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16

 オオカミはどんなに大きいものでも、体高は一メートルに満たない。そんな常識をものともしない黒いオオカミ<ディアブロ>は、ジスと同じくらいの高さに頭がある。

 そうして、ジスとにらみ合う格好を取ったのだ。

 およそ獣とは思えないほどに理知的な面持ちを持つ異形なるオオカミは、ジスにゆったりと近づいていく。

 森からは多くのオオカミが姿を見せて、騎士や剣士らを牽制、襲っていく。彼らの動揺は声になり、それは叫び声となっていた。

「どういうことよ……」

 ベッキーが唖然と言った。

 冷静さを欠いた兵士たちの連携行動は乱れに乱れた。だが、ジスにとってそのような幸運など、目の前に広がる畏怖によってどうでも良いものとなっている。

 何故、という疑問が浮かび上がる。ディアブロに警戒はない。オオカミは本来、支配体系の内で、自分は強者であることを誇示する動作を行う。

 尾を立て、顔を挙げ、耳を伸ばす。しかし、ディアブロの尾は自然体のまま垂れ下がっている。かといって、頭を下げて服従しようという行動をとっているわけではない。

 まるで、今、この状況の中においても、穏やかな心情をそのまま体現しているかのようだった。

 同類が殺されているにも拘らず、群れの長は悠然と、ジスを眺めている。

 やがて、ゆっくりと、それはジスを警戒させまいと慎重を期しているかのように、急な動作を見せず、一歩いっぽ確実に歩み寄ってきた。

 ジスは無言で警戒していたものの、それは騎士や剣士がオオカミの包囲網を突破してきた場合を想定しての警戒だった。

 少なくとも、間合いにして五メートルほどであるからして、オオカミの敏捷を鑑み、襲撃を回避することはできず、良くて刺し違える程度が関の山と考えていた。

 となれば、もはや死ぬことよりも、どうしてという知的な探求、好奇心が勝ってしまう。

 ディアブロはついにジスにその吐息がかかるくらいまで近寄ってくる。そうすると、今度はジスの身体に頭をこすりつけたのである。敵意のない、人懐っこい犬のような行動に、思わず、ジスはディアブロの頭に手をおいた。

 ごわごわとしているが、思ったよりも手にへばりつく体毛であった。

 ディアブロは眼を閉じている。二、三度撫でられてから、ディアブロは喉を鳴らした。

『乗れ』

 野太い男の声だった。

 一瞬、何がどうなったのかジスには皆目検討もつかなかったが、確かに喉が鳴り、ディアブロの口元から声が出てきたのだ。

 あやうく現実逃避しようかというよこしまな考えがジスの脳裏を駆け巡ったが、

『乗ってくれ』

 懇願されてしまう。これにはジスも悪い気がしてくる。森の主に、人間の言語で頼まれるという稀有な出来事に遭遇してしまうとは。何とも不思議なこともあったものだ。

 戦闘は収束に向かいつつあった。オオカミは多くが血に塗れていたが、それは敵方も同じで、どうやら撤退していくようだった。

 笛の音が響き渡る。

 ディアブロは屈んでいた。ジスは意を決して、彼の背に乗った。

「ちょ、ちょっと大丈夫なの!」

 ベッキーが叫ぶ。

 彼にはディアブロの声が聞こえなかったようだ。

 ベッキーの近くには灰色のオオカミが一頭、ディアブロのように人が乗りやすい姿勢になっている。

「行くぞ、乗れベッキー!」

 ジスが言った。

「判ったわよ!」

 ベッキーはオオカミに飛び乗った。オオカミは僅かに鼻を鳴らしたものの、暴れはしなかった。

「まったく、時折見せるその男らしさは危険だって、いつも言ってるでしょ。それとも、惚れさせる気なの?」

「よしてくれ、俺は女が好きだよ」

 ディアブロは大きく吼えた。オオカミたちはその一吼えで、一斉に撤退していく。それはまさに鮮やかとしかいえなかった。

『風が冷たい。眼を瞑っていろ』

 そんな言葉をジスは聞いた。

 次の瞬間には、身を切り裂くほどの冷風が、眼を凍結させんがばかりに吹き付けてきた者だから、ジスは溜まらず眼を瞑った。

 短槍を握りながらも、ディアブロの背中に顔をうずめるようにしがみ付いた。

 揺れは感じる。

 轟々と、風が鳴っている。

 ディアブロに抱きついて、寒さを避ける。彼の身体は暖かかった。

 これから、どうなるのだろうか、という思いを抱きながらも、眼を細めるように世界を確認してみるが、景色が良く判らない。

 ――獣だって、馬鹿を言うな。

 景色が間延びしていく。木々が太く、霞に隠れるように曖昧で、どんどんと姿を変えていく。それほどに、早かった。馬よりも、いや、比べるまでもなく、素早かった。

 どこかへ向かう。

 ジスは、ディアブロとともに、森の中を疾走していた。

 どれほど眼を閉じていただろうか。ふと人の叫び声のようなものが聞こえたかと思えば、突然の暗闇がジスを襲った。

 思わず、眼を開けてみる。何個もの松明が光を発していることが判った。閉所に入ったようである。

 風の冷気は薄まり、ようやくジスは身を起こしてみる。

 先ほどよりも、ディアブロの速度は落ちている。疲れてしまったのかと思ったが、実のところそうではなく、入り組んでいるため、速度を落としているといったところだろう。

 人間とすれ違う。兵士のようだった。彼らの怒声が背中を叩く。

 ここは一体何処なんだ。

 ジスはますます混乱したものの、ディアブロに問いかけることをぐっと堪えた。

 問いかける必要もない。そんなものは自分が一番良く判っている。

 そうだろう。身体が熱いんだ。眼が痛むんだ。

 ギシギシと、世界が軋む。

 ドクン、そうだ、ドクンドクンと血脈が沸く。

 高鳴りは恋焦がれているかのように、それがとても不快で、けれども、その不快こそが興奮の元凶となっている。

 目の前に光が広がる。それは見たことがある。ジスには真っ赤に見える。

 ――なんてこった!

 こんな場所があって良いのか。

 こんなもの、こんなものが。

 ディアブロは歩みを止めた。前のめりになりそうなところを必死に、ジスは耐え切った。

 そこは都市だった。

 広大な空間の中に都市が沈んでいる。

 真っ赤な星々が、怒号と、叫び声の中で輝いている。松明の光とともに、都市を照らす。

 眠りから覚めたかのように、喧騒が都市を沸かせる。

 活気に溢れた都市の大通りでは、剣を、槍を、弓を持った戦士たちが戦っていた。

 打倒し、打倒され、捕食されながらも、魔物を殺していく。

 地鳴りを上げて、千を越すであろう軍勢が、魔物の群れを駆逐していく。

 遠目からでも良く判る。彼らは兵士だ。

 黄土を基調とした甲冑を着込んだ騎士団も見受けられる。掲げられた旗は赤の生地。

 白地の双剣を斜めに交錯させ、黒き矢が十字に交じり合う旗の刺繍。

 間違いはない。間違えるはずはない。

 あれは、帝国の旗だった。

 帝国の軍勢が、地下の都市を制圧せんと兵を差し向けていた!

『魔を断つ者よ……魔断の者よ』

 魔を断つ存在と、うそぶくお前は一体なんだ。何を知っていて、どうしてこんなところへ連れて来た。

『我々はお前を待っていた』

 ふざけてる。ありえない。こんなことがあってたまるか。

 叫び声を挙げていた。

 頭が痛む。傷が痛む。ジクジクと、侵食していく。

 『我らは、お前を導くために生まれてきた』




*****




 巨大な空洞はかつての都市をそのまま呑み込んでいる。

 円状に城壁が走り、内部にはそれに沿うように通りが延びていた。

 広い通りを隔てて住宅街から商店街と、区分けされた居住空間が敷き詰められている。

 通りはすべて最深部に向けられており、その先には巨大な神殿のような建築物が悠然と鎮座していた。

 殆どが石造りで、通りも石である。ダリスも、石の家はあるが、全てではない。何よりも冬は良く冷えることもあって、木造作りで火元の近くに石を使う。建築様式も豪奢ではなく、都市の景観は瀟洒なもので、その飾らないまでも、稟と張り詰めた美しさを醸す様式は、近隣貴族からの受けも良い。

 地下都市は、その建築様式とはかけ離れており、通りに面している建物の外壁全てに、細かい彫刻が施され、通りを歩く者達を圧倒するほどだ。

 今は、その見事な彫刻を楽しむ余裕はない。

 酷い魔素だ。視界不良に陥りそうなほどの魔素が漂っている。

 こんな魔素の澱みは、見たことがない。話に聞けば迷宮の最下層は、魔が詰まっていて人の入ることの出来ない魔境だと聞いたことがあった。

 ここがそうだ、と言われても驚きはしない。

 鼻をつんざく死臭が立ちこめて、そう遠くない大通りで帝国兵の断末魔が響き渡った。

「おいおい、こりゃすげぇじゃねぇか!」

 歓喜に打ち震えた声に、ジスは我に帰る。

 シュートの興奮が、ジスの心を落ち着かせた。呼吸が荒いまま、眼だって痛む。しかし、苛立たしいと思う余裕が生まれた。

「気楽だな、お前は」

「そりゃ、ジスさんよォ……オレが、これまでの人生をかけて探して求めてきたモノが、目の前にあるんだぜ!!」

 その言葉にジスは眼を見開いた。振り返ってみると、そこにはフードを取ったシュートが居り、その顔には嬉々とした笑顔が張り付いていた。

「オレは、このときを待ってたんだ。真実を、確かめるこのときを」

 確信めいた口調だった。

 嬉しそうなシュートの後ろには、ジンとベッキーの姿も見えた。灰色のオオカミに乗ってきていたようだ。

「地下に都市が眠っているなんて、聞いたこともないわ」

「け、建築様式も見たことがありません……下手をすると、ここは王国内ではないのかもしれませんよ」

「魔素がこんなにも……気味が悪い」

 ジンやベッキーですら魔素を視認できるほどの魔素が充満しているようだ。

 二人の会話をよそに、ローは、ジスの隣までやってくると、シルヴィアの背から降り立つ。ローは彼女の頭を撫でながら、平然と目の前に広がる光景を見つめていた。

「知っているんだろ」

 ジスは、真似をしてディアブロの頭を撫でた。気持ち良さそうに眼を細めたディアブロは、

『ここは迷宮の地下に位置している。かつて存在した古代人の都市だ』

 と言った。

 会話をしていた二人の声がやむ。

 ジンが口を大きく開けて呆けてしまった。

 ベッキーはこめかみを押さえ、とても辛そうにしている。

「おいおいおい、なんつうこったい!」

 シュートは面白いとばかりにディアブロに駆け寄った。

 背中を撫で回しながらも、爛々と瞳を輝かせるように顔を寄せて、

「喋れるのかよ、お前さんはよォ」

 と、はしゃいだ。

 ディアブロは少しばかり鬱陶しいとばかりに鼻を鳴らした。

 まったく、羨ましい限りだ。ジスは思わず苦笑を滲ませた。

「何故、俺たちを?」

『主を救って欲しい。ジスブレッド。お前は、それだけの力を持っている』

 心当たりがある。ジスには魔が見えるのだ。魔素の、魔石の胎動が見たくなくとも、見えてしまう。

「お前さんの主は、エカテリーナ様だろォ?」

 シュートが話に加わる。

『そうだ』

「エカテリーナ様は、生きておられるのか?」

『囚われているのだ』

 シュートの顔はぐちゃぐちゃに歪む。

「ゆるせねェな、エカテリーナ様は聖なる死すらも迎えることができていないって事だろォ」

『しかし、主はそれを望んだ。魔断に全てを……己の信念も、身体も、命すらも託したがゆえに』

 シュートの瞳から涙が零れ落ちた。暫し、彼の嗚咽がその場に溢れた。

 彼にとって、エカテリーナとはそれだけの存在だった。

「――案内してくれよ、大丈夫だ。ジスは依頼を受ける」

 もはや涙は消えていた。

「おい、何を勝手に」

「お前、目がまた変質しているぜェ?」

 その言葉に、ジンとベッキーは訝った。二人にはとてもそうは見えないからだ。

「魔力を持つ者だけが、お前を知る。そうだろ、ロータスよォ」

 シュートの言葉に、ローは静かに頷いた。

「何を、知っている」

「ジスは、悪魔を殺した者。だからこそ、魔を断てる存在。悪魔の持つ魔の流れが見える。力の根源を断てる。それは、主を救ってくれる唯一の人間の条件」

 冗談を言っているわけではなかった。それくらいには真剣な顔を作り出している。

『悪魔へと堕した主を救えるのは、悪魔殺しを成し得た魔断のみ』

 悪魔だって?

 何をばかげたことを言っているんだ。笑い飛ばそうとして、顔が引きつってしまった。

 悪しき魔の集合体。邪悪な心を持った人間の成れの果て。

 そうだ、物語ではいつだって悪魔は人を誑かし、仲間へと引きずり込んでいく。

 そうして、いつだって倒される、人間の手によって、勇者の手によって、悪しき存在として、倒される。

 物語はそうして、終わりを迎える。

 誰もが知っている。けれども、誰もが実在しないと信じている。

 勇者がこの世に存在しないように、その相手役となる魔王も、悪魔も、魔女も、ドラゴンも存在しない。

 それが、この世の常識だった。

 誰もが知らない。知らされずに生きている。

 だったら、何故だ。

「ジス、忘れないで」

 彼女は平然と、その言葉を放つ。

 忘れているはずはない。物覚えは良いほうだった。そりゃ、遠い記憶は曖昧だけれど、悪魔を殺したなんて……。

 冗談ですませようとしたところで、身体が言うことを聞かない。

 ――ジス。

 男の声が耳元で鳴る。

 その現実を、ジスは判っていた。

 現実を知っていて尚のこと、忘れようとしていた。いや、忘れていた。

 悪夢にうなされながらも、これは夢だと必死に隠してきていた。

 どうして、知っている。

 自分はどうして、御伽噺の空想を現実だと断言できている。

 知っているからだろう、だが、何故だ。

 何故、知っているんだ。

 ――すまん、殺してくれ。

 男は泣いた。泣いていた。真っ暗闇の中で、孤独に泣いていた。

 知っている。そうだろう、ジス。

 お前は全てを知っている。悪魔は存在すると。

『お前は、かつて悪魔を殺している』

 身体中が軋みはじめる。

「お、俺は……」

「お願い。主を、」

 人々の怒号が聞こえてくる。懇願する男の声がする。泣き叫ぶ女の声がする。

 叫ぶ、自分の声がする、やめろ、やめてくれ、そう叫ぶ自分の声が身体を駆け巡る。

「殺して欲しい」

 ジスは叫んでいた。力の限り、口を開けて叫んだ。

 獣のような雄叫びが響き渡る。

 怒りが沸いてくる。どうしようもない憤りが生まれてくる。

 遠い昔のことだ。忘れている。そうさ、忘れている。そのことを思い出した。

 酷く頭に来ることを忘れていた。

 思い出せそうで、詰まっている。

「――判ったよ。殺すさ、何も問題じゃない。ただ殺すだけさ」

 こんなことがあってたまるか。

 激情の中に、憎悪が浮かぶ。それが何かは判らない。けれども、悪魔を殺せば、全てが判る。

 確信が、ジスにはあった。

「案内してくれ」

 自分の声ではない気がするほどに、低い声が喉から搾り取られていった。

 誰もが息を呑む。シュートですら、真顔を貼り付けていた。

 地響きが足元を揺らす。

「な、何」

 ベッキーが足を踏ん張らせながら言った。

『結界を破ったな』

 不機嫌そうに、ディアブロは言った。

 真っ赤にうねる膜の様なものが、都市を覆い隠していくのが、ジスには見えた。

「主は自身が勝手に外へ出ないよう鍵をかけた」

「今の振動は、それが解かれた合図ってわけね……」

『帝国には気付かれている。場所を移動しよう』

 ジスはディアブロの背に飛び乗った。

「オレもいくぜェ。こんなところでオレの生を無駄にしたくはねェからな」

 シュートの言葉に、ジスは振り返る。

 正直に言えば、怖かった。向かう先で悪魔に出会うことが、とてつもなく怖い。そして、それと同じくらいには、短くはない付き合いをしてきたシュートやジン、ベッキーに自分のことを知られてしまうことが恐ろしかった。

「ぼ、ボクもいきます」

 ジンはいつもより強い口調をジスに投げかけた。その様子を見て、ベッキーは力を抜いてジンに向けて笑みを向けていた。

 そうして、ジスにも同じような顔を向ける。

 不快ではない笑みだ。スキンヘッドのおっさんにも拘らず、柔和なもので、安心感を抱かせる笑顔だった。

「こうなったら、ついていくしかないわよね」

 ベッキーはジスにウインクを飛ばした。

 結局のところ、ベッキーは本当に姐御のようだ。ジスは前を向き、苦笑を漏らす。

「勝手にしてくれ。俺は、ただ確かめにいくだけだからな」

「そいつは、オレも同じだぜ?」

「ならとっとと行くぞ」

 ローがシルヴィアに乗りながら、ジスの横にやってくる。

 顔を向けると眼があった。

 ――なんだよ、そんな顔もできるじゃないか。

 そっとつぐんだ唇に、不安げにゆらめく瞳とその柳眉は、歳相応の少女らしいさが垣間見えた。

 困ったものだった。

 ジスは無意識に頭を掻き毟った。女の不安げな顔は、ジスにとって苦手ものの一つだった。普段見せないような女のものならば、尚のことである。

「大丈夫だよ」

 そんな言葉が口から滑り落ちて、

「なんとかするさ」

 ディアブロの頭を軽く叩くと、彼も察してローに近寄った。

 ジスは手を伸ばし、ローの頭を撫でた。

 彼女は微笑んだ。歳相応ではない、女の笑顔で、それはとてもジスの心を暖かくする。不思議なほどに、印象深い笑顔だった。

 

 

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