1
「ふふ、気に入ってくれたらいいのだけれど」
女神のやけに優しく、どこか甘い声で目が覚める。
白い天井、白い壁。
柔らかく、干し立ての良い匂いのするシーツ。
香ばしく焼けたパンと、コーヒーの香りもする。
オレはベッドの上に寝かしつけられている。
手足を縛っているものはない。
静かに起き上がって、辺りを見回す。
ここは家の中だ、それもオレの世界の家に近い。
ベッドは何故かダブルベッド、横には化粧台がある。ドアはスライド式で、開いている。その向こうはリビングキッチンで、女神がテーブルの上に料理を並べているのが見えた。
テーブルは四人がけ、白い、縁はレースになっているテーブルクロス。テーブルの真ん中にはオレンジの細長い花瓶に、黄色い花と白い小さな花が生けられている。椅子には緑のクッションが。
女神は着替えていた。
古代の女神のような、あの布一枚の上に、オレンジのフリフリエプロンを着ている。たったそれだけだが、結構イメージが変わる。
オレの着ている物は変わらない、シャツにズボン。室内が現代風なのに、服装は異世界風で、スゲ―違和感。
「あら、もう起きたのね。おはよう」
服が変われば性格もかなり変わるらしい、女神は可愛らしくなっている。
話し方も優しくなったし、表情も穏やかで柔らかい。
「どうぞこちらへ。頑張って作ってみましたの。お口に合うといいのだけれど」
誘われるままに、オレは女神がしめした席へと座る。
「コーヒーで良かったかしら?」
「……ああ」
よく見ると、皿やマグカップは全てペアだ。それもオレが青で、向こうがピンクという恐ろしい配色。
……やべ、緊張してきた。
部屋を改めて見回す。
一軒家であるオレの家とは全く造りが違うが、オレの世界風の部屋には間違いない。
ここは新築されたマンションの一室のようだ。壁もテーブルも床も全て新しい。リビングの向こうはベランダで、でかい窓から見える、雲一つない真っ青な空が眩しい。リビングの横にはさっきオレが寝ていた寝室、間に廊下があって、奥はここからだと見えないが、多分玄関だろう。
「さあ召し上がれ!」
女神はコーヒーマシンからコーヒーを注ぐと、そう言った。
それも満面の笑顔で。まるで空で輝く太陽だ。
少し唐突しや過ぎないか?
さっきのこれで、戸惑う。
……つーか、オレ、二十四時間以内に術を受けないと肉体か精神が崩壊するとかなんとか、言われてなかったか? そっからコイツが現れて……まあいいか。女神なんだし、コイツ。コイツがにこやかに微笑んでいるって事は、もう多分大丈夫なんだろう。
テーブルの上に並べられているのは、驚く事に和食だ。
白ご飯に焼き魚、卵焼き、小分けのビニールの薄い袋に入った海苔、小鉢には梅干しと沢庵、それに味噌汁。
立派な朝食だ。
さっき『ぶん殴るわよ』とか言ってた女が作ったとは、とても思えない。
「……食欲がないの?」
じぃっと、食卓を眺めるだけのオレに、女神は首をかしげて聞いた。
心配してくれているのが、よく分る。
可愛くて健気だ。
何度も言うが、「ぶん殴る」と言っていた女と同一人物とは思えない。
態度が違いすぎる。
高慢で、自信に溢れていたさっきと、あまりにも違いすぎる。
正直気味が悪い。
「……いや、ああ、さっき飯食ったばかりだから」
「そう……それは、残念だわ」
しゅんと肩を落とし、伏せられた顔。
はらりと肩に金の雫が流れ落ちる。
女神はそれ以上何も言わず、俯いたままだ。
……すげー罪悪感。
テレビでもあればつけたい所だが、無かった。
何故だ、部屋はそっくり同じ造りなのに、何故テレビがない!? ゲームも出来ないじゃねぇか。
女神は俯いたまま。
何考えてんだ、コイツは? お前だけでも食べればいいじゃねぇか。
オレが悪いのか?
いや、オレは悪くない。あーやって招待されるなんて、聞いてないし知らなかった。知っていたらオレだって……。
どれくらい時間が経っただろうか、お互いに無言で、女神は俯いたまま、時間は過ぎていった。
そして。
PLLLLLLLLLLL
電子音がいやに大きく、響いた。
「!」
びくりと、音の大きさに驚いて音がした方向に目を向ける。
対面キッチンのカウンターになっている端に、電話機があった。
真っ白な電話機だ。
通話ボタンや番号を押すボタンが無いこと以外、おかしな所は無い。
女神は俯いたままだ、電話が鳴ろうと、変わらない。
テメェのすぐ後ろで鳴っているんだが。
PLLLLLLLLLLL
電話は鳴り続ける。
女神は動かない。
しょうがねぇから、立ち上がる。
電話機は向こう側にあり、オレはテーブルを回り込んで取りに行かねばならなかった。
「……もしもし」
電話に出てみると、相手は無言だった。
「…………もしもし」
次もまた無言だったら切ってやろうと、受話器を握る手に力がこもる。
相手はまた無言だった。
よし、切るか。
受話器を耳から外す。
と。
『……まって』
か細い声が向こうから聞こえた。
女の声だ。
「……あんたは誰だ?」
受話器を持ち直し、電話の相手に尋ねる。
『……わたしは………っこほ、』
相手は病気か何かか、ひどく衰弱しているようだ。弱々しく咳き込む。
『……ごめん、な、さい……あの子に、変わってちょうだい……』
名乗りもせずに自分の要求だけを言う女に、苛つかなかったと言えば嘘だ。正直ムカついた。
昨日からオレは攫われたり、預けろと強要されたり、うんざりだ。お前ら一回で済ましとけと思う。
だが、オレも男だ。
弱り切っている女の頼みは断れない。
「おいあんた、電話のヤツが呼んでるぞ」
女神に目をやると、彼女はまだ俯いたままだった。ずっとよくそうしていられると、感心すらする。
受話器を耳から外して、女神の方に向けた。
「……私に?」
のろのろと、彼女はようやくそこで顔を上げた。
虚ろな目だ。
ぼんやりと、オレを見ているようで、どこも見ていない目だ。
黙って肯く。
女神はすっと立ち上がり、受話器を取った。
「はい、私よ……え、私が? いいの? 私のような物が……ええ、分った。務めてみるわよ」
電話はすぐに終わった。
受話器を置くと、女神はくるりと、オレに向き直った。
「これから、長い話をするわね、コーヒー入れ直すわ」
やけに思い詰めた顔をしている。
冷めたコーヒーカップを取り、流しに流すと、女神はコーヒーを入れ直した。
彼女がコーヒーを入れてる間に、オレはまた席に戻る。
口が寂しかったので、味噌汁を一口飲んだ。
旨い。
もう一度言う。
マジでうめぇ。
お袋の味というよりは、プロの味。まさしく料亭の味。いや、オレもそんなに料亭とかで飯を食った事は無いが、しかし普段家で飲んでいる味噌汁とは明らかにレベルが違う。
卵焼きに箸がのびる。
卵焼きは一皿に三切れ乗っていて、横には醤油のかかった大根おろしが。どちらかと言うと、オレは甘い卵焼きが好きなんだが仕方ない。
箸を入れると、卵焼きはすっと割れた。
箸越しでも分る、この卵焼きのふわふわ感!
「美味しい?」
「!」
急に声をかけられ、箸が一瞬止まる。
ことんと、湯気立つコーヒーが置かれ、真向かいには輝く笑顔の女神が。
「あ、ああ、スゲー旨い! お前料理上手いんだな」
意外だ、というのは飲み込んだ。失礼だよな、やっぱり。
「ありがとう。そう言ってもらえたら本望だわ」
大げさなヤツだ。
さっきまでずっと俯いていた女だとは思えない、にこやかな笑顔で女神は続けた。
「じゃ、食べながら聞いてちょうだい。本当なら彼女が話すべき所なのだけど、彼女は動けないみたいなの。だから私が代わりにお話するわ」
ふわふわの卵焼きを口の中に放り込みつつ、オレは肯いた。
旨いな、この卵焼きも。
「あなたの勇者のお話を、始めるわね」
女神の言葉が、耳を強く叩く。
次は焼き魚だと、焼き魚に向かっていたオレの目は、女神を見ていた。
「彼の名はアーサー」
蒼い目から目が離せなくなる。
彼女の目の中に、誰かいる。
誰だ?
こいつは、誰だ?
オレなのか?
違う、瞳の中の誰かは、女神の瞳の中からオレを見ている。
誰だ、お前?