0: Prologue
――――黎暦37年6月 首都クレイドル 商業地区ロリーナ
石畳の道を俺は1人歩く。
買い出しは粗方終わって、抱えた茶色の大きな紙袋は2つ。1つは野菜やら肉やらごちゃまぜに、もう一つは真っ赤なリンゴがひたすらに、それぞれ詰まっている。リンゴはアップルパイやジャムに、あるいはブランデーを使って焼きリンゴにしたり蜂蜜漬けなんかにしたりしても風味が出るし、肉と一緒に煮込んでも良い。家事担当としては、やはり料理には力を入れたいところだ。それに何より、リンゴは“彼女”の好物でもある。件の彼女はたぶん馴染みの古本屋と話し込んでいるはずだ。早く迎えに行ってやらないといけない……まったく、これじゃどっちが年上なのか分かりゃしない。
普段からトコイの襲撃が多いせいか、ロリーナは道だけでなく建物も石造りで頑丈な設計となっているようだった。地図で見た感じだと、道幅は狭いものの道は比較的綺麗な格子状になっていたはずだ。たぶん整備もしやすくするためだろう。
このままあと1ブロック先で左に曲がって、そこからさらに2ブロックほど南に行けば、ロリーナのメインストリートに出る。彼女が行っている古本屋もすぐそこだ。
(はてさて、)
見上げると、建物の灰色に挟まれた空が視界に入る。どうにも雲行きが怪しい。
(あ、)
その視界の先で、黒い陰が横切った。大きな翼で空を駆り、風を煽る異形。
「……」
見間違うことはない。その飛翔する姿。
(トコイ……)
あまり騒ぎになっている様子はないし、もしかしたら顕現したばかりなのかもしれない。
ロリーナはクレイドルでも有数の規模の大きな地区だし、星府直属のトコイ殲滅部隊も常駐しているだろうが……
(でも、念のため急いだ方が良いかもなあ)
「おぁ!?」
「あーん?オメエ、一体どこ見て歩ってんだあゴラア」
まずった。
袋からリンゴがゴロゴロと転がり落ちる。坂道になっていなかったのが幸いしてか、それはあまり遠くに行かずに、俺の周りを囲んでいる連中の足元で止まる。
(リンゴ、傷んでないと良いけどなあ)
「良い度胸だな!あぁん!?」
落ちたリンゴから目を離して俺は周りを見回した。よそ見をして歩いているうちに、他人にぶつかったらしい。で、ぶつかっただけならまだしも、
「すみません。よそ見をしていて」
「すみませんで済んだらケーサツもいらねーんだよなあ!」
「お前がぶつかったの、うちのヘッドなんだけどぉ、どーやって落とし前つけてくれんだぁ!あぁん!?」
気づくと8人程の男たちに取り囲まれていた。今どきここまで分かりやすい不良がいるもんだろうか。っつーか、そもそもケーサツ絡んだら面倒なのはそっちじゃね?
こっちにも落ち度はあるが、かなり面倒くさいことになったと思わざるを得ない。とりあえずひたすら謝るが吉か。
「あの、本当にごめんなさい……」
「はぁん?!なめてんじゃねえよ。その袋こっちによこせや」
「でもこれ、さっき買った奴で、」
「つべこべ言ってねえでよこしやがれ!」
「あ、え、ちょ……」
両手がふさがっていて抵抗もできず、俺はかなりあっさりと突き飛ばされて石畳に転がった。顔面から突っ込んで右頬を少し擦りむいて血が滲む。衝撃で頭がぐらついた。
連中は袋の中を漁って目ぼしいものを探している。
「何かめっちゃリンゴなんですけどぉ」
「何それウケる~」
「ってか、ヘッドォ!よく見たらコイツ、ガキっすわ」
(……は?何?え?何て?)
「うっはー!細っこいし軟弱そうだし、見た感じ女だと思ってたわー」
「クソガキとかガン萎え展開だな」
「オレはぶっちゃけどっちでもイケるけどな~」
「マジでか!」
(ちょっと待て)
「あの、」
「あぁん?んだよ、黙ってろっ!」
「おお、おめえそりゃ飛ばしすぎっしょ」
「るっせーな。みんなお前みたいどっちもって具合にはいかねーし。こんなチビなんてサンドバッグ扱いで充分ジャン?」
今度は別の男が顔を蹴り飛ばし、そのまま足で側頭部を踏まれ、冷たい石畳に這いつくばる。
人が大人しくしてりゃ好き勝手言いやがって。流石に我慢の限界に近い。
(けど、まあ、一言言ってやっても良いかな)
口を開くと少しだけ血の味がしたが、構わず“忠告”することにした。石畳に押さえつけられた耳は確かに“それ”を捉えていたから。
「アンタら、こんなことしてないで早くここから逃げないとヤバいですよ」
「だぁかぁらぁ~黙ってろ、ジャリが。お子様のくせにえらそーに」
「ママに言われて1人でおちゅかいでちゅか~?」
「ガキんちょはそこでお寝んねしててくだちゃいね」
げらげらと笑い声が路地に響いた。
ガキ、ジャリ、お子様、ガキんちょ……よし、よく我慢したよ、俺は。もう限界だ。もう良いよな。
「ふっ……」
「あ?何だあ、チビッこ?」
俺を踏んでいる奴とは別の奴がご丁寧にも耳を近づけて来た。そのまま遠慮なく、心からの言葉を大声でぶち込んだ。
「ふざけんな誰がガキだゲス野郎ども、つったんだよ!ターコ!良いから、俺の言葉を聞けえええーーー!」
俺をチビッ子と言い腐った奴はそのまま驚いて飛び退いた。と同時に、顔を踏みつけていた男の脛に四本貫手をくれてやる。男がすっ転んで抑えるものがなくなった俺は両手を地面につき、曲げた肘の反動で飛び上がった。
「……さて、お子様だの何だの、俺をコケにしてくれやがった礼といこうか、クソ野郎ども」
服に付いたホコリをパタパタと叩いて、首周りをバキバキと鳴らしながら集団を見回せば、彼らはこっちを見つつざわつき後ずさっていた。でも、逃がす気はさらさらない。
「そうやって汚い言葉を使うのはあまり感心しないな、フォリオ」
男たちのざわめきを端的に、しかし凛とした声が静めた。名前を呼ばれた俺は振り返って声の主を視認する。
長い黒色のコート、黒色のスラックスにパンプス。長い黒髪の陰から青い左目が光っている。右目は白い包帯に覆われていて、その瞳は見えない。
男とも女とも、老人とも子どもともつかない、その不思議な声質は普段から聞き慣れているはずなのに陶然となる。
「ショカ……」
いつの間にやら、彼女、ショカは男が抱えた二つの茶色の袋のうちリンゴの方を取り返していた。左手に持ったリンゴを服で擦って、シャリリと咀嚼する。その口元には小さく笑みを浮かんでいた。相変わらず神出鬼没で妙な人だ。彼女につられて、俺も笑ってしまう。
「傷だらけだ。大丈夫?」
「ああ、傷の方はどうってことないよ。それよりショカ、トコイが顕現している。たぶん、翼竜種だけど今は地面歩いていて、足音がこっちに近づいて来ている。大きさはB級くらい」
「うん、分かった」
もはや、地面に耳を澄ませるまでもなく地鳴りはひどくなっていた。それどころか大気も震え、体の底が痺れる心地さえする。
ショカは俺の言葉に頷くと、今度は情けない顔をして呆けている連中に視線を向けた。
「私の助手がお世話になったようですね」
声をかけている間にも感覚は大きくなる。連中の表情にも怯えや混乱が入り混じって、
突如、大きな音ともに近くの石の建物が爆散した。あちこちから悲鳴も聞こえる。
そして、そこから大きなものが姿を現す。建物だと5、6階くらいの大きさだろうか。翼を持った緑色の鱗の竜。赤い目に切れ長の金の瞳孔。そこにヒトを映し、牙を剥き、その本能のまま唸り声を響かせる。
それは、行く宛のない言葉が無数に寄り集まり生まれ、しかしそれ自体は言葉を持たない存在。ヒトが生み、ヒトを喰らう異形。
その名は、トコイ。
グオオオオオオオオオ!!!!!
(ヤバい!)
その雄叫びが空気を貫いた。心臓を鷲掴みにされるかのような危機感が襲う。
「ショカ!トコイがっ!」
「大丈夫だよ、フォリオ。ここは危険だから貴方たちはそこで動かずにいなさい」
ショカは和やかな笑顔を崩さずに、今や腰が抜けて逃げられもしない連中に言った。差し出された食べかけのリンゴと紙袋を俺は受け取る。
「【上がれ】」
呟いた彼女はそのまま、パンプスで石畳を蹴った。ショカの言葉で放たれた“コトダマ”の力で風が光り輝きながら強く吹き上がって、それは彼女を舞い上げる。風のせいで地上にいる俺も息をするのさえ苦しい。顔にかかるウザったい栗毛を片手で押さえつけて、俺はショカとトコイを見上げた。いきなり吹き上がった風にトコイも怯むようにして身を捩っている様子だ。正面から対峙した彼女はトコイの首筋に鋭く指先を向け、躊躇なく言葉を発する。
「【薙げ】」
見上げた先でショカが放ったコトダマの力が一瞬にしてトコイの首を両断した。
途端に地鳴りも竜の唸りも強風もすべてが止む。
(あ……)
トコイはまるで幻のように消え失せた。代わりに空から赤い花が無数に落ちて来る。
枝も葉もない簡素な茎に不釣り合いなほど鮮やかな赤。放射状に広がる花弁。
ヒガンバナと呼ばれるそれは、トコイの死骸。トコイは死ぬときに血飛沫さえも上げず、その身を赤い花に転じて散らすのだ。
静かにゆっくりと宙を揺れて落ちる赤に混じって、ショカも降りてきた。ヒールがコツリと石を打ち鳴らす。
トコイが死ぬ様はショカと一緒に仕事で何度も見ているはずだけど、この光景は慣れることはない。いつ見てもその光景は恐ろしく、怖しく、悲しく、哀しく、そして何よりも美しく感じるのだ。
「ア、アンタ何もんだよ!?コトダマをあんな風に扱えるなんて……まさか、星府部隊の魔法使いなのかっ!!?」
連中の1人がショカを指さして叫んだ。さっきまでの威勢はすっかり消えてしまったらしく、声は震えて膝は笑っている。いい気味だ。
「違うっつーの。ショカを星府んとこの奴らと一緒にすんな!」
確かにショカはコトダマを扱うことのできる存在、魔法使いだが、あんな奴らと一緒にされるなんて心外だ。
(あんな奴らよりもショカは、もっと、)
そんなことを考えていると頭の上に手が乗る。諌められているようで正直あまり良い気分ではなかったけど、ショカの手の温もりは少なくとも嫌いじゃない。
男の発言に怒るでもなく、魔法使いショカは涼やかに応じた。
「我々二人は、何でも屋『ブックエンド』です。皆様、どうかご贔屓に」