月曜日の朝
月曜日の朝、ざくろを無くした。
机の上には白い皿だけが残っていた。
ものを乗せるという用途を失った白い皿は、悲しそうな表情すら出せずに机の上に存在する事しかできなかった。
皿にはざくろの染みが付着していた。
洗えば落ちてしまうだろう。
いくらざくろの味が人肉に似ているとしてもざくろの染みは血ではないし、仮にざくろの果汁が血に似ているとしてもやはりざくろはざくろでしかない。
つまり、そこには何もない。
夜がくる。月に光が満ちる。
月はどんどんと明るくなっていく。それでもまだ暗い気がする。
月が反射しきれないほどの太陽光を浴びる。
世界が銀色の光に包まれる。
彼女がぼくを好きだと言う。
ざくろの果肉が一粒転がる。地球の自転が止まる。時間も止まる。月の光は誰も罵らない。
彼女がぼくの輪郭を明確にする。曖昧さが消えていく。彼女のくちびるが動く。
ぼくは月曜日が嫌いだ。
祖父が最期に乗ったのはアメリカの車だった。
つまりそれは霊柩車がクライスラー社の車だったと言うことだ。
ぼくたちが乗る斎場のバスは日本製だったと思う。たぶん日野だろう。黒い服を着た人たちが真っ白いバスに乗り込むのは少し滑稽な気がしたが、仮に斎場のバスが真っ黒だったらそれはそれで喜劇的だと思う。
室内も椅子も黒いバスを想像してぼくは笑いそうになった。
その白いバスに乗り込んで灰色のシートに座りながらぼくはダブルのスーツのボタンを外した。
真冬と言っても暖房の効きすぎたバスの中は少し暑かった。太った運転手は汗をかきながら大きなハンドルを回している。
こういったタイプのバスの運転にはあまり慣れていないのか、彼のハンドルさばきは少しぎこちない。
乗っているのは祖父ではなくぼくたちなので雑な運転でも構わない。
細かい刺繍の入った死装束や色とりどりの花と共に焼かれた祖父の骨は思ったより白かった。
なにかの映画で「服毒自殺を図った人が、血を吐いて畳を汚さないようにと血を飲み続けて骨が赤くなった」という話をしているシーンがあったのを思い出した。
そんな馬鹿な話があるはずもないが、祖父の骨の色が白くなかったらぼくたちはどんな話をしただろう。ぼくは祖父のことをあまり知らない事に気づいた。
火葬場の青年ができるだけ事務的にならないような努力をしている声で「健康的で丈夫な骨ですね」と言いながら祖父の骨を小さな壺に入れていく。
ぼくたちも長い箸で持ち上げて乾燥しきった白い骨を小さな壺に入れていく。
祖父の骨は小さい壺には収まりきらず、健康的で丈夫な骨を砕いて押し込む。
祖母が死んだ時にも思ったがなぜ骨壺はこうも小さいのだろう?
砕いてしまうくらいなら大きめの壺にすれば良いのに。死んでまで骨を折らなきゃならないなんて酷い話だ。文句を言う当人は死んでいるけれど。
最後に頭蓋骨でその小さな壺に蓋をした。
ついに祖父は小さな壺に収まった。この後は先祖代々が眠る墓の下に撒かれて終わりだ。
もう他の骨と見分けがつかなくなる。
墓石が建つ丘の上は風が強かった。
線香の匂いもすぐにかき消されてしまう。ぼくはコートを着てくるべきだったと少し後悔していた。
袈裟を着た坊主が読経するのを聞きながら青い空にうっすらと月が出ているのを見ていた。
祖父が完全にいなくなったのを実感した。
悲しさはなかった。祖父が死んだと言う事実だけは理解した。
ぼくは月を見ながら祖父の事をすっかり忘れようとした。
百年近く生きても何も残らない存在だった。
いや、祖父の遺伝子がぼくと言う形で残っている。
それももう終わるだろう。その時、祖父は何も残さなかった事になる。
帰りの特急電車を待つホームに立って空を見上げる。
地球の裏側で裸の太陽が照らす月もまた服を着ておらず、肉づきの良い満月が硬い光を返している。
照らされることのない月の裏側はもしかしたら服を着ているのかも知れない。
ぼくは帰りのホームにやってきた特急電車に乗って彼女に夕食を誘うメールを出した。
ぼくが彼女の髪の毛に付着した羽毛(きっとコートの襟に生えているやつ)を彼女に気付かれないように取り除く。
その瞬間、彼女はほんの何ミリグラムか軽くなったはずだ。
そうやって僕は彼女の輪郭を少しだけ明確にさせる。
軽くなった彼女は少しだけ月に近くなる。
彼女は静かにコートを脱ぐとぴったりとした黒いタートルネックの姿になった。
小柄な体の割に大きく膨らんだ胸が呼吸と同時に静かに上下する。月までは遠いなとぼくは思った。
レストランの奥にあるソファーシートに音を立てないで座った彼女は少し楽しそうにしている。
レストランが楽しいのか、柔らかなソファーシートが楽しいのか、または別の理由かは分からない。
自惚れる余地の為に確認はしないことにした。
ダブルのスーツのボタンを外して硬い椅子に腰かける。ツータックのスラックスを履いてくるべきだったかも知れないと思った。
「本来ならぼくがそっちに座るべきなんだ」
「どうしてですか?」
「窓の外が見えるのは硬い椅子の方だからね」
あいにくと工事中の建物は銀色の足場と暗い緑色の幕に覆われていて外の景色は何も見えない。
それより彼女には明るい店内でも見ていて欲しい。
老人と若い女性など他の客やきびきびと動くウェイター、または机の上に置かれたぼくの手でも良い。この場合は喋り過ぎる手でもいいかも知れない。
前に彼女と喫茶店に入った時、ぼくが机上に伸ばした手は彼女に「その手は何の手ですか?」と訊かれた。
訊いた本人だって何の手かは分かっていただろう。
なので答える事をしなかった。伸ばした手は空のままだった。
きっと今日もうるさくしてしまう。
そしてきっと空のままだろう。もしかしたら空の手が満たされると思っている自分の存在をそこで確認する。
あくまで小さな可能性の話でしかないけれど、その可能性は救いにならない。
ぼくの手にも彼女の手にも指輪が無い。
だけど手が空である事に不安は無い。指輪だとか首輪だとかそれに通ずる何らかの書類とかそういったもので彼女を拘束したいと思っている訳じゃないし、口頭の契約で何かを構築できるとは考えてもいない。
その程度の拘束で構築できる関係性なら簡単な話だし、存在に関する苦しさだとか不安だとかを抱える事なんてないだろう。
そういった形による拘束や束縛、権利の剥奪などの文化ではぼくが生きていて不幸と感じる時に必要な代償物として十分に機能しない。
どう言う形の拘束をしたとしても不安はつきまとうからだ。
つまりぼくは欠落していて、それから解放される事はない。東北の詩人が言っていた「ほんたうの幸ひ」と言うのはそういう事なのだろう。
つまり死ぬしかない。それは強烈な救いだ。そして手遅れな分、酷く甘美だ。
けれど生きたいと言う欲求の欠如だけでは死ねないらしい。
死ぬには激しい欲求が必要だ。
ぼくは過去に一度、早朝の電車に飛び込んで自殺する事を計画したけれど、その時間に寝坊してしまい、それっきりにした事がある。
結局、その程度の欲求では死ねないのだと言う事だ。
ぼくには安定した仕事があり、つまりそれなりの収入があり(とは言っても決して裕福じゃない、ぼく一人が生きていくのには不十分しない程度だ)、老いていると言うにはまだ若く、別段ハンサムでもないが人生を悲観するほど醜悪でもない平凡な存在と言うだけでは生きる欲求を支える力にもなり得ない。
実にありきたりな結論だ。
ぼくの人生と言うのはしばらくこのままらしい。骨の髄までありきたりだ。
ぼくたちは立ち上がって料理が並ぶカウンターに向かった。
ビュッフェ形式のレストランは久しぶりに来る。高級さは無いけれど、たくさんのものから選ぶ楽しさがある。
ぼくたちは様々な料理を目の前にして選択する行為の楽しさを味わう。
トマトとモッツァレラチーズのサラダ、スモークサーモンのマリネ、鶏肉とカシューナッツの炒め物、赤ワインで煮込まれたハンバーグなど様々な料理が広げられていて、そこには国境だとかの面倒なものが存在していない平和さがある。
そしてぼくたちはそこから欲しいものを自由に選ぶ。
まるで野花を積むような感覚で取捨選択をする。
あるいは彼女がぼくに声をかけたように。
並んだ料理に視線を落とす。
選ばれない料理たちには残酷は話だけど、まったく選ばれない料理はない。
誰かひとりは絶対にそれを選ぶし、誰かに選ばれる料理しか並ばない。
ここに並べられなかった料理たちの事を考えようとしたが、ぼくは料理の事をあまり知らないので考えるのをやめた。
トレイの上に白い皿を乗せる。
レストランの皿は何度使われても白いままだ。前の客が何を載せたのかなんてちっとも分からない。
中にはひとりくらいサロメをやったりした客がいたかも知れない。
彼女がぼくの頭を載せた皿を持つ姿を想像する。
目線が合うといいなと思った。
彼女はきっとこう訊く。
「なにを見ているんですか?」
そしてきっとぼくはこう答える。
「なんだろうね」
くちづけは無いだろう。
彼女はサロメじゃないしぼくはヨナカーンじゃない。
何人もの客が使った白い皿に食べものを載せる。
ドライアイスの煙で冷やされたアパダイザー、血のしたたる肉、やたら配色の多い南国を連想させる果物たち。
それは並べられるヨナカーンだ!
病んで歪ますリズムは575から313!
フリーワールド!
「それは良くない傾向だよ」
皿の上に並んだヨナカーンの首がぼくをなじる。
安物の合成肉。
粗悪なタンパク質。
安い繊維質と安っぽい油。
この世の終わりの成れの果て!
三千世界で烏が鳴いた!
安全地帯のワインを飲み干す!
本当に良くない傾向だ。
鉄のワニが音を立てて笑う。冷えたヨナカーンの首がぼくを笑う。
彼女はグレイビーソースのかかったミートローフを切り分けていた。
ぼくはシーザーサラダのクルトンを噛み砕く。心地よい音が歯に響く。
白い皿の上をどんなに盛り付けてみたところでその皿はぼくのものにならない。
その皿にどんな情景を描こうと、たとえ誰かの首を乗せようとその皿はぼくのものにならない。
ぼくが皿の上にある首を食べている時だけは白い皿はぼくのものかも知れない。
でも皿の上の首はぼくと目を合わせないだろう。
彼女の皿の上にある首は彼女を罵るのだろうか。
彼女が選んだヨナカーンの首、そのヨナカーンの首の陰に落ちるサロメ。
彼女の出自が選ばせた彼女の皿の首が彼女を罵り、彼女はウンザリした表情で皿の上に残された首を見る。
きっとぼくは彼女の皿の上の首も食べてしまうだろう。
それは別に彼女を罵るからじゃない。ぼくの皿の上の首はとっくに消えてしまった。
「もう食べられないです」
彼女は少し疲れた顔で言う。
「構わないよ、何とでもなる」
ぼくは彼女の皿の上の首まで食べる。
彼女の皿の上の首はぼくも罵る。残り少ないミートローフの横でバナメイエビの中華風炒めがぼくを罵る。ぼくはその場バナメイエビを口の中に押し込む。歯に罵声が響く。
食べると言う行為は単に口の中に味が広がれば良いというわけじゃない。
例えばグレイビーソースのかかったミートローフやバナメイエビの中華風炒めをナイフとフォークで切り分けて口に押し込み、歯で噛んで飲み込む事でしかぼくたちは満足感を得られない。
知らない味じゃないのにそうやって固形をすり潰して染み出る血や、その味を感じるために繰り返す。わかっていても脳だけでは完結できない。
つまりぼくは彼女を知らない。ぼくはまだ彼女に触れていない。
その彼女は中東を彷彿とさせる匂いのハーブティーを飲んでいる。
彼女が茶色い瞳で彼女の皿の上の首を食べているぼくを盗み見る。ぼくは彼女の服と首元に覗く素肌の隙間から目をそらす。
彼女の体に張り付いた黒いタートルネックに浮かぶ鎖骨の影が恨めしそうな顔をする。
彼女の茶色い瞳を見据える。
彼女が何を考えているかは分からないし、きっと彼女もぼくが何を考えているかわからないだろう。
例えばどうにかして彼女のなかに入っていったとしてもそこには何もない。入っていくぼくの側にも何がある訳でもない。
その時のぼくたちはどんな瞳をしているのだろう。
「なんですか、それ」
「古い歌だよ、童貞が聞くとかかってしまう呪いなんだ」
ぼくは彼女の皿の上にあるグレイビーソースのかかったミートローフを飲み込む。
月の裏側の景色と新月の夜に陽の光があたらない月の景色が等しいとは限らないように、その時の瞳の色と言うのはまた違ったものなのかも知れない。
皿の上の首が流した血、料理たちの残骸が笑う。
そしてぼくを罵る。
ぼくと彼女が同じ新月を見ているとき、それは同じ月を見ている事になるのだろうか。
どちらか片方が月の裏側を見ている事にならないだろうか?
「そうかも知れませんね」
「わかってくれるなら、話が早いな」
「えぇ、たぶんですけど」
「それならよかった」
月と地球の距離は年々離れていっているという話を聞いた事がある。
かつての月はどれほど大きく見えたのだろうか。
太陽の光を今より早く返したのだろうか。
先週、ぼくより先に電車を降りた彼女が月に手を伸ばす写真を送って寄越した事に意味を見出そうとするのは愚かな事だろう。
ぼくは月ではないし彼女は地球ではない。
それに物理的な距離も大きな違いはない。それは単なる写真だ。
彼女が皿の上から視線を外す。
彼女の呼吸や手の動き、それこそ視線などの些細な変化にぼくはそれが愚かなことだとわかっていながら、何らかの意味を見出そうとする。
例えば彼女のぼくに対する愛情とか、世界が終わる予兆とか、そう言ったものを見出して安心したいと言う怠惰さを自分の中に見つける。
その怠惰さは彼女から見ればぼくと言う存在を持続させないだろうし、もしそうなったらぼくと言う存在は生きている価値があるかも危うい。
ぼくに出来ることは彼女に新しい価値観や世界を提示し続ける事だけだ。
それをできないぼくに存在価値は無い。
少なくとも彼女にとってそのぼくは価値が無い。
単に少しだけ早く子宮から地球に顔を出しただけの存在で終わってしまう。
彼女の為にぼくができるのは彼女がぼくに飽きるまで生きることか、今夜ぼくたちが手を振ってサヨナラごっこをした後にこっそりと死ぬことくらいだ。
そのほかは全てがエゴだ。
ぼくの欲求だ。
何も彼女の為に存在しない、全てぼくの為にぼくが求める行為だ。
別にぼくは彼女の為だけに生きている訳ではないし、彼女と言う存在に依存している訳でもない。
彼女にぼく自身のアイデンティティーを託すほど愚かな事はしない。
ぼくだってそれなりに社会と言うものに参加して生きている自覚くらいはある。少なくとも借金をせず、遅刻や無断欠席でクビを宣告されるようなことも無く、カードの支払いや家賃を滞納したり、火事や交通事故を起こしたりするようなこともない。
ちゃんとした社会人と言うものがどういったものかは知らないが、それなりに社会的な人間をやっていると思う。
個人的は意見としては。
ただぼくは別にちゃんとしたいなどとは思っていない。
むしろちゃんとしたくないとすら思っている。ちゃんとしない生活と言う教科書があるなら買って読みたいとすら思っている。
ちゃんとしない、と言う事がわからない。
ただそう言いながらぼくは日常と言う生活における惰性、その習慣と言う名前の化け物によって社会性や人間の形を保っているに過ぎない事も知っている。
世界だとか国だとか社会だとか、それらに通用する価値がある存在をどうにか保っていられるのは、最終的にその惰性、習慣と言う化け物によるところでしかない。つまりぼくが化け物なのだ。
仮にその惰性をやめる、習慣と言う化け物を打ち斃すための専門書や指南書があったとしても、それを読んで実行できるかはまた別の話だ。
現状の変化を求める人たちが様々な新書を読んで実行しないのと同じように。
柵のゲートが開いているからと言って出ていく羊たちがそう多くないように。
それにまた、その先ですぐに新たな習慣と言う化け物を育てる事になる。
それが生活と言うものだ。
ぼくはどこに行っても化け物になってしまう。自覚してしまった以上はずっと化け物なのだ。
そういった自覚のない人たちの間で生きるのは苦しいし、疲れてしまう。
繰り返し続ける世界はどうしようもなく疲弊するけど、それは世界や他人が悪い訳じゃない。
世の中の多くの人たちは上手くやっているし、そんな事を言ったり考えたりしない。
つまり、ぼくがその世界に適合できないのは、ぼくが単なる異常者だってことだ。
悪いのや間違っているのは世界や他人の方だと言えるほど、ぼくはぼくに価値を感じていないしその存在そのものを信じてもいない。
なにせブルージーンズを履くほどの自尊心も持ち合わせていない人間だ。
それでも彼女がぼくの輪郭を明確にしてくれた分は、ぼくも存在していい理由があるのだと思うし、そうであるならば何かしたいと思う。
逆に健全な人たちの価値や欲望は正しく、そういったものが世界を形成している。
だからぼくは世界の形を知らないし、知る権利も持っていない。
結局は目の前の彼女の輪郭も曖昧なままだ。
彼女はデザートとして選んだライチのゴツゴツとした見た目の割に柔らかい皮を剥きながら小さなため息を吐いた。
「どうかしたの」
「いえ、なんでしょうね。」
「ライチを剥くのが面倒?」
「それは大丈夫です。ただわたしにもよくわかりません」
「むかし、空港の近くにあるホテルに泊まった時に、たぶんインド人だったと思うんだけど、ライチを指してどうやって食べるか尋ねられた事があるんだ」
「それで教えてあげたんですか?」
「ピールして食べるんだと言ったよ。確かにライチは中身が白くて綺麗だけど、皮は硬そうな見た目で不気味だからね」
「考えたらそうですね、もっと美味しそうな見た目になればよかったのに」
彼女が剥き終えたいくつかのライチは真っ白く瑞々しかった。
「何を考えているんですか?」
「月みたいだなと思った理由について、少し」
「これがですか?」
彼女はライチを指でつまんで目の高さまで持ち上げる。
「その裏側はぼくには見えなくて、でもぼくが見ている側はそちらから見えない。同じライチを見ているのに」
ぼくがそう言うと彼女はライチを齧って再び同じ位置に戻した。
それはまるで三日月のようだな、と思った。
「これで裏側は見えませんけど、その目を見る事はできますよ」
彼女と目が合う。彼女は美しい。
少なくともヴィーナス像のような肉体的欠損が無いし、それにきっとヴィーナスよりも若い。
そこに大きな意味は無いけれど、例えば腕の無いヴィーナス像や目の前の齧られたライチがその欠損によって美しさを内包しているとしても、目の前の彼女はそういった欠損を持っていない。
それは単純に完成していないから美しいと言う事かも知れない。
ぼくは考える。
仮に彼女が醜かったらぼくは彼女の話を聞いただろうか。
彼女の本質的な部分、つまり彼女の出自や未だに知らない本名だとか、個人的には大して興味のない生年月日などでは無く「彼女と言う存在」を見ようと努力しただろうか?
果たして彼女と言う存在に興味を持ちえただろうか?
またはどの程度までの醜さならぼくはその醜さに目を瞑っていただろうか?
これは全く仮定の問題であり、醜くない肉体として生きている以上は全く成立のしない無意味な設問だ。
結局これはぼく自身の問題であって、その答えを得ることが不可能であるが故に、ぼくがそれをもって自制心としている訳だ。
度し難い存在と言える。
ただ、もし彼女が醜かったとしたら、ぼくは、果たして?結論は出ている。
つまりぼくは彼女に触れる権利を待ち合わせていない。
ぼく自身の醜悪なエゴイズムが彼女に赦されない限り。
そしてそれを「みんながしている当たり前のこと」としてしまうのは誠実な態度とは言えないと思っている。
けれど彼女と言う存在の本質的な部分を見ようと努力した上で、またはその過程で「肉体に触れたい」と思うのは果たして性欲からなる好意と何がどう違うのだろうか?
彼女をこの腕に抱きしめた先にあるのは性欲による「本質の喪失」では無いのか?
彼女の本質に外見的な美しさはさして問題では無いが、その本質は外見的な要素を含めて構築されたものであり、切り離したり分離させたりできるものでは無い。
つまり、ぼくが何を恐れているかと言えば彼女に触れた時に「本質を逃す」ことなんだろう。
ぼくは彼女に触れるなら本質ごと触れたい。
それは肉体表現でなければならないのだろうか。精神と肉体が分けられないものだと知っていて尚、そう言わなければ気が済まない。
それが愚かである事はわかっているつもりだ。
結局、全てはぼくの問題でありぼくのエゴなのだ。
「なにを考えているんですか?」
彼女が三日月の向こうから覗いている。
「どうしたらその三日月を刺せるのかな、と言うことを」
ぼくは三日月越しに答える。
「きっと簡単ですよ」
「そうかな」
「わたしの手も、少し喋るんですよ」
「そうだね」
「じゃあ、どうして?」
「どうしてだろう」
「こんなに喋っているのに」
彼女が手を伸ばす。雄弁な手がぼくを呼ぶ。ぼくは手を伸ばす。
ぼくたちはもっと雑に生きるべきかも知れない。
幸福と言う光の足元にうずまく不安と言う影に怯えて生きるのは馬鹿馬鹿しいと笑えるだろうか。
迂闊に幸福になるべきだろうか。
それが終わってしまった時にあの甘美な衝動に耐える事ができるだろうか。
それならばいまここでそれを選ぶべきではないだろうか?
彼女の手に促されて銀色のナイフを手に取る。
ぼくたちは互いの首をゆっくりと切り取る。空になった白い皿に首を乗せる。
皿の上で彼女と視線が合う。
彼女の口からぼくを罵る声は聞こえない。
彼女が三日月を咥える。
ぼくが三日月の反対側を咥える。
唇を重ねるまで意識はもつだろうか。
その時にようやくぼくは彼女の本質を感じられるのだろうか。
切り離された首は身体を失っている。
ぼくたちは軽くなる。
月に近づく。
皿に残った油が弾いた血はざくろの果肉の様に丸くなっている。
幾粒ものざくろの果肉が皿の上を転がる。
けれどぼくたちはざくろではない。
彼女の目にぼくが写る。
ぼくの目に彼女が写る。
合わせ鏡の様に繰り返していくフラクタルが満ちていく。
でももうすぐ終わってしまう気がする。どこまで写ってもどこまで繰り返しても足りない。
奥の方からどんどん暗くなっていく。
彼女の目の中のぼくが消えていく。
きっとぼくの目の中の彼女も消えていっているのだろう。
そして室内にいるぼくたちを満月は照らさない。
ぼくは月曜日が嫌いだ。




