放浪する青年
人知れず生き続ける者は世界中どこにでもいる。宿を転々と変える者、橋の下で寝泊まりするもの、そしてここには旅をする者がいた。荒野をひたすら西へと歩き続ける青年がいる。20代前半とも見える彼には何一つと特徴を持たないと言っていい恰好をしている。ただあるものとすれば右頬に火傷の痕か痣か何やらよくわからない赤い傷があるだけである。そして、彼には名前がない。ただひたすら西へ向かっている彼は村から出るときに白い布を被せられて目が覚めたら荒野の湖の上に浮かんでいたところしか記憶がない。だがしかし、近くに旅人の忘れ物らしき服が、漆黒の長ズボンと半袖のジャケットがあった。そして青年は言葉を発する。
「今ここはどこだ。」
ただひたすら西を目指す彼はその一言だけ、唯一その一言だけを話すことができる。
荒野には看板らしきものがある。そこには一言、
『怪物に注意』
と書かれているだけだ。彼はそれを読もうと近づく、五十メートルも離れているそれを読めるはずもないと思うが彼には読めてしまう。読まずともわかっていることだからだ。彼はひたすら西へと歩く。時が夜を示しているときは寝る。今はもう長ズボンも半ズボンと化してしまったそれと少し大きめのジャケットを羽織ったまま、青年は岩の影に身を潜め、眠りにつく。だが、
ぐぉぉぉ・・・。
青年の寝息と共に遠くで何かが吠えている。それは足音と共に近づいてくる。青年はそこで目を覚ます。目を覚ました青年は機嫌を損ねた様子もなくすぐに状況を把握した。臨戦態勢に入り、飛ぶ、攻撃を避けるためだ。しかしそれは一瞬遅かった。
がすっ・・・。
青年の右手からは血液が百ミリリットル程流れ落ちる。
(止まれ)
青年がそう思うとそれはすぐに止まる。青年が応急処置をしたわけでもない。ただ思っただけだ。青年にはその力がある。そして、また足に力を加えて、飛ぶ。今度は怪物の方に飛ぶ。そして左手拳に力をありったけ加え、殴る。怪物を殴る。
くぅ~・・・。
唸りながら怪物は吹き飛ぶ。その拳は見事に怪物の脳天にクリーンヒットした。怪物は動かない。だがしばらくすると体がみるみる小さくなっていく。そして、最終的に犬になってしまった。
それを確認すると青年はすぐに睡眠へと入る。
そんな目標が一つしかない旅はさらなる進展を遂げる。とある日の昼間、一人の白衣を着た老人が目に留まる。青年は興味を持ったようすもなかった。しかし次の瞬間、老人が白衣のほかに持っていた鞄から一つのものを取り出したのを青年は見逃さなかった。目を凝らしてみる。遠くてよく見えないが何かを手に持っている。
青年は目の周りの筋肉に全力を注ぐ。徐々に目が赤くなっていくと共に彼の視力も数倍になる。
「!」
彼は言葉をなくした。自分が今もなおつけ続けている腕輪そっくりのものをその老人が持っているのだ。
ドックン、ドックン、ドックン。
心臓の音が大きくなるように感じる。この老人に話を聞けばもしかしたら自分のことを教えてもらえるかもしれないという希望が胸を高ぶらせる。そっと、力を抜いて静かに近づいていく。徐々に距離が縮まっていく。残り三十メートルほどで老人が、ふと周囲を気にし始めた。それに驚いたか青年は足音を立ててしまった。いくら岩陰を歩いていようとじっくり眺められたらすぐにばれてしまう距離に近づいていた。
「・・・・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、ふう。」
老人は誰もいないと再度確認してから安堵の胸をなでおろす。それほど危険な実験でもしようというのだろうか。青年は気が気ではなかった。今すぐにでも飛び出して話を聞きたかったがしばらく様子を見ないと、すぐに飛び出て攻撃されたら話を聞くどころではなくなる。それを回避するためにそっと近づいてあたかも近くを歩いてきた全然普通の人を演じようというのだ。
別に演じなくてもいいのでは、そう思う人も多いだろうがここはこの青年の意志に何もツッコまないで見守ってみよう。
しばらくすると青年は飛び出した。何を考えていたのか、青年は突然老人の目の前に姿を現現す。そして問う。
「おじいさん、その手に持っているものはなんですか。」
それを聞く以前に突然姿を現した青年に驚き、つい腕輪を腕にはめてしまった。
「!」
青年は無意識のうちにそれはもう世界の終りでも見たかのような恐ろしい表情をしてしまった。老人は急に自分をひどい面をしたまま見つめる青年をジロリと見返す。
「なんじゃお主、何か恐ろしいことでも儂に起きておるのか。」
老人は自分が腕輪をはめていることに気づいていないようにみえる。年のせいで感覚器官が鈍くなっているのだろうか。
「その腕輪、なんかそそられますね。」
青年は怪しんでいることを気づかれまいと先に仕掛ける。
「ん、あぁ、いいだろ。これは儂が作ったんじゃぞ。」
そういってほほ笑む老人。ただその瞳の中には深い闇が隠れているようにも見える。じっと青年を見つめる。青年も見つめ返す。そして、老人が口を開いた。
「お主、昔儂に会ったことあるかいのぉ。」
「!」
会ったことなどないと思う、青年は心の中ではそう思っている。しかしそれを話せば腕輪の話をしてもらえないかもしれない。関係ない人に無駄話などできない性格だろうとつかんだからだ。
「その腕輪が気になったのです。昔僕の知人が持っていたかもしれないので。」
などと口にしてみると、老人の表情が変わる。瞳の奥には深い闇が隠れているのが見え見えになる。
「小僧、この腕輪をみたことあるのか。」
老人はここで一回大きく息を吸い込んだ。
「この場で消え去ってもらおう!」
突然そう叫んだ老人は突然青年の懐に拳を突き上げてくる。とっさにそれを受け流す。しかし思いのほか受け流せた感じがしない。むしろ普通に痛みへと変わる。ダメージの半分も防げなかった。「とんでもねぇな。爺さんよぉ!何隠してる!」
この問いかけに答えることなく老人は俊敏な動きでどんどん迫ってくる。しかし青年もただの青年ではない。人間にはあり得ない程強い力を使えるのだ。老人が死んでしまっては話を聞くことができないことを頭の片隅に置きながら、青年は避け続ける。
ふいに老人の動きが止まった。
「お主のその超人的力はどこからわいてきているのかのぉ。何か知っていることはあるかぃ。」
先にこっちが聞きたいことを聞いてきた老人。その距離わずか十メートル。
「こっちが聞きたいね。爺さんにしちゃ動きが速すぎる。」
「ふむ、でゎ答えてやろう。この力は・・・。」
ここまで言いかけた老人は突っ込んできた。突っ込みながら、
「儂に参ったと言わせたら教えてやろう!」
そういった老人の姿は既に前方に見えず、声が空から降ってくるようだった。超人的な跳躍力で老人は青年の頭上を悠々と舞う。
「なっ。」
呆気にとられる青年。突然の宣戦布告に怯んでしまう。しかしそれは一瞬だけだった。青年の体はもうその場にない。老人の着地点後方で身構えている。
「これでもう逃げられないぞ!」
宙を舞う老人に叫ぶ。だが老人は小さく笑みを見せるだけ、次の手でもあるのだろうか。青年がそう思った隙に老人は宙を蹴った。
グオォン。
むしろ宙を泳ぐかのように空中に蹴りを入れる。それだけ、たったそれだけの動作で老人の体はそこから五メートル離れた地点に着地した。身構えていた青年は驚愕した。自分でも成功したためしのない空中移動をこの老人はたやすくやり遂げたのだ。青年はますます知りたくなる。そして希望に満ちた表情で、
「いいね!爺さん!そうこなくっちゃ!」
老人もそれに応えるかのように更に動きを速くして近づいてくる。だが目力、動体視力だけは青年の方が高かったようだ。反応速度も上回ってる。力はともかく他に抜いているものはそれくらいだった。腰を低くし、それを上回る速さで近づき老人の足めがけて拳を振る。
ずんっ。
鈍い音が聞こえた。しかしそれはほとんど効いていないようだった。老人の体は少し重心を崩したような感じになり、またすぐに重心を立て直す。
「いきなり移動手段から断とうとするとは・・・。なんて恐ろしい。」
(あんたの方が恐ろしいよ。あの拳を受けて余裕なんて。)
老人は余裕のある動きをし続け、困った顔をして続ける。
「それにしても小僧。お主動くのちと速すぎるんじゃないかねぇ。」
「!」
青年はその言葉で決心がついた。
(この老人とは全力でやるべきだ。)
と。そして、再び戦闘態勢に入る。そしてそれに呼応するように、
「小僧・・・という言い方はよしてやる。兄ちゃんよぉ!」
老人はまた機敏な動きで近づく、同じ手は使わないだろうと思っていた青年は隙を見せてしまった。老人が一直線に迫ってきていた。そしてその拳もすぐ目の前に来ている。だが、そう簡単には受けなかった。青年は軽々とそれを避けて老人の背後に回っていた。そして拳を背中のど真ん中に放つ。
どんっ。パキッ。
骨の砕けた感じの音が鳴る。老人はもろにそれを受けてしまった。しかし、その表情からは痛みが見えない。おそらく全身麻酔なのだろう。あれをくらっては流石に骨くらいは折れるだろう。筋肉はどうだかわからないが。青年の打撃は大きかった。その後の老人の動きが鈍ってきたのだ。老人が攻撃するときの隙に青年はいとも簡単に背後を取れてしまうのだった。
「爺さん、もう諦めてくれよ。」
青年が拳を引いて語りかけると、
「まだじゃ、まだ降参せんぞ。」
唸るような低い声でそう吐き捨てると老人はまた動き出した。今度は青年を囲う様な動きをして徐々に距離を縮めていく。だが、そんなものが弱った相手ならまだしも、ダメージをほとんど負っていない青年にしてみればなんてことはない。逆に老人の足に拳を振るう。
ゴキッ。
ついに折れた。あれほどの攻撃でびくともしなかった足が一五回目の打撃で折れた。これでもう爺さんの動きは遅くなる一方にある。だが老人は両足で立っていた。
「なっ。ば、ばかな。骨が折れたんだぞ。もう両足が使えるはず・・・。」
「ふぉっふぉっふぉっ。凄いじゃろぉ。じゃが・・・儂はもう無理じゃ。」
ついに降参をした老人。そして深刻な顔をして話し始める。
「お主はどこでその力を手に入れたのじゃ。」
「質問してくるな。聞きたいのはこっちだぞ。」
「わかっておる。その話にはお主が関係しているかもしれんのじゃ。」
どうやら話さねばならないことらしい。
「二十年ほど前に湖に浮かんでいた。その頃からこの力がある。それ以前はどこかの村にいた。」
青年は続ける。
「俺は村から追い出されるようにして村を出た。そしてすぐに気を失い、気づいたらどこかの施設に入っていた気がする。そしてそこで悍ましい姿の腕輪を装着させられた。このようにな。」
青年はジャケットを脱ぎ左腕を見せた。
「おお。間違いない。お主のつけておるのは実験番号二九じゃ。まさかあれから生きていたとは驚きじゃよ。」
そして老人はすっきりした顔になり、続けた。
「今儂が使っておるのはそれを最上級まで改良したものじゃ。安全性も性能も最高級。あとは使う人次第で強くなるものじゃが、これをお主に使ってもらいたい。今の戦闘でお主が十分これを使うに値すると分かった。使っておくれ。」
「そ、そんな、俺にはこの腕輪の力は使えても取り外したことないんですよ。」
「これは取れないんじゃ。家を増築するように増やして強くするしかない。だから、お主みたいにこの腕輪を使い続けても何の問題もない者を探しておったのじゃよ。そして、それからお主は解放してくれた。ありがとう、そして頑張ってくれ。」
そういうと老人は自ら左腕を引きちぎり、腕輪を青年に渡した。
「全身麻酔をしてあるからな痛みはない。だが時間はない。早くせんかぃ。儂は後数分しか生きておられんのじゃぞ。ほれっ、つけるのじゃ。むむむ。」
もう右腕しか使える腕がない老人は腕輪を無理やり青年にはめさせた。そして、
「あ、一つ言い忘れておったが・・・腕輪の名前はお主が命名してくれ。そしてお主の名前じゃ。お主はもともと『ブラナイト』と呼ばれておった。夜でも昼のような明るさを持っておったそうじゃからのぉ。・・・ふぅ・・・ちとしゃべりすぎたのぉ、儂はスミス博士じゃった。すまんの、研究対象のお主を見守れないのは研究者失格じゃな・・・。」
それがスミス博士の最後の言葉だった。
ブラナイト、おそらく明るい=brightと夜=nightを混ぜたのだろう。ブラナイトはその言葉を聞いて、
「んだよ。いきなり俺の名前判明かよ。しかもブラナイト・・・微妙じゃねぇか。」
拳を振り上げ穴を掘り、もう呼ぶことはないであろうスミス博士とその左腕を埋め、その埋めた痕には白衣の裾が見えるようにし、踵を返すと西と思われる方に向かって再び歩み始めたのだった。