はち
ざり、ざり、と一歩ずつ距離を詰めてくる古林。
目付きは鋭く、何処か陰っている。
冗談で迫ってきているようには見えない。
目の前の人間からは明確な殺意が伝わってくる。
「こ、こ、こ、こ、こば、こばやし!」
情けないことに俺の腰はさっきまでの出来事で完全に腑抜けてしまった。
ギャグではなく恐怖で少し漏らしているかもしれない。
背筋がものすごい勢いで冷えて行く。
「なんで、なんだよ、俺なんかしたか? お前になんかしたか?」
「『コトブキ』を狙うなら当然のことだろ」
眼前までやってきた古林はゆっくりと告げた。
また、寿さつきである。
「教えてくれ。寿さつきってなんなんだよ。俺はなんでお前に危害を加えられようとしてんだよ。この色の違う世界はなんだよ!!」
「黙れ」
無情にも古林は一言で切り捨て、自らの凶器を振り下ろした。
少しは喋らせろよコンチクショウ!
あぁ、走馬灯が駆け巡る。
【でぃーふぇん、でぃーふぇん!】
刹那。
ぐにゅうっといった擬態語とともにスライムの体が大きく膨らみ、巨大なバランスボールとなって俺と古林の間に割り込んだ。
「っく!?」
古林はバランスボールに弾かれ、そのまま後方に二メートル近く吹き飛んだ。
どんだけ弾力性のあるボールなんだ。
【るーるぶっくっ!!】
スライムが俺の方向を向いて叫んだ。気がする。バランスボールになってるから顔が分からないけど。
俺はスライムの言葉にはっとなった。
そうだ。確か寿にあったときにルールブックは光っていた。
懐からルールブックを取り出すと、今までに見たこともない量の光が溢れた。
【さっさとしろよー。すぐにこばーくるぞ?】
こばってのは古林か。恐らく敵だろうになんてフレンドリーな呼び方しやがる。
俺は緊張で指が震えたが、なんとか開いた。
というより、俺が本を開こうと思った瞬間、本が勝手に目当てのページへと移動するように開いた。
「なんだこれ!」
【じかんないからそのまましたがえー】
くそっ。
開いたページにはこれまでのようにルールが書いているわけではなかった。
小学生みたいな字で、『まほうの使い方、てびき』と書いているのだ。
ぱよよ〜ん!
前方でなんだか腑抜けた効果音が鳴り響いた。
ばっと向けるとスライムがボール状態でなくなっている。
古林に殴られて変身が解けたのだろう。
【はよそのとーりーにせんかーい!】
古林は今度は俺の番だとばかりに、スライムを押しのけ俺のほうまで迫ってきた。
やばい焦る。
スライムが催促してくる。
なにをすればいいんだよ!
頭が回っていない状態の俺に、開いているページの最初の一文が見えた。
『手順そのいち。お供に名前をつけませう』
「お供にって誰だよ!!」
俺は本を抱えて逃げ出した。
よかった。足腰は回復していた。
よくない。全然よくない。
スライムは【あほうー。そっちのほういくなーー!】などと叫んでいる。なぜだ!?
後ろから壮絶な破壊音が聞こえる。
びゅおっと何かが風を切る音が聞こえた。しかもものすごい速さだ。
一瞬、頭上に影がさした。
雲か!?
上を見上げて、げぇ!
俺は全力で後ろに飛んだ。
途端地面が揺れた。
なんでもありかこの野郎!
目の前が土煙で包まれている。
「うわぁ……」
絶句。言葉が発せない。
目の前の道路に軽自動車が頭から突き刺さっていた。
後ろを観なくても分かるが振り向かないと命が危ない。
ゆっくりと振り返ると、遠投の姿勢で此方を見ている古林が目に入った。
「化け物だ……」
無理だ。
こんな生命体にどうすりゃいいってんだよ。
こいつ片手で軽自動車が投げんだぞ。
地面殴って移動すんだぞ。シェルブリッドかっつの。
【なんかあきらめてないかー】
かくりと膝を落としかけた時、音もなく俺の後ろからスライムが現れた。が、いつものあのネバネバした感じはしない。どちらかというとパサパサして今にも命が朽ち果てようとしているみたいに見える。
「お前、どっから」
【そのへんはあとなー。てーかさっさっとおれのなまえきめろー】
疲れたとでも言うようにポスんとスライムは俺の手の中に収まった。
「え、じゃあお供って」
【みー】
なんてことだ。
こいつ監察官じゃなかったのか? 役職多いな。
「名前ってどうすればいいんだ」
【なんかおもいついたのてきとーにいってみー】
思いついた名前か。スライムとかじゃダメなんだろうな。
え、ていうか。
「お前コングラなんたらって名前無かったか?」
【まえのなまえはそれなー。でもますたーかわったからなー。あたらしいなまえないとちからつかえないぞー】
そうか。コングラなんたらというのは前のマスターから付けられた名前なのか。なんかもうマスターとか前のとか、いろいろと突っ込みたいことはあるが後回しだ。
しかし名前なんて考えたこともない。
ええぃ。思いついたことを言ってやれ!
「『半永久的下ネタ製造スライム』とか」
【りゃくして『はんぞー』なー】
「お前凄え!」
パァっと景色が開けた気がした。柔らかい光が俺を包み込んだ。
【とくてんとくてんー】
「え、なに得点? 特典?」
【『はんぞー』の頭の中に変換機能が追加されましたー。これで見やすくなります】
「ちょっと棒読みが抑揚になっただけじゃねえか!」
「お遊びは終わりだ」
「忘れてた!!」
いつの間にか迫った古林の攻撃をかろうじて交わす。空気を切り裂く音が耳朶を打つ。
【あんだけ喋ってたら近づきますがなー】
「まったくその通りだよ!」
駆け足で俺はまた古林から逃げる。
『はんぞー』はヌルッと俺の上着のポケットに滑り込んだ。いつの間にかぬめり気を取り戻している。
おかしい。
さっきと状況はなにもかわっていないはずなのに、なんだか体がとても軽い。本当に視界が開けた感じがする。あの光のせいなのだろうか。
古林の攻撃は一発もらうと即お陀仏となりそうな重い一撃だが、その分動きは単調だ。
そう思うとさっきより体の緊張が抜けて行く。
【ルールブックは続くー】
「そうだ。まだアレには続きがあった!」
建物の影に隠れ、本を開く。
『手順その二。おててを本にあわせませう』
「これは何だはんぞー!」
【前のページに手形あったろー】
俺は昨夜の記憶を蘇らせる。
あれか! あの武器出るとかいうやつか!
バラバラっとページを捲る。あった!
朱色の墨汁みたいなので染めた右手の型。
「でええぇい!」
ばしっとそれに右手を合わせた。どうだ! なんか起こったか!
かっ!!
何度目かの発光。
その光が収まる前に俺の右手に何重にも何かが絡みついてくる感触があった。
「あ、てめ、スラ、じゃねえ! はんぞーなにやってる!」
スライムが形を変えて俺の右手にまとわりついていた。
そして俺が文句を叫び終わる頃にはそれは一つの形状に進化していた。
「これはっ!?」
「見つけた!」
古林の声。もう追いついたのか!? でかいもの引っさげている癖に妙に行動が早い!
俺は咄嗟に右手でガードした。
重量さから考えて馬鹿なことをしたものだと後悔したのは、古林の攻撃が俺の右腕に触れたときに気が付いた。
やつの腕が俺の腕に接触した時、一瞬、空間の歪が生まれた。
【まっとりましたー!!】
数秒後には吹き飛ばされたであろう俺の未来。
しかしそれは起こらなかった。
「ぐわぁぉぁぁぉぉぁおおおううあぁあぁぉぁ!!」
それどころか目の前には信じられない光景が広がっている。
古林は激痛を隠しきれずに地面にのたうちまわっている。
ついさっきまで俺を追い詰めていた男が、今では地面でのたうっている光景は正直異様だ。
だが、俺は自分の姿がもっと信じられなかった。
意識せずに勝手に動く右手で。
規則正しくその振動は伝わってくる。
あの光の後に巻きついてきたはんぞーが、古林の化け物の腕を喰っていた。