1: Autonym
――――黎暦37年10月 湖水地方 特別自然保護地区ミーナ マングローブ地帯
首都から遠く離れた辺境の地、水に満たされた森の中を俺たちは小舟を漕ぎながら進んでいた。しかし、漕いでるのが俺だけってのが気に食わないところだ。
ショカが言うには、ここは昔からマングローブ地帯なのでこんな場所に居住するようなもの好きはいない、トコイは出ないはずだ、出たとしてもヒトを喰らうような狂暴な奴は出る可能性は低いから安心しなさいという話だったけど……。
確かにここ数時間、ずっと漕ぎ続けているがトコイどころか普通の動物の気配さえない。ひたすら静かだ。日の光がマングローブの葉の間から和やかに差し込んでいる。暑くもなく、寒くもなく、風もない。空気が止まっている。時すらも止まってしまうのではないだろうかなんて、バカげた考えも浮かんでくる。
(それにしたって丸投げはねえよな)
オールを漕ぐ手を休めてそんな風に心の中で愚痴りつつ振り返ると、そこには棺桶の中の死体よろしく、一人の女が横たわっていた。死体ではない、はずだ。こっちが心配になるほどまっすぐな姿勢のまま、その人物は身じろぎ一つしない。ただ船底にその長い黒髪をばらまいている。黒色の長いコートに、黒いズボン。足元にはヒールのある靴が揃えて置いてある。その色も黒。
全身真っ黒のこの女性こそ、俺の恩人であり、何でも屋『ブックエンド』の女主人であり、魔法使いであるショカだ。とある雪深い山村で閉じ籠るように生きていた俺を、色んな事件を経て連れ出した人物。俺に世界を見せてくれた人物。それ自体に感謝がない訳じゃないし、むしろいくら感謝しても足りない。
(やっぱ、そろそろ腕がやばいな)
でも、やっぱそれとこれとはまた違う。
家事はするし、仕事の手伝いだってする。ショカのために俺は自分のできる限りのことはしたいと思う。そう思っていても、この人使いの荒さは解せない。
「あー!俺はアンタの下僕じゃねえっつーの!!!」
思わず、愚痴る。
(……あ、)
愚痴って、しまった。
気づいた時には言葉が先に外に出ていた。慌てて、オールまで取り落とす。水音が盛大に響く。口を慌てて抑えたが、遅い。目の前を鬱蒼と茂っているマングローブが色を変えたように思った。ざわめき、殺気を帯びる。緑の香りが強くなる。
トコイは言葉に反応する。その人のコトダマがどれくらいの力を持っていてどれくらい制御できるのか、そんなことは一切関係ない。
そこに言葉が在る。その事実だけで充分だった。
湿った空気が急激に冷え込んだ。
(くそが!)
腰のベルトに差していたジャックナイフを取り出す。生憎、コトダマを自在に操ることができる魔法使いとは違って、俺はそんなものは使いこなせない生身の一般人だ。そんな分際でトコイの相手なんか出来っこない。いや、使いこなせないだけなら良い。制御できないコトダマを言葉で垂れ流す。行き場のない言葉は異形トコイとなり、ヒトを喰らう。
これまで目にして来た竜種のトコイが頭をよぎる。情けない話だが、柄を握り締めた手はどうしたって震えている。
どうにかしてショカを起こさなければならない。周りを警戒しつつ音を出さないようにゆっくりしゃがみ込んで、ショカの体を揺さぶるが、相変わらず目は覚まさないし、小舟が揺れるばかりだ。
(ああ、ふざけんなふざけんなふざけんなあああ!!!!!!)
自業自得と言うにはいささか理不尽な展開だ。
小舟の揺れは強くなる。そして、
グゥオオオ……
(来た!?)
ちょうど背後、唸り声のした方に目を向ける。まず、全身を覆う硬そうな、でも滑らかな緑の鱗が見えて、そして目線を上にずらすと金色に輝く獣じみた目が見えた。蛇種のトコイだ。目が合う。息が詰まる。尖った牙がむき出しになる。
シャァアアアアアア!!!
「……!」
腹の底から、と言うにはまだ温い。魂の底から響くような唸り声が響く。その響きに俺は溺れそうになる。底に落ちていくような、落とされるような、突き動かされるような、誘われるような。頭の中をめちゃくちゃにされる感覚。思考が定まらなくなりそうで、俺は頭を振る。
ナイフを取り落としそうになって、慌てて握り直した。俺は唸りの濁流に巻き込まれる。上も下も分からない。ただ、トコイの吠える声とその理性のない瞳を感じる。
タスケテ……
ク……ルシィ
イヤ……イヤダ
イタ………イヨ
ォ……カァサ、ン
モット……ホシィ……
ワタシ、ハ……
「俺は……どうして……」
そんな言葉が口をついた。
「【防げ】」
端的で、しかし凛とした声がすべてを裂く。
声に合わせて、俺の傍らを光が飛び過ぎた。鳥のように素早く羽ばたいたそれはトコイと俺の間を飛び回る。
気づくと、荒い息をひたすら繰り返していた。頭が、魂が、反動でぐらついた。急速に酸素を取り戻し、ハッとした。 状況の認識が遅れてやって来る。
俺を救った光はコトダマ。ヒトが生まれながらに魂に持つ力。ヒトを生かし、ヒトを殺す力。
「【断て】」
声は、また世界を晴らすように響く。またコトダマの光が一閃鋭く走った。その一瞬でトコイの頭が吹っ飛ぶ。体は重力のまま浅い水辺に倒れた。いや、倒れる前にそれは姿を変える。
いつもトコイの肉体は残らない。いつも突然、それは放射状の無数の赤い花へと変わるのだ。くるりくるりと回りながら、水面に落ちていく鮮やかな赤。
トコイの死骸。名付けて、ヒガンバナ。
気味が悪い。胃の底が冷えるような、締め付けられるような感覚。吐き気を覚える。
行き場のない言葉は異形トコイとなり、ヒトを喰らう。だから、俺たちはトコイを倒す。殺される前に殺す。けど、この赤を見るたびに鮮明に突き付けられている気がする。トコイを生んだのは、ヒトなのだと言うことを。そして、それを殺すのも。
取り落としていたナイフをしゃがみ込んで拾う。その刃に曇りはない。俺はそれを鞘に戻した。
トコイと退治するのは何度目だろうか。それなりに慣れていたつもりだったけど、やっぱりこの赤だけは慣れない。
立ち上がろうとするが、足腰が覚束ない。まだ揺れている気がする。気分は最悪だ。
「やあ、おはよう」
ひとまず落ち着こうと呼吸を整えているところに上から影が差す。男とも女ともつかない妙な声質で、言葉は優しげに発せられた。今度は目に入ったのは感情がイマイチ読めない青色の右目、そして左目を覆う包帯。呑気そうな表情にめちゃくちゃ腹が立ったので頭突きをかましてやった。
「おはようじゃねえだろ、バカショカ!」
「うぅ、痛い……」
「痛いくらいで何だよ!こっちは危うく死ぬとこだったんだ!いつまでも寝てんな、このダメ魔法使い!」
「落ち着きなさい。大丈夫?」
黒髪がふわりと揺れて、ショカがしゃがみ込む。俺と目線を合わせる。手にはシンプルな白のハンカチが握られていた。
(え……俺)
目が痛い。目元に手をやると涙が後から後から溢れてきていた。
トコイに触れると感情が高ぶるというのはありえないことではない。まさか自分がこんな姿を、よりにもよってショカに晒すことになるなんて思ってはいなかったけど。
どうにかシャツの袖で涙を拭う。ショカは綺麗なままのハンカチを自分のコートのポケットに突っ込んだ。
「まあ、私から言わせてもらえば、今回は独り言なんかを発した君の落ち度だと思うよ、フォリオ。行き場のない言葉はトコイを生み出す。分かっているだろう」
ショカは俺の名前を呼びながら窘める。それ言われたらぐうの音も出ない。それでも頑張って反論を試みる。
「……けど、ショカだって人はいないから凶暴なトコイは出ないっつったろ?」
「私は、出る可能性は低いと言ったんだ。全く出ないとは一言も言っていないはずだよ」
ショカは肩を竦めた。
「小さな言葉が大きな言葉を連れてくるなんてことも世の中にはあるんだよ」
「言葉に大小があるのかよ?」
「あるよ。無論、それは声や文字の大小とはまた別のものだ」
イマイチぴんと来ない。俺は首を傾げつつショカを見た。
まあでも、確かにさっきのトコイはこの辺りにしては大きかったかもしれないね、とショカは小舟の周りを見回す。水面には赤いヒガンバナが無数に浮かんでいた。
2015/11/07 話が動くのは次回から。