愛の形
隣人
「最近山下さんの奥さん見た?」
「見てなーい」
「どうしたのかしらね?」
ここは東京のベッドタウン。家族を送り出した後の朝の光景。懐かしい団地の片隅で、幼い子供を遊ばせている間の最近の井戸端会議の話題は、5階の山下さん夫婦のこと。
「旦那さんはちょくちょく見かけるのよ。いつも愛想が良くて、挨拶もしてくれるし」
「うっそ。あたしはこの間怒鳴られたのよ。ゴミの出し方をちょっと注意しただけなのに」
「うちの主人が夜中にうろうろしてるの見たって。不審者みたいだったから声掛けたら山下さんの部屋に入って行ったんですって。背が小さくて、濃い顔のおじさんだったって言うから、きっと旦那さんのことよ」
「5階の山下さんって、何号室になるんですか?」
「あら、あなた知らないの?」
質問したのは、つい最近越してきた、新婚の寺田。
「やだ寺田さんのお隣よ。501号室よ」
口をぽかんとあける寺田の妻に、皆笑う。
「知らなかったの?」
「だって表札出てないし、静かだから誰もいないのかと」
「山下さんのところは越してくるときに防音にしたらしいわよ壁も床も全部取りはらってリフォームしなおしてたもの」
その場で口々に語られる内容を、夜帰宅した夫に告げた。
山下さんが越してきたばかりのころは、奥さんがごみ出しもしてたし、買い物に行ってたらしいわ。ベランダで洗濯物を干す姿も、下の公園から見えたって。
いつもニコニコして愛想がよくて、太めで活発な肝っ玉母さんみたいだったって。自治会にもちゃんと来てたし。
旦那さんは上場企業に勤めていて、一度退職した後、顧問として再雇用されたんですって。きちんとスーツを着てネクタイをして普通のサラリーマンだったって。
それがね、旦那さんが完全に退職して、家にいるようになってから、奥さんの姿が見られなくなったんですって。
一体どうしたのかしらね?
それから寺田は隣を注意するようになった。
501号室は角部屋で、隣になるのは502号室の寺田家だけしかない。階段状になっているために、上の階はなく、下の402号室が山下家の下なのだが、トラブルが絶えないために、棟がいっぱいにならない限り空き部屋になっているらしい。
「て、ことは山下さんちに接するのはのはうちだけなのね」
ベランダで洗濯物を干しながら寺田は小声で言った。ベランダの境界になる板の隙間からは、大きなプランターに植えられた何かの植物が見えた。都会っ子で植物に疎い寺田には名前はわからない。
それと区できめられた大サイズのごみ袋が3つ。何重にも重ねられて、口もしっかりと結ばれている。床には砂やら葉っぱやらが朽ちるまま放っておかれている。
外からは見えないように、上から下までびっちりとすだれがかけられて薄暗い。そして小汚い便所スリッパが一足置かれていた。
物干しざおにはほこりが積もり、ベランダの鉄製の手すりはさびが浮いている。
「誰も住んでないみたい」
最後の靴下を洗濯バサミに挟むと洗濯かごを抱えて、部屋に戻った。
もう間もなく復職する寺田にとって、昼の空いた時間をいかにスキルアップにつなげるかが最近の課題になっていた。ホテルのフロントという職業柄、英語は問題ない。次に会得すべきは……悩んで中国語にした。韓国語も捨てがたかったが、客数を考えれば、中国人観光客のほうが格段に多い。
ヘッドフォンをして、買ってきた中国語のCDをきき、耳にしたまま口に出す。意味はわかっていないので、テキストを見ながら口にするだけで必死だった。つい集中するうちにお昼の時間をとっくに過ぎていた。
慌てて、ヘッドフォンを外して簡単な食事準備をする。
スパゲティをサラダのドレッシングで簡単に和えて周りに野菜を散らした。なかなかおいしそうにできた。皿を食卓に運ぼうと持ち上げた時、
「……」
隣から何かが聞こえた。
低い声。
しばらくそのまま、耳を済ませたが、もう何も聞こえてこなかった。
午後は買い物に行き、帰ったら中国語の続きをしようと思っていたのだが、隣が気になってCDに集中できない。しょうがなしにヘッドフォンを外し、漢字の書き取りの要領で、何度も発音と書き取りを繰り返した。集中できないまま時間は過ぎた。
「時間を無駄にしたわ」
翌朝ごみを出しに行くと、既に奥さんたちが集まって話していた。
「おはようございます」
「寺田さん、どうだった?」
みな期待した顔で寺田を見る。
「何にもないですよ。ちょっとだけ声が聞こえましたけど旦那さんじゃないかしら?」
「そう」
「ベランダにも出てらっしゃらないみたい。埃がたまってるし、大きなごみ袋が3つも置いてあったけど、それも長い間放置されてるみたいだし」
「ごみ袋が3つ」
考え込む奥様達をよそに寺田は今日出すべき燃えるごみを収集用のゴミ箱へ入れた。
「寺田さん、もしかして、バラバラにしてそのゴミ袋に入ってるんじゃないの?」
「あ、あたしもそう思った」
「やだ、2時間ドラマの見すぎじゃないですか?」
「でも考えてみたら、1年以上山下さんの奥さん見てないのよね」
「突然いなくなった感じでもないしねえ」
「そうそう徐々に見なくなった感じ」
「旦那さんと車で出かけたりはしてたし」
「息子さんたちと出掛けるのも見たわ」
「それが、1年前なんですか?」
皆が一斉に頷く。
旦那さんが奥さんを?
部屋に戻り朝食の片付けをしていると、洗濯の終わった音楽が鳴った。
手を拭きながら、洗濯物のかごを手にする。
「ベランダか」
これからベランダに出るたびにあのごみ袋に目がいってしまうだろう。形が浮いてたりしたらどうしよう。
警察に届けて、間違いだったら?
あのごみ袋を見られるのはうちだけじゃないの。ダメダメ。通報なんかできない。
やっぱり目が行ってしまう。でもごつごつしてたり、何かの形が透けて見えることはない。白くて丸まっこい。
残念なのか、ホッとしたのか。わかるのは通報はしなくていいってことだけ。
また、日常通り。私の生活はサスペンスじゃない。
とはいえ、時折聞こえる物音や話し声は聞き分けられるようになってきた。
椅子を動かす音や、掃除機をかける音、洗濯機の音。外に干してるのは一度も見たことないから、乾燥機か部屋に干しているのだろう。あと室外機の音もするし、給湯器の音もする。
生活はしているんだ。
歌も聞こえてくるときがある。うたっているのか?テレビか?CDか?判別はつかないけど。
朝また報告をする。
ごみ袋には大きなものが入ってるようには見えないことを。
「別居かしら?」
「離婚とか?」
「そうかもしれないわね」
「そうですよ。そんな大変なことが起こるわけないですって」
「自分のところが平和だから、刺激を求めているのかしらね」
ほほほと笑いあって、それぞれの日常に帰って行った。
「今日ははかどったわあ」
中国語のあいさつを一通り覚えると、うまくなったような気になる。よどみなく挨拶ができれば高感度はあがるだろう。凝った肩をもみながら外を見るとそろそろいい時間。
洗濯物を取り込もうと、ベランダに出た時だった。
「あれ」
サンダルの位置と向きがいつもと違うような気がする。いつもは部屋につま先が向かっていた。奥さんの姿がないのだから、履き物のつま先の向きなど気にしていない旦那さんが脱いだのだと勝手に想像していた。
ところが、つま先が外を向いていた。これは女性がしそうな行動だけれど。
「まあ、男の人でもするかもね」
洗濯物を取り込むと部屋でたたみ、同時に夕食の準備も始めた。
隣でも食事の準備が始まったようだ。金属と金属のぶつかる音や、陶器の音。じゅうっという焼けつく音が聞こえてくる。
「偉いわ旦那さん。毎日ちゃんと作るのねえ」
うちのほうが、簡単に済ませている感じがする。アジの塩焼きに、味噌汁、サラダ、麦入りご飯。粗食は健康の素だ。
間もなく夫が帰ってくる時間になった。夫の足音を期待して耳を澄ますと、エレベーターのあがってくる音がする。
「時間どおりね」
味噌汁の鍋を火にかけた。
「ただいま」
「お帰りなさい」
パタパタとスリッパを鳴らして駆け寄った。なんてったってまだ新婚だもの。
「時間どおりに帰って来てくれてうれしいわ」
鞄を受け取り、靴を脱ぐ夫に言った。
「君が待っていてくれるんだもの、もっと早く帰りたいよ」
片手で軽くハグする夫にキスをねだると、恥ずかしそうに返してくれた。
「ごちそうさまでした」
簡単な食事を終え、晩酌タイム。ツマミと、缶ビールを片手に満足そうな夫を見て、私も満足だ。
「そう言えば」
「何?」
「帰りのエレベーターで山下さんのご主人と一緒になってね」
「え?」
「今日は大学の退職者向けのセミナーに行っていたそうだよ。悠々自適でうらやましいね」
「そう……」
じゃ、奥さんは部屋にいるのかしら?
次の日はゴミを出す日ではなかったが、どうにも気になって一番話の合う階下の伊藤さんの家に電話をかけた。お茶に誘うと、すぐに行くからと返事をもらった。本当に1分もしないうちにチャイムが鳴り、伊藤さんは興味しんしんで部屋に入ってきた。
「お邪魔します」
なぜか小声で言う。
「やだわ、なぜひそひそ話すの?」
「あら、なんとなく。そうねおかしいわね」
いつもの外での会話よりは小さいが、すこし音は上がった。
「ごめんなさい、いまお湯沸かしてるから」
「気を使わないで。そうだ、これキムチおいしかったから、おすそわけ」
とタッパーを渡された。
箸と小皿を出して、テーブルに置いた。うちにはおせんべいくらいしかない。慌ててお皿に山盛りにしてそれもテーブルに置いた。
「で、どうしたの?寺田さんからお茶なんて、初めてじゃない」
「ええ、その、お隣のことなんだけど」
お湯の沸いた音が聞こえてきた。キッチンでお茶を入れてテーブルに着くと、伊藤さんは目をキラキラさせていた。
「で、何か進展があった?」
「ええ、実は昨日の夜ね……」
事情を説明すると興奮して、キムチを小気味いい音をさせて食べだした。
「それじゃあ、山下さんの旦那さんは出掛けてるのに物音がしたわけね?」
「たぶん」
「たぶんてどういうこと?」
「誰かが出掛けた音は聞いてないのよ」
そうなのだ。ドアの開け閉めは静かにできるけれど、この古い団地のドアのカギは、ガチンと音をさせないと開閉できない。
山下さんちも反対のお隣も、うちも必ずする。が昨日は山下さんちの音は聞いてない。
「あら、知らないのね、内側からそっと閉めれば静かに開閉できるわ」
「ホントですか?」
知らなかった。
「じゃあやっぱり、山下さんちは旦那さんともう一人。たぶん奥さんがいるのね」
伊藤さんは、しばらく話しこんだり耳を澄ましたりして、お迎えの時間だからと残念そうに帰って行った。
今日の話だと……
山下さんの奥さんは1年以上ずっと外に出てないってこと?そんなこと考えられない。
外の用事は旦那さんがして、奥さんは部屋の中で用事をするってことよね。
買い物とか自治会の活動、ゴミ捨て他にあったかしら?
今ごろはインターネットでいろいろ手に入るし、食品だって持ってきてくれる時代だ。そう考えると、コンピューターが一台あって、年金みたく口座に現金が振り込まれるならずっと家にいても生活できるのか。
出たいと思わなければ。
私はそうは思わないけど。きれいな景色を見たり、海に言ったり山に言ったり温泉に入ったりしたいじゃない。友達とも会いたいし、買い物も自分の目で見て買いたい。
夕食時に夫にそう言うと、夫もそうだよなと同意した。
またこうも言った。
「世の中にはいろんな人がいるから。家が好きで、家から出たくないって人もいるんだろう」
「そうね、人の心はわからないものよね」
食器を洗い終えると、缶ビールを手渡しながら夫に言った。
「もし、あたしがお隣のようになったら助けてくれる?」
「もちろんさ。大事な奥さんを家に閉じ込めようなんて趣味はないよ」
夫はビールごと私の手を掴み引き寄せた。新婚ですから。
私は昨夜の夫の一言に引っかかっていた。
「奥さんを家に閉じ込めるなんて……」
ここに越してきた時は、普通に買い物に行ったり、井戸端会議に参加したりしてたのよね。そんな人が、家に引きこもるようになるかしら?私はならないと思うの。
で、本当に余計なお世話だとは思ったが、一目奥さんに会いたくて、出来れば外に出てきて欲しくて旦那さんが出掛けた時に、お隣のチャイムを鳴らしてみた。
うまい具合に実家から送ってきた旬の梨があるから、おすそ分けにっていいわけで。
ピンポーン
ドキドキしながら、ボタンを押した。
返事はない。
もう一度。
やはり返事はない。
ドアをノックしてみる。
「こんにちは、隣の寺田です。山下さーん」
やはり返事はない。
あきらめてドアノブにレジ袋に入れた梨を引っかけた。最後まで入れようか迷ったメモを入れて。
いったん自宅に戻り、買い物の用意をして自宅を出た。山下さんちをちらっと見ると、梨がない。
やっぱり!奥さんいるんだ!
期待を込めて入れたメモが役に立ちますように。
あと梨をおいしく食べてくれますように。
私はうれしくてちょっとスキップした。
家に帰り急いで生鮮品を冷蔵庫にしまった。食中毒は気をつけないと。ホテルの従業員でも食中毒を出したら営業停止になりかねない。そろそろ、そういう気の使い方も思い出さないといけない時期だ。
ふと、異変を感じた。何かが動いている。そーっとキッチンから顔を出すと、カーテンが揺れていた。出掛けるときに閉めたはずの窓があいている?
恐怖でふらふらになりながらも近づく。
何このにおい?
酸っぱいにおいが鼻を突く。
カーテンをさっと開けると、窓ガラスが割れていた。
「なんで?」
散乱するガラスに混じって飛び散っているのは、梨。
梨が炎天下ですぐに腐ったにおいだったのか。早くもハエが集まってパーティをしている。
どうしてこんなことに……
「まさか」
山下さんが?
割れていない方のサッシを開けてベランダを見ると、汚れた手すりに、手の痕がついていた。
疑念が確信に変わる。
山下さんだ。
あたしが余計なことしたから怒ったのかも。
どうしようもないまま、ガラスを片づけて、ビニールと段ボールで窓にふたをした。薄暗くなった室内には、まだ酸っぱいにおいがしていた。
その夜は夫に石が落ちていたのとうそを言い、ごまかした。
もとはと言えば私のお節介のせいだし。やっぱり山下さんの奥さんは家にいたい人なんだわ。
もう身にしみたから、これ以上何も起きませんようにと願うことしかできない。
翌日はガラス屋さんに連絡して午後には来てもらうことになった。
ガラス屋さんを待つほかは特に用事もないのでまたヘッドフォンをして中国語の勉強をしていた。
すると目の端を何かが動いた。振り向くと、全身が鱗におおわれた巨大な何かが動いていた。
小山のような巨体をすとんとしたワンピースで覆い、よたよたと近寄ってくるそれは人間だった。顔も手も足もうろこ状になった皮膚が白く張り付き、かさかさといっている。髪はフケで覆われて、ところどころに血が流れ、かゆいのかその部分を掻いている。掻くとうろこ状の白いモノがはがれ床に落ちる。
「やめてえ。ごめんなさいい」
内臓がぞわぞわするような感覚に襲われる。
その怪物はヘッドフォンをたたき落とし私に言った。
「何様だよ。あんたスパイだろ。うちに盗聴器つけたのも、カメラ仕込んだのもあんたの仕業か」
「違います」
「うちのベランダも覗いてたろ?梨は?毒でも仕込んだのか?わざわざ隣に引っ越して、壁に穴でもあけたかい?」
「そんな、何もしてません」
「じゃあこのメモはなんだい」
ポケットからごそごそと私の書いたメモを取り出す。
メモには「私はあなたの味方です。ご相談に乗ります。お気軽に声をかけてください」と書いた。
「味方って何だい。あたしに味方なんていないのさ。だから、こうして身をひそめてたのに、どうして分かったんだい?で、他に誰が知ってる?」
この人狂ってる。そうか、下の部屋に嫌がらせしたのはこの人だ。旦那さんは一生懸命、奥さんを世間から隔絶させたんだ。そしてそれに成功してたのに。私が檻から放ってしまった。
どうしたらいいんだろう?
玄関から逃げる?ダメだこの距離じゃ鍵を開けてる間に捕まる。
椅子を盾にしようと持ち上げた。しかしこの巨体に押されて、逆に壁際に追い込まれた。
「さあ、どうしてほしい?」
ニタニタと涎を垂らしている。
「やめて!触らないで!」
「富美やめろ!」
ベランダから声がした。
それは山下さんの旦那さんだった。
「富美、その人は何も関係ない。悪いのはすべて俺だ」
「浮気してるの?」
奥さんが悲しそうに言った。
「してない!今日初めて会ったんだ」
「信じられない」
「今まで浮気なんてしたことはないよ」
「うそ!」
そっと奥さんに近寄る旦那さん。
「嘘もついない。こっちにおいで。家に帰ろう」
「あたしを一人置き去りにするのね」
「ずっと一緒にいる。今までも、これからも」
「どうでもいいわ」
今までの切ない展開がうそのように突然旦那さんを突き放した。
あっけにとられる私をよそに、ベランダ伝いに二人は部屋に帰って行った。
翌朝、何かがあったと気づいた奥さん連中に、顛末を話すことはなかった。
山下さんの奥さんのさみしそうな顔と、旦那さんの切なそうな顔が脳裏に焼きついて離れない。
あの夫婦に浮気騒動があったのか、裏切り行為があったのか、私にはわからないけれど、今は思いあって支え合って生きているように見えた。いや感じた。夫婦の愛を。
私が余計なちょっかいを出さなければ、こんなことにはならなかったんじゃないかと思える。
だってかすかにだけど歌を歌う奥さんの声が聞こえてきたから。楽しそうな会話が聞こえてきたから。怒ってる声も、笑ってる声も。幸せってそういうことだと思うから。
帰ってくる夫には笑顔を見せたい。夜には喜びを、朝には機嫌が悪くても、笑って行ってらっしゃいを。そして毎日私の愛を。