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瑞々しい草が生い茂っている大地に、青年が一人立っていた。
空は青かった。
腰の高さまで伸びている草は風に揺れ、ざわめいている。
どこかで見たような光景だった。
青年は全身が傷だらけで、赤い血を滴らせている。彼の周りだけは赤い大地が見えていた。
背中を向けている。顔は良く見えない。
黒い影が彼の後ろに伸びていた。夕暮れでもない。けれどもはっきりと青年の影は伸び、大きく、変形した。
マントが風に舞っている。そのような影がやけに立体的になった。
影から白い、真っ白い骨の腕が飛び出してくる。
何本も、何本も。
フードの部分には頭蓋骨が顔を覗かせ、眼窩が鈍い赤に染まった。
影は青年を包み込む。何も言わず、風に揺らめきながら、抱きしめている。
草は死んでいく。風下の青が死んでいく。赤い大地が広がって、やがてはその草に隠れていた盛り上がった土が見えてくる。
木の棒が打ち据えられている。草が死に、墓が増える。
影は愛しく青年を抱きしめ、やがて青年は影に消えた。
黒い影だけが赤と緑と青の世界に佇んでいる。ゆらゆらと。
その黒い影が、突然鳴いた。
ギャァァ、イヤァァ、ととにかく鳴いた。
黒い影から白い杭が突き出てきて、引っ込んで、また突き出てきて。
何度も、なんども、いろんな箇所から顔を覗かせて。
黒い影が赤い大地に倒れこむ。こびりついた染みのようになった影を、青年は全身に真っ赤な血を浴びながら、ただひたすらに白い杭を突き立てている。
小気味良い音が鳴り、金きり声が轟く。
青年の素顔が見えないままで、だけれどどこかで見た気がした。
その背中、その傷を。
焼きつくような痛みが走った。
***
馬車が足止めを受けていた。
幌の外はどんよりと沈んだ世界で満ちていて、雪が木の葉のように舞っている。
隊商の到着予定時間はすっかりずれ込んでしまっていた。
慣れない冬の長旅。降雪による進行の鈍さに、起伏を生み出した降雪の悪路による疲れもあって、ジスはすこぶる機嫌がよろしくなかった。
これで何度目だろうか。ジスは待ちぼうけたまま、ため息を吐き散らし、無造作に延ばしただけの黒い髪の毛を掻き毟った。雪のように落ちるフケの白さが、余計と癪に障る。湯浴みは遠い昔――十六日も昔の話だった。
外を眺めてみるように幌の後ろに目をやった。相変わらず真っ白い世界が広がっている。
生命の息吹すら介在しない。全ては眠りについているような静寂さがある。そこは、平原だった。
「元々は雑木林があちこちにあったらしいが、戦争で草木も育たないくらいに荒廃していた場所になっちまったようだ。もっとも、今では夏になれば、緑がまぶしいもんさ」
同乗する傭兵の一人がそんなことを説明してくれた。
かつての戦争による爪あとを隠すように、雪は平原を埋めている。
雪の一つ一つは実に軽い、そうして手をかざせば人の熱で溶けて消える。それは儚いものに感じられてしまうだろうが、ジスの乗る馬車は、その雪によって足止めを余儀なくされている。
馬車を曳く馬は大型の種が使われていた。鈍重な足取りなため、軍馬には到底使えず、もっぱら開墾などといった力仕事を任せるのに最適な馬だった。
ジスはこの馬をまじかでは初めて見た。巨躯な体つきこそしているのだが、この大型種は身体に似合わず温厚で、とても人懐っこい性格をしていた。
ジスが触れても嫌がりはせず、その逆に擦り寄ってさえくる愛らしい馬だった。
そのような二頭ばかりが並走して十人ばかりが乗り込む馬車を引っ張ってくれているにも拘らず、雪というものは彼らの歩みを止めてしまう。
雪景色と一緒くたに、後方の馬車を引っ張る馬たちを眺めれば、どことなく飽きているような印象を持った。
「例年に比べると雪は少ない方だな。かといって別段湿りきった重い雪じゃない分、まだまだ楽なもんさ」
馬車から降りて雪を掻き分ける青年はそう言って、赤くなった顔を歪めて笑ってくれた。
その言葉通り、彼らはすぐに雪を掻き分け道を作ると、身軽に馬車へ舞い戻って酒を一杯引っ掛けるのである。
今は鎖を巻きつけた車輪が雪を踏みしめていくが、本来ならば滑走するための板に取り替える必要がある。そのような体験もしてみかったものだが、そうなればもっと雪深く、また厳しい寒さに見舞われたかもしれないと思い直し、ジスは天候の穏やかさに感謝した。
空は灰色に染まっていた。
昼間だというのに、どこか夕暮れを匂わせる世界が広がっていた。
「山脈から木枯らしが吹けばもう冬さ。南部の王都じゃまだ暑いくらいだろう。うらやましいね」
それは流石にそれはないよ、とジスは苦笑した。
いかに王都が南部に位置していようとも、十一月は寒いもので誰も彼もが防寒着を着込んでいる。もっともここの寒さに比べれば、と今になっては王都で寒いさむいとのたまう同僚が羨ましく思えてきていた。
「そうかい? まっ、細かいことは気にしなさんな。どうだい、あんたも飲んでみるか、効くぜぇこれは」
彼らは実に屈託ない笑みを向けてジスに酒を勧めていく。
鼻をつんざくアルコールの臭いの割りに、甘みのある風味を口の中に生み出した白濁酒はこの地方の名産品だった。
「王都のほうでも宣伝しておいてくれよ。あんたはそういうのが仕事なんだろ?」
彼らは隊商の護衛をする傭兵だった。傭兵といえば粗暴な者が多いと有名で、ジスもいくつかの、それこそ戦争で活躍したと言われる傭兵団を取材したこともあったが、その頃には随分と苦労したものだ。
それなのに目の前に現れた彼らは、せっせと雪を掻き分け、隊商の人々やジスのように同伴する旅人らに笑顔を見せる。
もちろん、ジスの答えに拒否はなかった。
「おし、俺らも王都まで足を伸ばしてみるか!」
意気揚々と声を挙げるその素振りは、歳相応の青臭さがあった。
「しっかし、探訪報知組合とは堅苦しい名前だな」
「お堅い印象のほうが王都では受けがいいんじゃないか?」
「どうして?」
「そりゃお前のその口から出る言葉よりは、よほどこの記者さんのほうが真実語ってるって思うだろ」
「どういう意味だ」
「悪人面だってことだ。わざわざ言わせんな」
「こいつだって堅気の顔じゃねぇだろ」
それなりに整った顔立ちをしている。手入れのされた髪の毛もあって、女からの受けは良さそうではある。しかし、少々きつい目つきをしているところが、どこか鋭い刃物のような印象を全体に纏わせている。
「てめぇは存在が悪人みたいなもんだろ」
「ひでぇ!」
彼らの笑い合う喧騒を耳に入れながら、ジスはふたたび幌から見える白い世界を眺めた。自然とさきほどまであった不機嫌さはなかった。
しまいには、行く手を阻む雪の山に遭遇すると、ジスも雪かきを手伝う始末。
慣れない重労働に四苦八苦しながらも、一時であるはずの旅仲間と笑いあった。
そこで、ふと思い至る。この道中を面白おかしく書いてみようか。
王都の人々は商人や傭兵、探索者といった職種くらいしか城壁から外へ出たがらない。そうした人々にとって外は外国のようなものらしいから、旅行記は人気が出るかもしれない。
彼らの活き活きとした姿をスケッチブックに描きながら、ジスは振り返る。
馬車が九台、連なっていた。荷馬車が六台。残りの三台には隊商の関係者に、ジスのような同乗者と護衛者が相乗りしている。
人数にて四十人にも上る隊商だった。これほどまでの人数で移動したことのないジスからすれば、普段の取材で赴く一人旅が酷く寂しいものに感じられてしまう。
誰も彼もが話しをする。話しかけられる。様々な会話が飛び交い、歌が轟き陽気が広がる。
雪舞う寒空の下で、ジスは思わぬ人のぬくもりをひしひしと感じてしまった。
「おいおい、俺はもっと渋い顔してるんだぜ?」
覗き込んで来るその顔は黒く、歯は黄色い。それでも、笑顔は清々しい。
「ちょうど鏡が荷の中にあったな、今、出してやるから自分の顔をとくと見ろ」
商人の言葉が横から飛び出し、話題をさらう。
まったく、笑いに事欠かない旅だ。たまにはこういう取材も悪くはない。ジスはほんのちょっぴり、組合長へ感謝してみせた。