19
階段を降り終えると、数メートルほど進んだ先に鉄材で作られた肉厚な扉が行く手を阻んでいるのが見えた。
ディアブロは扉の前で立ち止まると、皆が扇状に待機する。
「誰か、いる」
『そのようだ』
ローの言葉に、ディアブロが反応した。
『扉の先は聖堂上階へと繋がっている。ようは広い空間に出る』
「帝国の連中はそこにいるのか」
ジスの問いかけに、ディアブロは頷いた。
『上階への階段は百五十年前に破壊されていることから、上階に兵を差し向けている可能性は低い』
「やっぱりなァ、帝国の奴らは百年経とうが、諦めてねぇ。幻想を抱いて、悪魔の封印すら解いちまうとは、愚かにもほどがあるぜ」
シュートの呟きが、ジスの耳をへと入る。
耳を澄ませば、かすかに声が漏れてきた。
「怒鳴り声か」
焦っているようだった。怒鳴り声が空気を震わせている。
『当然だ。資料などありはしないのだからな』
「ワタシたちの資料もワタシたちが破棄した」
無い物を探すために、彼らは魔物が蠢くこの迷宮に足を踏み入れてしまった。同情はない。自業自得。そして、自分たちはそんな人間たちを間接的に助けることになる。それが、気には食わない。
『しかし、この聖堂に居るということは、主に出会っているようだ』
「つまり、主の元へは別働隊がいて、その隙に探し物をしている最中ということか」
『そうなるだろう。しかし、ここは魔を扱える者でなければ入場が適わない場所なのだが』
「結界を破ったんだぜェ。帝国が魔術師の百や二百、揃えていないわきゃねぇよなァ」
「意外と居るものなのね」
ベッキーの呆れた声が漏れる。
「魔を持つ人間はいるさ。ただなァ、知らずに一生を終える奴が多すぎるってだけだ」
シュートは呆気らかんと言った。
「とにかく、前に進もう。どちらにせよ、殺す相手はこの先にいるんだろう?」
ジスの問いかけに、ディアブロは静かに頷き、頭を使って扉を押し開けていく。
誰もが口をつぐんだ。
蝋燭の代わりに、輝く魔素の群れがジス達を出迎える。夏の夜ほどに湿り気がある、けれども冬の凍える冷たさを含んだ空気が場を覆っていた。
その空気を振動させて、男たちの罵声が耳に届く。
明らかに言い争う言葉の反響を聞きながら、ジス達は音を立てないよう注意しながら、通路を進む。左右にはいくつかの扉が硬く出入りを禁ずるかのように閉まっている。埃の具合から長い期間、開け放たれていないことがうかがい知れた。
ジスは後ろを振り返ると、そこには壁があるばかりで、扉の面影はなかった。どうやら隠し扉のようである。
魔素を掻き分けるように進んでいくと、次第にはっきりと口論していることが聞こえてきた。
激しい怒声が耳障りなほどに鳴っている。
「お前たちは何をしている、コソコソと!」
「貴様たちは魔物を駆逐すれば良いのだ、我らには我らの任務がある」
「それを言えといってるだろうが!」
聖堂の廊下に据えられた手すりと柱の影に身を置いて、ジスは下を覗き込む。十メートルはあろうかという高所だった。
装飾の一切が伺えない質素な作りの柱だった。手で触れてみる。恐ろしいほどまでに滑らかな手触りが待っていた。天井ははるかに高く、三十メートルは超えているのではないかと、目測で思えるほどで、窓などの一切がない。向かい側の壁にも同じように廊下が連なっていることが見えたが、入り口らしきものはやはり見えない。
これならば、見つかる心配もないだろうし、とにかく、今は言い争いをしているのだから、周囲への警戒も散漫なものとなっているようだった。
「貴様は我らを守れば良いのだ」
「守る謂れはない、我らは王国が使役したといわれた魔物の一団を壊滅するために派遣されているだけだ、貴様らのお守りを任されている訳ではない。それに貴様らは信用ならん。何を隠している」
「関知するものではない」
「ならば、我らは貴様を守る必要もないということだな!」
見れば、マントを羽織り、甲冑を着込んだ一団が聖堂の扉の前に陣取っている。彼らに出入り口を占拠された状態で、同じく甲冑着込んだ一団がいた。しかし、彼らは甲冑の上に、白い布の外套を羽織った男たちで、聖堂の奥で固まっている。その中の数人が、書物を読んでいるようだった。
その集団を統括しているであろう一人の男は、騎士団の者、恐らくは団長であろう男と対峙して口論していたのである。
「言い争ってるのは騎士団連中らしいなァ」
シュートが小声で言った。
「出入り口をふさいでいるのは帝国騎士団のようね。でも、奥にいる騎士の装備は帝国のものではないわよ……」
ベッキーの疑問に、ジンは顔を顰めて
「聖グラン騎士団ですよ。聖都教の精鋭騎士団です……」
と、苦しそうな声が漏らした。
「見解の違いってかァ?」
シュートがそんな言葉をジスに向けたとき、
ギィヤァァァ!!
男の、書物を読んでいた男の悲鳴が聖堂を埋め尽くした。
***
――なんだ、おい、マイヤー。貴様は一体何を……!!
男は書物を落して、両手を顔面に教えてて悶えている。そこへ男の怒声が響き渡っていた。
さらに手の隙間から血が滴り落ちていた。
聖堂にいる誰もが驚愕し、何事かと騒ぎ立てた。
その様子を上から眺めながら、ジスは眼を細め書物を睨む。
「ありァ、魔道書か」
シュートの言葉に棘が生まれる。
「魔道書を読むだけで、激痛を伴うものなんですか?」
「魔道書はそんなもんだぜ? とくに魔を持たない者からはすれば呪いを一身に受けるようなもんでよォ。あの男は魔術師とて未熟だったがため、代償に眼を失ったんだろう。弱者が強すぎる魔の集合体を凝視し続けた哀れな末路だなァ」
ジスたちが、そのような会話を小声で続けていると、突如、団長が声を荒げた。先ほどよりも怒りを露にしている。
――貴様ら、悪魔の魔道書を奪って何をするつもりだ!
その言葉を聞いて、ディアブロとローは顔を顰めた。そして、シュートは顔を引きつらせている。怒っているようだった。
『主の魔道書だ。悪魔となってさらに強力なものとなったのだろう』
ディアブロの声と共に、聖堂が大きく揺らいだ。
「……来る」
ローの呟きとともに再び聖堂が揺れる。
地響き。
埃が舞い踊り、両開きの堅牢な扉が何かに強く打ち付けられた。
――ァァァァァァ。
底冷えする女の声が聖堂に響き渡った。
『奪った者を追ってきた様だ。本来ならば、ここまで移動されることはない』
「それだけ、大事なものだったということか」
ジスの呟きをかき消すかのように、団長の鋭い檄が木霊する。
機敏に騎士たちは反応して扇状に隊列を組み、大盾を持った騎士が前線で壁を作っていく。
しかし、隊列が整うより先に扉が吹き飛び、数人の騎士が巻き添えを食らって、下敷きになった。
――貴様、まさか悪魔の書物を奪ったな!
埃が舞い、視界が不良になる。それでもなお騎士たちはおろか、上階にいるジス達も、しっかりと視界に悪魔を収めることが出来た。それくらいに、悪魔は大きかった。
赤い風が聖堂に充満していくのをジスは確認した。そうして、身体がジクジクと痛みだすことも味わった。
ジンも、ベッキーも息が荒い。強烈な魔力に当てられいることに彼らは気付いていないが、その空気を殺気だと認識するくらいには熟練した探索者だった。距離はある。悪魔はこちらを視認してはいないくらいに、騎士団へと注意が向けられている。にも拘らず、心臓を鷲づかみされているかのような、逃げ場のない圧力が弾け跳びそうなほどに迫ってきていた。
シュートとて、荒い息を抑え込もうと深呼吸をしているのだから、魔力は途方も無い。ジスは視界がおかしくなってしまうほどに、圧倒的な魔の存在を、視認出来てしまっていたのだから、全身が総毛立ち、震えてしまう。
純粋に、恐怖がジスの根底にはあった。ただ、どうしてか、恐怖を押しつぶさんとばかりに、憤怒が湧いてくる。
あれは殺すべきだ、と誰かがうそぶく。
手が震えている。カチカチと床に置くように握っている短槍が石に触れて音を鳴らす。
気付かれはしなかった。そのような音など、目の前の凶悪な存在によって雑音にすらなりはしない。
本物がそこにはいた。魔物などとは比べ物にならない存在が佇んでいる。
***
「マイヤー騎士団長! 生き残りたければその書物を悪魔に返せ! こいつは、あの場から動くことはなかった。それがここにきているということは、自らの所有物を奪還しに着たに違いない!」
圧倒的強者を前にして、団長は声を荒げた。しかし、的確なもので、マイヤーと呼ばれた男は顔を大いに崩して動揺した。けれども、彼も強情だった。そくざに声を挙げる。
「ギュスター騎士団長ともあろう男が、何を言っている! 迎撃しろ、我々はこの魔道書が必要なのだ!」
この期に及んで、マイヤーと呼ばれた聖都教騎士団の男は、必死の形相で、床に落ちた魔道書を大事そうに抱え込んだ。
黒い悪魔が、前に出る。聖堂に立ち入ってくる。
風に押されるくらいに頼りなさげに、その場に漂っている。
悪魔は宙に浮いていた。それはローブを纏った、それこそシュートのような胡散臭いカルト教団の信徒みたいない姿をしている。実体がおぼろげであるが、両腕らしきものはあった。風にゆらめく洗濯物のようではあるが、袖口は確かにあった。
顔は良く見えず、けれどもフードの下からははっきりとドス黒くも赤い二つの眼が光っている。
空気がどういうわけか震えている。周囲の魔素が、悪魔に呼応するかのように光りを強めている。幻想的なようで、酷く現実味がない。ただ、死という単語がありありと脳裏に浮かぶくらいには、如何ともし難い状況だった。
ローブの下からは鏡が、顔を覗かせている。その鏡は騎士団を映し出すことはせず、ぐるぐると渦をまくかのように、白銀の光沢を放ちつつもたゆんでいる。
「魔物を出す気だ!」
団員が叫びが轟く。その動揺は伝播する。盾の隙間を縫って抜剣した騎士が飛び掛った。その挙動に戸惑いはない。彼らは強大な敵を前にしても、果敢に立ち向かう勇気を持っていた。わけではない。
「やめろ、うかつに近づくな! 魔道書がなくとも、そいつは――」
ギュスターの鋭い言葉が飛ぶものの、騎士たちは雄叫びを挙げて走る、走る。
彼らは恐怖に駆られ、半ば自暴自棄となって、強攻せざるを得なかった。
悪魔は、襲い掛かる騎士たちに対処を開始する。
まず、揺らめいていた右手を突如として実体化させた。何も無かった袖口に、腕が出現したのだ。それは白い腕は骨と言って良いものだった。
次の瞬間、悪魔はその腕を躊躇なく、横に振り抜いた。
風が、裂かれ、音が轟く。
飛び掛った騎士数人は、その腕の一振りによって、姿を消した。
ただ、腕を振るっただけで、甲冑に身を守られていたはずの騎士がこの世から消滅してしまった!
「くそッ!」
団長ギュスターの悲鳴にも似た声が響く。
「魔物が出たぞ!」
鏡から、甲冑を着込んだ魔物が這い出てくる。一体が、床に落ちるとすぐに二体目が鏡から顔を覗かせた。その間、悪魔はゆっくりと前に出てくる。そして、間合いに入ったのか、腕を振るった。
盾隊が必死に腰を落として、その一撃を耐える。しかし、耐えただけだった。吹き飛ばされ、床に転がる。盾はひしゃげて使い物にならない。立ち上がろうとも、体中が悲鳴を挙げて言うことを聞いていない。そのような騎士たちに魔物は躊躇なく、襲い掛かっていく。
「悪魔に手を出すな! 奴の狙いは魔道書だ、魔物を殺せ。決して一人になるな、固まれ!!」
ギュスターはそう叫ぶや否や剣を抜いて、魔物に向けて斬りかかって良く。
魔物が続々と生まれ、悪魔は悠然と開けた道を進んでいく。その周りで、人間と魔物が殺しあう。
悪魔は悠々とマイヤーへと進んでいく。徐々に、それはまるで処刑台へ送る執行人のように、黙々と作業を続ける姿であった。
「く、来るな!」
マイヤーは必死に逃げ回るものの、誰一人助けに入る者はいなかった。誰もが死ぬことを恐れたし、誰もがマイヤーを助けたいとは思わなかった。
「た、助けろ……誰か!」
出る言葉は懇願となり、顔が涙でぐしゃぐしゃになる。
「わ、俺は教主さまより直々に命を受けているのだぞ、俺を見殺しにして、帝国で生きていけるものか……。誰か助けろ、助ければ、恩賞は思いのままだぞ!」
マイヤーの大声を楽しむかのように、悪魔はゆっくりと追い込んでいく。逃げ場を徐々に奪っていった。
「ふ、不老不死、ギュスター、不老不死だ!」
マイヤーはついに白状した。
「我々は、教主さまより悪魔、エカテリーナが残した不老不死に関する資料を探すよう命令されているのだ!」
ギュスターはその言葉を聞いて、
「今頃遅いわ! 魔道書を手放せば万が一にも助かるかもしれないぞ!」
自分たちではどうすることもできないことなど初めからわかっていた。この聖堂に、逃げ込むまでに、何人の部下を犠牲にした。あんな男のため、魔道書のために、自慢の騎士団を失ったのだ。
不老不死のために、ギュスターは四百の騎士を犠牲にしていた。カルゴルシア騎士団。彼が背負うマントに刺繍された紋章が指し示す栄誉ある帝国四大騎士団の一つ。総勢四百六十もの精鋭たちだった。
その騎士団は、今日、壊滅したのである。
不老不死などという与太話のためだけに。
騎士はもちろんのこと、魔物と戦った兵士も、結界を破った魔術師も死んだのだ。
教主の道楽のためだけに。
「騙したな、ギュスター!」
「言いがかりはよせ!」
激しく罵声を上げるマイヤーを一喝して、ギュスターは魔物を殺す。すでに双肩は大きく上下しているくらいには疲弊していた。元々敗残兵だ。ここまでの道のりで心身ともに限界を迎えている。
加えて、この聖堂には悪魔が入り込んできた入り口以外に道はない。あそこから逃げ出せばそれで良いのだが、そうも行かない。魔物が、悪魔から生まれている魔物以外に、通路からぞくぞくと魔物が終結してきていた。すでに騎士団だけでは対処できないほどの数になってきている。
騎士団は魔物討伐の精鋭でもある。だが、それはあくまでも隊列を組んだ集団戦闘に他ならない。個人の戦闘でも一級品と評されはする。しかし、騎士の活躍は戦争の場であって、戦う相手は人間と相場が決まっている。
騎士が単独で魔物と戦うことは滅多になかった。それこそ巡視中や、休暇での遠乗りなどで出くわすもので、それは遭遇戦と言って良い。
現状、起こってしまった乱戦は、実のところ、騎士にとっては不利でしかない。彼らは甲冑を着込んでいるため、長時間の戦闘には不向きであるうえに、兜によって視界が悪く、聴覚も音が篭って難儀な状態である。
元々は騎乗する者に付けられた兵の種類でしかなかったが、現在では地位として認知されている彼らの戦闘極意は、集団戦法だったのだ。
どうすることもできない。魔物は無尽蔵に発生する。その根源たる悪魔を殺せなければ、どの道殺されることは眼に見えている。
だが、倒せない。それは絶望的な確信だった。
マイヤーの悲鳴が聞こえる。この期に及んで魔道書を返す気はないようだったし、ギュスターとしても魔道書を手に戻したからといって、自分たちを殺さないなど考えにくかった。そもそもとして、魔物が聖堂を埋め尽くさんとばかりに押し寄せてきているのだから、どう足掻こうと死ぬしかないようだった。
ただ、足掻く。騎士たちは無様に足掻く。魔物の死体を、味方の死体を盾に、遮蔽物にする。床にのた打ち回って、逃げ回り、剣が折れては折れた剣で魔物を突き刺して、相手に組み付く。
誰もが必死だ、必死に足掻いていた。
死ぬことは判っていた。誰もがわかっていたはずなのにも拘わらず、彼らは最後の最後まで抵抗して死ぬつもりのようだった。
そして、その足掻きは、他者の闘争心に火を点した。
「キャアアァァァァ!!」
悪魔の雄叫びが聖堂を覆いつくし、悪魔の頭部に矢が刺さる。何本も、何本も刺さっていく。
魔が宿っている真っ赤なゆらめきが矢じりを神々しく輝かせていたことが、ジスには良く見えた。まるで流星のように、悪魔へと突き刺さり、飲み込まれていく。
「シュート、本当に大丈夫なんだろうな!」
ジスが叫んだ。ディアブロの背中に乗って、彼は上階から飛び降りてきていた。シュートも続く、ジンもベッキーとともにオオカミの背に乗って魔素を切り裂き、聖堂に降り立った。
「な、何をするッ!」
マイヤーは突如現れたローブを纏ったシュートに殴り飛ばされ、魔道書を強奪される。吹き飛ばされたマイヤーは付き従ってきたオオカミに拘束された。
「オレを誰だと思ってんだァ!?」
気勢を挙げたシュートは爛々に輝く笑顔を見せた。
魔道書をめくり上げ、シュートは一心不乱に文面を眺め始めた。
ジンとベッキーがシュートの周囲に寄って来た魔物をはじき返す。ベッキーは右手の長剣で相手の剣を上手く受け止めると、左手の短剣で兜の隙間から喉に刃を突き立てた。そこを足がかりに、首を跳ね飛ばす。ジンは盾で相手の攻撃を相殺して、魔物の膝を鈍器で粉砕する。バランスを崩したところで、頭部に鈍器を振り下ろした。
「数が多いわ。ジン、死角は作っちゃイヤよ!」
「判ってます。ほら、来ます!」
ジスは真っ赤に染まっていくシュートと魔物と戦う二人を一瞥して、迫り来る魔物を突き殺した。寸分の狂いもなく、ジスは魔石を貫いた。魔物は力を失い、塵になっていく。魔石を正確に打ち抜くことによって、身体を現世にとどめることすら、魔物に許しはしない。
その瞬間、悪寒とともにジスは宙に舞った。彼が佇んでいた場所の空気が吹き飛んでいくのが目で見えた。轟音が耳を叩く。
悪魔の腕が振りぬかれていた。
『次は助けられるか判らんぞ』
ディアブロの声が、ジスの背後から聞こえた。首根っこを咥えられて、ジスは床に降り立つ。
「心得たさ」
笑みを浮かべる。思い切りの虚勢を顔面に寄せ集めて、ジスは笑う。
ギラギラと、悪魔の頭部は光っていた。その光りが線となって悪魔の全身を伝い、鏡へと行き着いている。
向かう先は決まった。後は行くのみ。
構えは低く、全方位から迫り来る魔物など眼中にない。
ジスは駆けた。短槍の刃を背に隠すように、斜めに構えて、前傾姿勢で駆け抜けた。正面の魔物を進路からたたき出す。三角跳びの要領で、魔物を足蹴りにして、さらに柄で頭を割った。着地地点に迫る横薙ぎの凶刃を、前転で避けて悪魔へと肉薄する。近づけば、余計にその巨大さが戦闘を妨げる。首を挙げなければ見えない弱点に注目しては、魔物の攻撃を避けるのは難しい。
後ろからも、鉄材の擦り切れる音が反響する。どこもかしこも、騒音だらけで、飛び交う悲鳴と怒声でぐちゃぐちゃとしてくる。
悪魔は身体中のいたるところから、腕を出してきた。白い白い骨の群れが、まるで鞭のようにしなって、それは網のように獲物を逃さない。
鋭くしなる骨の線を避ける。
身体を捻り、飛び越え、転がって。
無様にのた打ち回っても、必死に起き上がって床を抉る骨を避ける。
めまぐるしく変わる殺戮現場の渦中に飛び込みながら、ジスはどんどんと鼓動の音だけに集中していくことが出来ていた。
音が死ぬ。骨が右の耳たぶを持っていく。風の音が次からは消えた。
痛々しく躍動する心臓の高鳴りだけが、世界を作る。
ふと、ディアブロの気配が寄り添った。黒い毛並みが見えて、ジスの前に躍り出る。ジスは迷わず彼の背中に靴底を貼り付けた。ディアブロは勢い良く跳躍した。人間では到底届かないくらいの高さまで達する直前、ジスはディアブロを蹴った。思い切り踏み込んで蹴りつけて、さらに上へと飛び上がった。
雄叫びが挙がる。裂けんばかりに口を開き、目を見開いて、短槍を、その切っ先を、悪魔の眼窩に突き立てた。
「イイィィィィヤヤヤヤァァァ!!」
悪魔が泣いた。のけぞりながら、あとずさりしながら、大音響で泣き叫び、暴れまわった。
手ごたえはある。確実に急所を貫いた。振り落とされないように、ジスは柄にしがみつく。けれども、ジスに巡る高揚は、倒したことへと歓喜ではない。
刃の先から迸る魔の流れによって自分が侵食されていく様を見続けることに対する激情だった。
悪魔になるのが怖い、恐ろしい?
違う。そんなものじゃない。
刃が動く。自分の力で押したわけじゃない。何者かによって引きずられていく。身体が、黒い身体となっていく。
何もなく、何も見えない。虚無の最中に堕ちて行く。
――俺は、この感覚を知っている。包み込まれていく水の中に沈んでいく感触を。
それは、どうしようもないくらいの既視感だった。
ジスは悪魔の中へと消えていく。ずぶずぶと底なし沼にはまってしまったかのように、沈んでいく。
「ジス!」
誰かが名を呼んだ。ジスはそれがローであることに気がつかなかった。ローがこれまでに鋭く、悲壮の思いを込めて言葉を放ったことなど、ジスは聞いたこともなかった。
誰かが、必死に自分の名を呼んでくれている。
誰だろう、でも、ほんのちょっぴり嬉しいかもしれない、女に心配されるのは……。
そんなことを思っていたくらいに、普段のローとは打って変わった少女の叫びだった。




