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「炉に最初に入ったのは、カイルだったの」
唐突に耳をついた女神の声は悲しげで、オレの意識は粟立った。
尻から背中、首筋がぞくぞくする。
いつの間にか、彼女は水槽から姿を現し、俺を見ろしていた。水槽の縁に手をかけ、上半身が露わだ。しかし彼女の裸身はまるで美術品のようで、神々しい。生気がなく、まるで人形のようだ。
「アーサーは驚いていたけれど、私は初めからそんな気がしてたから、驚かなかったの。ああ、やっぱりな、って思った。アーサーには冷たい女だって、なじられちゃったけど」
不思議な事に、さっきからアーサーとしか言ってないが、先に聞いたアーサーという響きと、今のアーサーという響きは違って聞こえた。
今彼女が懐かし気に口にするアーサーという名前の男は、昔のアーサーに向けられたものだ。よく分かる。
彼女は、過去を見ている。
「カインはね、魔術師達の秘蔵っ子。大事に大事に、育てられたの。鳥かごの鳥のように、愛されて世話されて……そして、自由がなかった」
淡々と、彼女は話していく。
語るというよりは、独り言のようだ。
「私も自由はなかったけれど、私は籠の鳥に満足していたの。大事に、愛されるのが私の喜び。でも、カインは違った。カインは自分がどうやって生まれてきたのか、生まれてきた意味、何をなすべきなのか、そんな下らない事ばかり考えて、怒ってた……馬鹿みたい」
ひどい言い様だ、と思うが、まあ分かる気もする。女は現実的って言うし。
しっかし、自分のアイアンディティっていうのか? そういうのって、一度は考えるもんじゃねぇか? オレだったら、まずは男で、それから日本人で……あとはなんだろう。
「カインは、口では世界を憎んでいるとか、良く言っていたけれど、本当は誰よりも愛してた。だから、余計に憎んでいたのかもね。だから、誰よりも先に炉に飛び込んだ……愛する世界の礎となる為に」
「……なにを言って、」
「可愛そうなアーサー。彼はカインと生きてみたかった。でも、カインにとって生きる事は死ぬ事。どうやって死ぬのか、その事ばかり考えていた。だからこその炉なのに、アーサーには分からなかった……一度死んだ後では、理解できて?」
「オレは死んでない!」
「あなたは、どう思う? カインの事、馬鹿だと思う? 理解できない?」
女神は構わずに続けた。
「私はカインの事、分かる、理解できるわ。死ぬ事で永遠となるの。誰にも忘れらずに、ずっと記憶に刻み付けられる」
阿保らしい。
と、思うものの、声が出ない。
オレはここに居るようで、居ないようだ。
そう、女神の前に居るのはオレであって、オレでない。彼女には、オレが見えていない。
「この世界で、ずっと語り継がれる。それに、私が生きている。私が、ずっと生きるわ、この場所で」
「ここはね、世界の中心。この中には命が溢れているの」
「ここにいる限り、私は死なない。ずっと覚えていてあげられる」
「なのに、あなたは逝ってしまった……私どころか、あなたはカインをも裏切ったのよ」
「覚えていないでしょう? カインの事なんて。……私が、刻み付けてあげる。カインが可哀想だもの」
女神から伸びた腕が、俺の頭を撫でる。
光る。
頭上に溢れる陣。
幾重にも重なり、広がった。
――肉体に記憶は刻まれ、記憶によって感情が生まれる。
――感情とは、魂とは、ただのエネルギー体。
そんな訳がない。
感情が力ならば、強い心で何かを動かせるのなら。
俺は俺自身の感情で自分を殺す―――って、
「うがあああぁああああああああああああ!!!!」
んな訳あるかっ!!
ふざけんな!
悲劇のヒーロー気取りか、死ね!!!
右手で右頬を殴る。
痛てぇ。
殴られた頬よりも、強く握り過ぎて爪が食い込んだ右手の方が痛い。とんだマゾ野郎だ。悲劇を気取って悲しみの泉に入りびたり、罰である痛みすらも甘い快楽に変える。気色悪い奴だ。大きな声で言いたい、世界にとってお前はそんなに大した存在じゃねぇと。勘違いするんじゃねぇ、たかが人間一人の癖に。お前がありがたられているのは、周りが奉っているから。たった一人では価値が無いのに。
「どう? 思い出した?」
女神は水槽の上に立ち、微笑んでいる。その微笑みは、慈愛というよりは、悪意を感じる。口元は柔らかく上がっているが、眼は冷たい。絶対零度の眼差し、というヤツだろう。……なんだなんだ、お前はアーサーに惚れてるんじゃないのか?
記憶の中にある彼女は、いつも笑っていた。
さっき飯を用意してくれた彼女もそう。最期は泣いていたが……。
「……いいや」
「ふふ、嘘ばっかり」
彼女の手が伸びる。まさしく文字通りに。伸びている腕は半透明で、液体のようだ。肩と、手が真っ白で、伸びている腕はゆらゆらと揺れているようでもある。
頭を、がしりと捕まれる。小さな手だと思っていたのに、俺の頭を掴めるぐらいにデカくなったようだ、って、んな訳あるか。おそらく、腕が伸びたのと同じ原理なのだろう。
「あの頃の私、貴方が全てだったわ」
だった、過去形か。上等だ、俺にとっては赤の他人の記憶。
女神を見据える、睨む。腹に力を込め、両足は踏ん張る。
何を言われようと、譲る気はない。
俺は、アーサーなんかじゃ、ない。
八つ当たりなら他所でやってくれ。
「でも、貴方は私を置いて、逝ってしまった。貴方は、私にはここの管理をさせて、逝ったわね。最初はね、貴方の言葉通り、ここを管理できるのは私だけしかいない。だから、仕方ない事なんだって、思おうとしたの。でも、やっぱり無理だった……だから私、決めたの。貴方を見つけて、文句を言うんだって。それが私の生きがいになったわ。私は、貴方ともう一度出会う為に、ここに居るの」
女神は淡々と、言葉を続ける。
同時に、彼女に捕まれた頭が熱くなる。女神の指一本一本が熱を持ち、火傷しそうだ……くそ、なんだってんだ!!
てめぇは、俺を殺す気か!?
なにがしたいんだ、お前は!!??
「……っ!!」
腹の底から、息を吸う。
生半可な力じゃ、伝わらない気がした。いや、言えない気がする。俺は、俺の存在を彼女に伝えなければならない。
俺は、俺なのだと。
いくら他人の記憶を刻まれようと、俺は俺だ。俺以外に、何者でもない。
「お、れ、は、」
彼女は、見ている。
彼女が、俺が見ている。
「アーサーを刻んであげる、タニザキタクマ。あなたはアーサーなのだから」
正し、やっぱり彼女はアーサーしか見ていない。
彼女は、昔はアーサーだけだったと言っていたが、今もそうだろう。
ここには、彼女しか居ないのだから。
二年ぶりの更新です。
終わりは決めているんですが、そこまでが五里霧中ですわー。