぱり断ったはずだが?
この子は何を言っているのだ。
「先輩、あの人はやめた方がいいですよ。私が入学してから知る限り、もう三十人と付き合ったという噂です。余計なお世話かもしれませんが、私心配で……」
なるほど、この一年生は私に忠告をしてくれるのだな。
「ありがとう。だが、心配は無用だ。あのような軽薄な男性は私の趣味ではない」
「そ、そうですか、安心しました! あの……」
おや、まだ何かあるのだろうか。
「お……お……」
「……お?」
「お……っ、お姉様と呼ばせてくださいぃっ!」
館内全体に響き渡る、理解できない叫び。
時が止まる。
「…………図書館では静かにしなさい」
やっとのことで絞り出した言葉は何とも陳腐なものだった。
「す、すみません……でも」
「でもじゃない。いいから。静かに。とにかく、静かに」
ああ、また同志達の視線が痛い。
今日は厄日だ。三年生に絡まれ、頭の足りない男にいきなり交際を申し込まれ、今は一年生に姉妹関係を望まれている。
大正時代の女学校じゃないのだから、S(Sisterの略)になろうなど時代錯誤も甚だしい。
「あの……ご迷惑ですか?」
それは迷惑に決まっている。だが恥を忍んで告白してきたであろうものを、素気なく断るのも可哀想だ。
……あの男のような馬鹿ではなさそうだしな。
さて、どうしたものか。
「迷惑……というか、困惑しているのだ。私はその、同性に恋愛感情を抱いたことが無いし、あなたとはほとんど会話したこともない。急に姉になれと言われてもな」
「そ……そうですよね。あ、誤解しないでください! 恋愛感情って訳ではなくて、その、憧れ……なんです。でもお嫌ですよね……」
一年生はやや落ち込んだようだ。無理もない。
しかし申し訳ないとは思うが、だからといってこのようなことは、気軽に引き受けることもできないのだ。
私は誰かとつるむ気は無いのだしな。
と、ふいに彼女の瞳が輝いた。
「あ、それじゃあ」
何? まだ諦めていなかったのか。
一年生よ、私は何を言われてもあなたとSにはならないぞ。
「お姉様を手伝わせてください!」
「は?」
突拍子もなさ過ぎて、間抜けな声が出てしまったではないか。
「手伝う、とは、図書館の仕事をか?」
「はい! こんなに沢山の本を、お姉様お一人で管理されるのは大変じゃないですか。だから、私にもお手伝いさせてください!」
正直、一人でこの蔵書を整理するのは骨が折れる。魅力的な提案だ。
しかし、だからといって……。
「閉館後はお茶とお菓子を毎日ご用意しますから!」
「……お、お菓子……」
私の喉が、ゴクリと鳴る。
「私、お菓子作りが趣味なんです。友達からの評判は良いですよ? お近づきのしるしに、お一ついかがですか、お姉様」
ああ……良い匂い。目の前に美味しそうなスコーンが……。
お菓子、とりわけイングリッシュスコーンは大好物なのだ。
……いや駄目だ。目を覚ませ、ここは図書館だぞ! しっかりしろ、私!
「さあ、どうぞ」
ひいっ! 止めろ! 私の手に乗せるな! あああ……。
「遠慮なさらずに、さあ!」
お許しください、お祖父様……私は弱い人間です……。
「……んむ~! 美味しいぃ……」
食べてしまった……。悪魔の誘惑に乗ってしまった。
自分がこんなに弱い人間だったとは。まだまだ修行が足りないようだ。
しかし、本当に美味だな。これを毎日食べられるなら、一人くらい妹がいても良いかもしれない。
「……これからもよろしく」
「はい! お姉様!」
悪魔に魂を売った私は、この一年生とSになってしまった。
「そういえばあなた、名前は?」
「あ、はい。名前も名乗らず失礼しました。……ちょっと呼びにくいかと……」
と、貸し出しカードを差し出す。
「木下……子猫?」
「……きてぃ……です」
蚊の鳴くような声で言うと、真っ赤になって顔を覆ってしまった。
確かに、子猫のように小柄で可愛らしいとは思うが、これは流石に……。
「キラキラネームですみません……」
親を呼びだして小一時間問い詰めたくなった。