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森は人々に恵みを与える。ダリスや近郊集落も例に漏れず、狩猟、採集、産業と森なくして生活していくことが難しいくらいの影響を受けている。
しかし、そういった利点と同じに、森は畏怖の対象でもあった。
現に、森への入場は制限されている。
そこは、人が安易に踏み入れてはいけない場所。森は人などたやすく屠る力を持っていることを誰もが知っているのだ。
それらは獣の息吹、遠吠え、遭難、行方不明、食い散らかされた死体と、様々な形で人々の眼前に畏怖を叩きつけてくる。
だが、そのどれもが必ずしも自然の驚異というわけではない。
森は、時折ながら部外者を呼び込む。それは、身を隠すに最適だと考える不貞な者たちのことであって、そうした者は自然と寄り集まって徒党を組む。
貴族の誰しもが頭を悩ませる盗賊、山賊の完成だ。
彼らは実に狡猾で臆病な存在といえる。
例えば、彼らは安全に仕事をするため、街道を巡視する従士隊を監視することから始める。
物陰から、あるいは旅人として平然と会釈を交わして、入念に観察する。
どの程度の周期で見回り、人数は如何ほどか。どのようにして見回るか、その雰囲気、個々の人格は――。
非常にしぶとく見極める。
はては街道を管理する土地とちの貴族が、果たしてどういった性格な人物かを聞き込み、最適なねぐらと狩場を選別していく。
狩る得物もきちんとえり好み、無茶は避ける。
万全を期して、彼らは悠々と仕事を始めるのだ。
領主が気づいたころには自身の庭は見事に荒らされている。
慌てて討伐隊を編成したところで、貴族の多くは私兵を雇わない。
雇うだけの金を持たず、持ったところで社交と私欲に消える。
結果的には必要最低限の兵のみで手一杯になる。
兵は金食い虫ということだ。
貴族は見栄を張って、屋敷や市内を警らする兵を着飾るが、実際のところ、森狩りなど熟練の狩人も雇わなければ遭難の危険すらある。
おいそれと金の掛かる兵を減らす事柄には及び腰なのだ。
武功による名声を得ることはできるだろうが、後先考えずに首を突っ込み、兵を失っては再雇用といった苦労も発生する。
名誉に目がくらみ、賊徒と油断する貴族はいつも泣きを見る。
結局は国に泣きつき、国軍を動かすしかない。
王都の将軍たちも武功が欲しい。
勇んで動くだろうが、森狩り部隊を編成したところですでに賊は影も形もない。
そのころにはもう別の貴族の家にお邪魔して、勝手に居候を始めるのである。
賞金が懸けられるほどの徒党もいるのだから、領民と領地を守る貴族としては頭の痛いことである。
しかし、この男爵領は他所とは違った。
森には魔が住まう。
誰もが知るところの事実として受け入れられているのだ。
魔などという単語は決して比喩ではなく、現実的な脅威として認知されている。
古より人を誑かし、捕食する悪魔でありながら、豊穣なる恵みを人々に分け与えてきた聖なる女神でもある鬱蒼たる生命の集合体。
とりわけ山麓地帯を擁する男爵領は動物たちが多く生息しているのだから、非力なる人間がいくら徒党を組もうと定住叶わぬ魔境にして、動植物の宝庫でもあった。
その森をただじっと、見つめるローの背後で雪が鳴く。
ザッ、ザッ。
それは規則正しく、それでいて鬱陶しいとばかりに乱暴な足音だった。
「ロー」
野太い男の声がローの背中に這い寄った。
赤鼻の下には黒々とした髭が群生して、吐く息の湿気で凍り付いている男は、彼女の背中を睨みつけていた。
ジスは軽く会釈する。
雪が零れ落ち、男が軽く手を挙げて答えた。
ローに返答はない。
訝しがるようにジスはローを見据える。だが、彼女の視線は揺るがない。
そうして、妙な既視感を覚えた。これはよろしくないことが起こる。
「おい」
男の声には棘があった。
ザッ、ザッ。
男はローの背後に立って、その頭に手を置いた。
分厚い手袋と外套のフードが擦れ合う。けれども、ローは微動だにしなかった。
「交代時間は過ぎているぞ」
むしろ、ちょうどの時間帯に、今回の見張りを統括する奴隷、ヴェルナーはやってきているのだが、そのようなことをおくびに出さずにのたまった。
「ジスブレッド様、お寒いでしょう。さぁ、後はわたしめにお任せください」
「ローが動かないのなら、相棒の俺もここにいるさ。ヴェルナーもこっちにきて当たってくれ」
そういってジスは態度を急変させたヴェルナーに対してもそつなく対応する。
「ジスブレッド様は本当に、お優しいお方ですな。余所者は誰もが粗暴だと思っておりました自分が恥ずかしい限りです。しかし、わたしめのことはヴェルと呼んで頂きたいものですな」
「判った、ヴェル。ただ、俺のこともジスで良いし、いつもの口調で構わないぞ」
「……ジス、すまねぇ」
「ここにきて、価値観が変わっちまったよ」
ジス自身、奴隷に対して、言動が随分と軟化したと思っていた。
ヴェルはにんまりと不精な髭を吊り上げて笑みを作ったと思えば、顔をジスからはずし、ローへと向けた。
「おい、ロー。いつまでぼさっとしている。交代するぞ」
口を尖らせながら、ヴェルナーはローより前に出ようと右足を振り上げた。
ザッ。
「……どうした?」
ヴェルは声を挙げた。
行く手にはローの右手が、ヴェルの太ももあたりで通せんぼしているように伸びている。
ローはヴェルの疑問に口を開きかけたが、ゴクリ、と唾を飲み込んだだけだった。だが、ヴェルはゆっくりと右足を引き抜いて、元の位置に落ち着かせた。その動作に淀みはない。
意外な素直さを見せたヴェルに感心しつつも、ジスは森に目を向けていた。
足に力を入れながら、いつでも動けるように身体を小刻みに動かしながら感覚を掴んでいく。
「なにがあった」
ヴェルの声に重みがある。
「――居る」
ローの声はいつもと変わらぬ平坦さだった。
「こちらを見ている」
まるでどんよりと身を切り裂く冷風を叩きつけてくるこの夜のように、ローの言葉は暗かった。ただ、その一言だけで十分なほどにヴェルの顔が強張っていく。
ジスもそうだ。
少なくとも同じような場面に遭遇しているのだから、始末に終えない。
ここにきてから厄が存分に降りかかってきていると悪態を胸中に吐き散らす。
ジスは丸い瞳を歪めて視線を送るが、やはり何も見えない。
明かりは焚き火のみときているのだから、漆黒に包まれた森の中身など視認できるはずもないものだが、どういうわけかローにだけは何かがおぼろげに見えているようだったし、ヴェルもそれを事実として理解している節があった。ならば、やはりローには見えるのだろう。
「警戒してる」
見た目は成人していないと一目でわかる。それは少女とも少年ともつかない顔立ちだ。
身体も外套をつねに纏っていることから曖昧ではあるが、華奢というよりかは小さいと素直に評することができた。
そのような少女が、男爵領において最良の狩人と評される片鱗を、目の当たりにしているのかもしれない。
「奴ら、か」
ヴェルの張り詰めた声が漏れてくる。彼は身を屈めていた。
奴ら、とは何なのだろうか、と逡巡し候補は二つ持ち上がる。
とはいえ、ヴェルが問いかける側となっているのだから、おのずと答えは一つに絞られた。
その答えならば、ジスにも心当たりがある。
この男爵領に住まう人ならば、否、この男爵領に足を踏み入れたことのある人間ならば誰もが知っている。それは森に住まう魔にして、この土地の絶対的守護者。中立的という者もいるが、それは違う。
「いつもの奴じゃない」
奴らは、純然たる自然なのだ。
人間の道理を考えるほどに落ちぶれてはいない。奴らにとって、目の前に広がる森が単に住みやすいからという理由のみで住んでいるのであって、この土地を守ろうなどとは微塵も思っていない。むしろ、この森は我が領土と思っているに違いなかった。
「囮か」
ジスは思わず呟いていた。
集団で狩りをする物が、牧場を襲うのならば、そう思うのも不思議なことではない。
「……家畜はダメ」
ローの諦めた言葉は先ほどより軟化されたものの、緊張感は拭い去れていない。
「くそったれ、これならまだドヤされるほうが良かったぞ」
ヴェルは凍えるような寒さの中で、べっとりと汗をかいていた。
責任者ゆえの諦めと恨みが滲む。
ジスたちの背中で、唐突ながら悲鳴が挙がった。
犬が激しく喚き立て、その合間を縫うように羊の怯えた金切り声が響く。
「大丈夫、駆けつけることできなかった言い訳が、目の前にいる」
後方での喧騒を耳にして、ローは声を挙げていた。
「……言い訳できる口が残ってれば良いんだがな」「口ぞえ程度なら、請け負うぞ」
ジスの申し出には、ヴェルも思わず顔に笑みを貼り付けてしまっていた。
「ありがてぇが――」
ヴェルの声は勢い良く萎んでしまった。
三者の視線が釘付けになる。
そう、見えるものがあった。それは、漆喰にこびりつく虫のようだった。
今まではなかった、すくなくともジスにおいては確信を持って言えた。
光が、闇から生まれる様を見たのだから。
ギラギラと光った無数のまん丸。規則正しく二つが寄り添い、間隔をあけて居並んでいる。
息遣いが、自分たちのもとにまで聞こえてきているような気がした。
落ち着いた呼吸音だ。
冷静で、怜悧で、品定めしている眼差しに良く似合う。いや、じつのところは本当に聞こえているのではないか。
鼓動が胸を打つ。
呼吸を耳障りだと思い始め、短槍を構えようと身を浮かす。
どうにも、分が悪いことは判っていた。それでも、何もせずに先手を譲るのは好きではない。
「ジス。動かないほうが、良い」
ローの言葉に、ジスは踏みとどまり、腰を切り株につけた。
怖いからこそ、楽しくなっていく。
ヴェルは小刻みに震えている。
ガチガチと歯を打ち鳴らしていたが、両手で顎を押さえつけていた。
もう、何十年も前からこの森には絶対的な支配者が君臨していることを知っているからだ。
ジスとは年季が違うくらいに知っている。
もちろん、それは人間などでもなければ、人間を必要なまでに恨んでいるかのように襲い掛かってくる魔物ですらない。
遠吠えが轟いた。
羊の鳴き声が余計に騒がしい。そうして、男連中の怒鳴り声が寄り添っていた。
「出てくるよ」
背後の喧騒などまるでないかのようだ。ただ、誰もが目を奪われていた。
真っ白、とは言いがたい。
毛先は黒く、目を凝らせば灰色のようにも見えるが光が乏しくその全貌をしっかりと観察することはできない。だが、毛色が白いということだけは良く判る。それほどに浮いている。
黒の中に、白い狼が一頭。
その背後からどれほどの狼が様子を伺っているのだろうか。
そう考えただけでも男は生きた心地がしなかった。
「目を合わせるな」
ローの指示が飛ぶ。ジスは咄嗟に狼の足元へ視線を落とした。
森に入る狩人として当然のことであるが、ジスもまたこの行動を知っていたからこそ、迷うことなく視線を合わせないように勤めた。
それは、服従、あるいは好意を持っているといった意思表示。
決して、お前たちと争う気はないというコミュニケーション方法の一つであった。
狼は本来十五頭程度の群れで、広範囲を狩場として流浪することもある非常に社会性の強い獣だ。
この男爵領における狼の群れは実に多く、それでいて縄張りが共有財産として使われていると思われるくらいに、縄張り争いが起こっていない。
群れ同士での諍いも起こらなければ、逆に部外者である獣や野党を集団で狩り立てるといったこともあるほどに、統制の取れた社会を築いている。
ローは目の前の白い狼がどのような存在かを理解している。
焚き火の前で、切り株を椅子代わりにして座るローと、白い狼は同じくらいの高さで目線がぶつかり合う。一メートルは軽く超える巨躯の狼を良く知っている。
「シルヴィア」
その白みある毛色、優雅な歩調に人を恐れずに悠然と佇むその姿に、見た狩人らはシルヴィア――御伽噺に登場する白銀の女王の名で呼んでいた。
ジスはハンスの言葉を思い出していた。
なるほど、確かに面白い存在だ。どういうわけか、獣という感覚を掴めない。
どこか神々しくも体毛を光らせているようにも見えた。そして、ジスは今度こそ、臨戦態勢を解いた。
戦う意志がない、というわけではない。ただ、あのオオカミがアンデッドではないということだけは確かだ。
そうなれば、やみくもに襲い掛かってこない。
ジスはオオカミに対して限定的な信用が出来上がっていたようだ。
ヴェルはジスの落ち着いた様子に気づかないくらいに動揺していた。
一体どうすれば殺されないかを必死に考えようとして、頭は真っ白のままだった。
シルヴィアは滅多に姿を見せない。
姿を見た狩人とて、百メートルほどしかない近距離で出会ったものなど居りはしない。
ただ、シルヴィアの近くには、大抵黒い伴侶が寄り添っている。これは、領民ならば誰しもが聞いたことのある話の一つ。
森の絶対的な守護者にして、森の魔王と呼ばれる一頭の黒い狼である。
常に行動を共にしている。
それが常識だった。少なくとも領民の、奴隷の、狩人の間での常識だった。
だからこそヴェルは、この異常事態に何が起こっているのか理解できていないようだった。必死に、警戒されないよう、身を竦め身体を自らの意思で縛り付けている。
状況で判断するにしても、こんなことが起こるなど考えもしなかった。ただ、シルヴィアが考えもなしに別行動をとるなどと考えることも難しい。
狼は知能を持たぬ生物ではないからだ。
彼ら狼はしっかりと物事を考え、行動している。
だからこそ、彼らは狡猾の象徴として捉えられることもあるのだ。
その動作の一つが、目線を合わせず、そっぽを向くというもので、シルヴィアも人間と同じく目線をはずし、顔を背けて見せている。これは、シルヴィアからしても、想定外なのか。はたまた、純粋に何かを訴えかけてきているのだろうか。
ヴェルの混乱を他所に、ローの吐く息は一定の間合いをとって白んでは消えていく。
森がざわめき、オオカミたちが姿を見せた。
暗がりの中で、オオカミの毛色は黒といって差支えがなかっただけに、シルヴィアが一掃際立った。
まるでそこだけ明かりが点されているかのよう。
「あれは、」
ローの言葉に、ジスは視線を這わせた。
シルヴィアの横からこれまた大きいオオカミが頭を垂れて、しかし、何かを引きずって現れた。
オオカミはおもむろにその物体を地面に置くと、ローたちを一瞥し、群れの中へと消えていく。
ジスは目を凝らした。
「獣か?」
そう呟くと同時に、向かい風の運んできた異臭に顔を顰めた。
「酷い臭い」
ローが鼻づまりの声を出した。
オオカミたちはその物体を放置し、一頭、また一頭と姿を消していく。そうして、シルヴィアがローを見据え、踵を返せば、全てのオオカミは森へと帰っていった。
二人は同時に息を吐いた。そうして、やや逡巡してから息を吸った。
ヴェルはしりもちをつき、雪の中で大の字になっている。その顔は汗に濡れていた。
「この寒い中、腐っているのか」
ジスはいつもの言葉遣いに戻していた。
「放置されていたのかもしれない」
視線の先で身じろぎしないその物体は、人のようで人ではない影を作り成して倒れている。大きな頭部、丸く張り出た背中が化け物であることを示唆している。
「だとしたら何故だ?」
「群れで人の集落に顔を見せる理由がある」
ローの視線の先にある何かの死体。それを調べれば答えは出る。
しかし、どうにもローの言葉に含むものがあった。
「それは、いったい何だ――?」
「ジスが来てから大変」
ローのそんな言葉に思わず彼女の顔を見やる。自分の呟きもどこかに吹き飛んだ。まさか、ローが悪態をつくとは少々、いや、かなり意外だった。
「傷つくこと言うなよ。気にしてるんだぜ?」
「……楽しそう」
嘆息がローから漏れる。
今まで見られなかった人間臭い行動に、ジスは笑みを深めた。
「さて、とりあえずは動いても良さそうだな。ヴェル、大丈夫か」
背伸びをしてから、ジスはヴェルに声を掛けた。
「す、すまねぇ。腰が……」
ジスは手を伸ばし、ヴェルはその手を掴むと、一気に身体を浮かせた。
荒々しい息遣いをしながらも、ヴェルは驚いていた。
「もう、大丈夫」
ローが二人に声を掛けた。弓を首にかけ、立ち上がっている。
「罠というよりかは嫌がらせだな」
ジスは苦笑いを浮かべてそう答えた。
「近づくと鼻がもげるかもしれない」
その言葉と共に一歩いっぽ、音を立ててローは歩を進める。
「ヴェルはどうする?」
ヴェルは慌てるばかりで、
「お、俺は戻って状況確認と報告書を纏めます」
と、丁寧な口調で言うや否や、元来た道を走りにくそうに戻っていった。
「ジス」
ローが呼ぶ。呼ばれた本人は肩を竦めた。
正直なところ、近寄りたくはなかった。しかし、相棒が呼んでいるならば、行かねば成らないか。
ゆっくりと大地を踏みしめ、警戒して。その後ろはジスが守り、広くゆったりと世界を見回す。
ザッ、ザッ。
静寂に喧騒を奏でる足音が二つ。犬の吼え声と、家畜の嘶きが、背中を叩く。
いつまにか、雪は止んでいた。