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本当は無かった怖い話

遠い遠い水の底から

作者:

岸本(きしもと)さん、霧谷(きりたに)ダムの底の廃校って話は知ってますか」

「いや、初耳ですね」


 たまに怪奇物を扱っている雑誌「裏窓」の編集長は柔和な笑みを張り付けた顔で、向かいのソファに座っている男性に話しかけている。


「10年前にその高校で、とある儀式をやった結果、廃校になった挙句にダムの底に沈んだって話なんですよ」

「はあ。その儀式というのはどんな」

「それですよ!」


 岸本の言葉の途中で、編集長がその大柄な体を前のめりにして迫る。


「先日、ツテでその儀式の参加者という方と知り合いまして。岸本さん!」

「あ、はい」

「その方に取材して、その儀式とその学校で何があったかを調べて記事にしてほしいんですよ!」

「え、はい」

「ありがとうございます! あとこれ、その方の住所と携帯番号です! それじゃよろしく!」


 メモを渡した編集長は軽く片手を上げて応接室から出ていった。

 いろいろと置き去りにされた岸本が手の中のメモを眺めてみると、大きくて乱暴な文字で「黒沢(くろさわ)健司(けんじ)」という名前と住所、並んだ数字があった。

 ため息をひとつついた岸本は、携帯電話を取り出してその数字を入力する。

 数度の呼び出し音のあと、電話の向こうから声がした。


「はい黒沢です」

「突然のお電話申し訳ありません。私は裏窓という雑誌の」

「あっ、岸本さんですか!」

「えっ、はい」

「今からお時間はありますか?」

「あっ、はい」

「そちらにお伝えした住所わかりますか」

「あ、はい。それでは今からお伺い」

「もちろんです! それではお待ちしています」


 静かになった携帯電話。

 それをしばらく眺めていた岸本は、ため息をひとつついて立ち上がると応接室を後にした。



 その住所にはタワーマンションと呼ばれる建造物が建っていて、遥かな高みから岸本を見下ろしている。

 少しだけ圧倒された岸本は、恐る恐る自動ドアを通過した。

 エントランスに設置してあるインターホンに部屋番号を入力して少し待つと、先ほど聞いた声が聞こえてくる。


「岸本さんですね。どうぞ」

「あ、はい。お邪魔します」


 お邪魔しますは少しタイミングが早かったか。そんなことを考えながらエレベーターに乗り込む。

 中を見まわしながら最上階である40階のボタンを押した。


 指定された部屋の前で一回深呼吸をしたあと、岸本はインターホンのボタンを押す。


「開いてますよー。どうぞ」


 どこか浮世離れしたような声に従い、ドアを開き中へと入った。


「お邪魔しま……うっ?」


 むっとした空気。重さを感じるほどの湿度。

 息を吸うのにも意識して力がいる。


「なんだこれ……」

「岸本さーん、そのまま廊下を歩いて奥の部屋にどうぞー」


 廊下の先にあるドアからのんびりとした声がしていた。

 気を取り直して靴を脱いで廊下に足を乗せる。


「う……」


 靴下からじっとりとした感触が伝わってくる。

 改めて気を取り直して廊下を進み、奥のドアをノックした。


「どうぞー」

「失礼します」


 ドアを開けると、さらに湿った空気が流れだしてくる。

 内心を表情に出さないよう口を閉じて部屋に踏み込んだ。

 ドアの正面、部屋の奥に大きな机があり、その向こうに痩せた男性が座っている。

 丸い眼鏡をかけたその男性がにっこりと笑顔をこちらに向けた。


「岸本さんどうもどうも。黒沢です」


 黒沢が机から離れる様子はない。


「僕は事情がありましてここから動けませんが、そちらにどうぞおかけください」

「あ、はい」


 岸本は机の前に置いてあるソファに腰を掛けた。

 やっぱりじっとりしている。

 なんともいえない表情をしている岸本を見て、黒沢は少しだけ申し訳なさそうな表情をした。


「すみません、僕は喉が弱くて、あといろいろ弱くて」

「あ、いえ、大丈夫です」


 まったく大丈夫ではなかったが、大丈夫かと心配されると大丈夫と答えるタイプの人間だったので大丈夫と返してしまう。

 そんな大丈夫という言葉を聞いた黒沢は、安心したような顔をした。


「いやあ、不快に思われたらどうしようかと。それでは岸本さんもお忙しいでしょうし、本題に入りましょうか」

「いえ、そこまで忙しくは」

「僕の母校、霧谷(きりたに)高校っていうんですけど」

「あ、はい」


 黒沢は細身で眼鏡の割に妙な圧があった。


「僕が三年の時に、学祭の企画で怪しい儀式体験というのをやろうってなりまして」

「学祭ですか」


 岸本はメモ帳とボールペンを取り出した。


「クラスにそういうのに詳しい奴がいて、そいつが親戚の知り合いだっていう学者さんを連れてきたんです」

「学者さん」

「ええ、なんでも珍しい祭りを研究しているそうで。霧守(きりもり)(むら)の、僕らの故郷の村の祭りを調べに来たと言ってました」

「なるほど」


 書いてたメモ帳がへにゃってきたので、岸本はタブレットのメモ帳アプリを立ち上げた。


「それでまあ、その学者さんの指導で、村に伝わる儀式というのをリハーサルを兼ねてやってみようということになりまして」

「ははあ」

「教室に学者さん含めて10人集めて、夕方から始めたんですが」


 岸本のフリックする指に力が入る。


「僕はなんとなく怪しい雰囲気だなあ、程度だったんですけど、突然ひとりが逃げ出して」

「あらら」

「それにつられたのか、さらにふたり逃げ出しちゃって」

「それはまた」

「なんというか、白けちゃいましてね。続きは明日の昼にしようかとなってその日は解散したんです」

「なるほど」


 岸本はハンカチでタブレットの表面を拭いながら相槌をうつ。


「それで次の日学校に行ったら入れなくて」

「え?」


 拭いてる時に変なところに触れたのか、別のアプリが画面に表示されて焦りながら話に驚く岸本。


「校門のところに自衛隊みたいな人がいて、中に誰も入れないようになってましたね」

「何かあったんですか?」

「いやあ、校舎の地下に不発弾が何個も発見されたとか言ってましたけど……怪しいですよね」

「昔、空襲があったとか?」

「僕の知る限りそんな話はないですね」


 岸本の表情から余裕らしきものが少し消えた。

 黒沢は淡々と言葉を続ける。


「それから学校は廃校になりまして」

「え」

「村は廃村に」

「えっ」

「その後いきなりダム建設が始まって、おととし完成して村は水の底に」

「ええっ?」

「怪しいですよね」


 黒沢の眼鏡の奥、感情を読み取れない瞳が岸本を眺めている。

 タブレットの画面を眺めていた岸本が顔を上げて口を開いた。


「やはり……儀式が原因だと?」

「そこなんですよねえ」


 黒沢は腕を組んで少し上を見る。


「儀式の翌日からいろいろ起きてるので、なにか関係があるとは思うのですが……なにぶん確証はなくて」

「そうですか……」


 その言葉に、上を見ていた黒沢の丸い眼鏡が岸本に向けられる。


「ただ、気になりますよね」

「それは、まあ」

「そこで!」


 黒沢が両手を合わせる。

 ちょっと湿った音がした。


「今度、プチ同窓会として当時の参加者10人を集めて儀式の続きをやってみようかという話がありまして!」

「えっ、本当ですか」

「いったい何が起こるのか……興味ありませんか」

「それは……」


 少し考え込んだあと、岸本が顔を黒沢に向ける。


「あの、その儀式を取材した」

「もちろんOKです!」

「うわびっくりした」


 びっくりした岸本の視線の先には、喜色満面を張り付けたような表情の黒沢がいた。


「こちらからお願いしようと思っていたのですよ!」

「は、はあ」

「岸本さんも参加、ということでひとつお願いがありまして」

「はあ」


 黒沢が両手をもみもみし始める。


「当時のメンバー10人のうち、8人と連絡取れたのですが、残り2人がまだでして」

「そうなんですか」

「そうなんです。私の方でも探しますので、岸本さんの方でも捜索に協力していただきたいな、と」


 うつむいて少し考えた後、岸本は顔を上げた。


「そういう事でしたら、取材のついでにその人たちを探してみます」

「ありがとうございます!」


 最初の時よりもしっとり感が増した黒沢がにっこりと笑っている。

 臀部のじっとり感が気になりだした岸本が口を開いた。


「それで、その方たちの資料は」

「それはもうばっちり、玄関の所に用意してあります」

「玄関、ですか?」

「ええ、ここに置いておくとそちらのメモ帳みたいになるので」


 岸本が自分のメモ帳を見ると、よれよれのへにょへにょになっていた。

 ちょっと顔をしかめた後、臀部へのこれ以上の浸食を食い止めるように立ち上がる。


「それでは私はこれで……」

「はい、今日はわざわざありがとうございました! ご面倒をおかけしますが、よろしくお願いします」


 黒沢は机の向こうで座ったまま頭を下げている。

 岸本はその背後の壁を見たあと、何かに気づいて周囲の壁に視線を向けた。


「窓が無いんですね」

「ええ、気密性の方を重視してまして」

「最上階からの眺めは壮観なのでは」

「ああ、いや、最上階を選んだ理由はですね」


 黒沢の顔にどこか曖昧な笑みが浮かぶ。


「地面が苦手なんですよ」




 一年分の湿気を吸収した岸本は、資料を手に自分のマンションに戻っていた。

 着替えた後、テーブルの前に座って資料を広げる。


「えーと、霧島(きりしま)悠馬(ゆうま)、28歳、か」


 資料によると、村の神社の息子。真面目な性格でリーダーシップがありクラスのまとめ役。愛嬌があり、少し抜けているところがある。


「モテそうだな」


 当時の写真が添付されていた。


「これはモテる」


 ただ、彼に対しての資料は少なく、学校が廃校になってからの足取りがわからないという。


「これだけじゃ探すの無理だなあ」


 気を取り直して岸本はもうひとりの資料を取り出した。


佐倉(さくら)(れい)、28歳」


 資料によると、中学までは村にいたが、親の引っ越しにあわせて外の町に移住。

 しかし、高校は村の高校に入学して2時間かけて登校していたという。

 その理由については、黒沢の推測として、芹沢(せりざわ)美緒(みお)という幼馴染と離れたくなかったというのともうひとつ、霧島悠馬と離れたくなかったのではないかという付記があった。


「やっぱりモテてたんだ」


 自分とは無縁だった青春に対し、表現しがたい感情を抱きそうになった岸本は、ふうとため息をひとつついた。

 資料にある当時の写真には、ショートカットのボーイッシュな少女が映っている。

 佐倉玲はその後、その町からも引っ越し。行先は不明となっていた。


「うーん、これだけか」


 資料を丁寧に片づけたあと、疲れた足取りでふたつある寝室の片方に入った。

 自分ひとりでは広すぎて持て余し気味、もっと狭いところに引っ越そうかな――そんなことを思いながら明日の予定を考える。

 とりあえず、佐倉玲の引っ越し先に行って、近所の人に話を聞いてみよう。

 そんなことを考えながら眠りについた。




 佐倉玲が村から引っ越した先の近所にある家を訪ねた岸本は、その家にいたご婦人に話を聞いてみた。


「佐倉……玲……? 知らないねえ」


 他の人に話を聞いても、返ってくるのは異口同音の内容。

 学校について聞いても、黒沢から聞いた話以上のものはなかった。

 取材範囲を広げ、ダム周辺の市や町で聞き込みをするも、佐倉玲の手がかりもつかめない。

 取材に出てから4日が過ぎ、一旦自宅に戻ることにした。

 次はネットで廃校についての噂を調べようと考えながら歩いていると、岸本の視線の先、マンションの入り口に女性が立っている。


 どこかで見たような……そう思っていると、その女性がこちらに向かって歩き出した。

 距離が縮まり相手の顔がはっきりする。やっぱりどこかで見たことがあるなと思っていると、女性は岸本の前で立ち止まった。


「美緒はいる? 会わせて」


 どこか凛々しい雰囲気の女性が刺々しい口調で詰問する。


「あの……どちら様で」

「は?」


 女性はあっけにとられた表情をした。


「佐倉よ。あんたと美緒の結婚式の時に会ったでしょ」

「は?」


 岸本はあっけにとられた表情をした。


「いや、私は独身ですが」

「はあ?」


 女性がその形のいい眉を吊り上げる。


「去年、美緒と結婚式挙げてたじゃない」

「いや、人違いで……」


 そう言いかけた時、岸本は女性の顔をどこで見たか思い出した。

 黒沢から渡された資料の中の写真。

 目の前の女性にはその面影があった。


「あの、佐倉、玲さん……ですか?」

「だからそう言ってるでしょ。先週から美緒と連絡が取れなくなったの。美緒はどこにいるの? 大丈夫?」


 探していた相手が突然目の前にいる。混乱する岸本は相手の誤解を解くか、取材するか決めかねている。

 その時、資料の中にあった美緒という名前を思い出した。


「その、美緒というのは芹沢美緒さんですか。佐倉さんの幼馴染という」

「そうだけど。今は岸本美緒でしょ。何言ってんの」


 なぜか自分が結婚しているという誤解を受けている。

 まずはその誤解を解こうと岸本は話し出した。


「それは何かの勘違いです。私は結婚してません」

「……あんた、本気?」


 佐倉の目つきがいぶかしげなものに変わる。


「本気というか事実です。それより私は佐倉さんを探してたんです」

「私を? なんで?」

「黒沢さんに頼まれ」

「あんた黒沢の仲間なの!?」

「え」


 佐倉は両目を見開いて岸本を見ている。


「じゃ、じゃあ美緒は……なんで守ってやらなかったの! 自分がずっと守りますって言ってたくせに!」

「いや、あの、落ち着いて」

「だから結婚に反対だったのよ! こんなやつが郢ァ?ッ郢晏から美緒を守れるはずが――」


 岸本の体に痛みに似た震えが走った。

 真っ青な顔をした佐倉は両手で口を覆っている。

 崩れそうになる自分を支えながら岸本は佐倉に向き直る。


「あ、あの、今のは……?」


 佐倉は震えながら何かを呟いている。


「ご、ごめん。ごめん悠馬」


 何かを言いながら、佐倉は岸本を無視して走り出した。

 追いかけようとした岸本は、その場にへたりこんでしまう。そのまま遠ざかる佐倉の後姿をただ見ていた。




 しばらくして動けるようになった岸本は自宅に戻る。

 自宅の中をずっと眺めている。

 今思うとおかしいことは沢山あった。

 コップや茶わんがふたり分ある。

 自分のものではない衣服がある。

 寝室がふたつある。

 これまではなんとも思わなかったことが、今は異常なことだと感じている。


 岸本は自分のものではない寝室のドアに手をかけた。

 ゆっくりと開いた中には知らない部屋。

 中央のテーブルに、一冊の日記帳が置いてあった。

 手に取ってパラパラとめくってみる。

 最後のページに、和幸かずゆきさんへ、という文字をがあった。


 和幸さんへ

 私はもうすぐここから消えます。

 もうあなたと人生を歩むことができなくなってしまいました。

 私の母校である霧谷高校には近づかないでください。

 今はダムの底ですが、情報にも近づかないでください。

 黒沢という男には絶対に関わらないでください。

 どうか、普通の、幸せな人生を。


 岸本が日記から目を離すと、写真立ての中にあるものが目に入った。

 自分と、華奢で清楚な女性が並んで笑っている。

 その女性を思い出そうとするが、全く記憶から浮かんでこない。


 その部屋で動けない岸本の携帯電話が振動を始めた。

 取り出して画面を見ると、黒沢と表示されている。

 ただ、じっと眺めたまま震えるにまかせていると、糸が切れたようにおとなしくなった。


 ふと顔を上げると、窓の向こうが茜色に染まっている。

 息苦しさを感じた岸本は少し咳をした。

 黙ったまま日記と写真を手に取ると鞄に入れて玄関に向かう。

 ドアを開けて外に出ると、また咳が出た。




 その住所にはタワーマンションと呼ばれる建造物が建っていて、地面から逃れようと空へ伸びている。

 エントランスに入った岸本は、インターホンに部屋番号を入れた。


「ああ、岸本さん。どうぞ」


 重そうな足取りで、岸本は中へと入る。

 エレベーター内で何度も咳をした。

 最上階の部屋の前。岸本はゆっくりとインターホンを押す。


「開いてますよ。どうぞ中へ」


 ドアを開けて入る。

 息苦しさが消えた。

 体も軽くなったように感じた岸本は、廊下を足早に歩いて奥のドアを開ける。


「やあ岸本さん。お待ちしてましたよ」


 正面の机の向こう、黒沢が両手を広げて歓迎していた。


「岸本さんのおかげで探してた人が見つかったんですよ!」

「……というと、霧島悠馬さんが?」

「いえ、そっちじゃなくて佐倉玲ちゃんです」

「……?」


 不審そうな顔をしている岸本に、黒沢は苦笑する。


「まあ、そのうち思い出しますよ」


 その顔を見ながら岸本は鞄の上から日記に手を当てた。


「今日は……聞きたいことがあってここに来ました」

「僕に答えられることなら」

「芹沢美緒さんについて聞かせてください」

「美緒ちゃんですか。10年前の儀式に参加して、途中で逃げた3人のひとりですね」


 岸本の日記に添える手に力が入る。


「私の……妻だったのですか?」

「そうです。思い出したんですか?」

「いえ……」


 黒沢は鞄に添えられている岸本の手を見た。


「記録が認識できてるようですから、記憶もそのうち戻りますよ」


 黒沢は穏やかな表情で岸本を眺めている。

 岸本は何かに取り残されたようにあえいでいる。


「何が……いや、何故……?」

「そうですね。岸本さんは知る権利があるし、義務もある」


 黒沢は机に肘をおいて顔の前で手を合わせる。


「全ての始まりは儀式ですね。妙に押しの強い学者さんが……いや本当は学者ではなかったんですが」

「儀式の途中、学者さんが葉っぱのついた枝でみんなに水をまいてた時、霧島くんが『ダメだ!』って叫んで玲ちゃんの手を取って立ち上がりまして。玲ちゃんは美緒ちゃんの手を取って逃げちゃいましてね」

「あの時は何やってんだ? と思ったものです。後になって考えるとさすがは神社の息子だなと」

「台無しになったはずなんですが、学者さんは気にしてなくて。残った僕らに水を飲ませて解散。今思うとこれ目印つけられたんですね」


 黒沢の髪から雫がひとつ落ちる。


「その後の廃校廃村ダムは……儀式が危険だと思った連中がいまして、そいつらのおせっかいですね。僕もずっと監視されてたようです」

「それから8年経って、村がダムに沈んだ頃でしたか。大雨の日に行方不明だった学者さんが僕の所に来ましてね」


 黒沢の表情が少しだけ笑ったように歪む。


「いきなり僕を造り変えちゃったんです。ひどいですよね」


 黒沢の歪んだ口から細い触手のようなものが何本も出てきた。

 呆然とその様子を見ている岸本を見て、黒沢はいたずらっぽく笑う。


「それから学者さんの指示で当時のメンバーを集めることになりまして」

「目印をつけられた連中は簡単に見つかったんですが、逃げた3人が難問でした」

「時間はあるのでのんびり探してたんです。それで先週、美緒ちゃんを見つけたんですが……岸本さん、友達は選んだ方がよかったですね」


 岸本の顔に疑問の色が浮かぶ。


「あなたたちの披露宴に参加した人がその写真をSNSにあげてたんです。撮影禁止だったけどコッソリ、って」


 黒沢は同情するような視線を向けた。


「美緒ちゃんがこちらに来て音信不通になれば、親友の玲ちゃんが夫の岸本さんに接触するだろうなと。それで岸本さんを確保しようという話になって」

「あとは、まあ、あなたもご存じのとおりで」


 全身から力が抜けたような岸本は、呟くように口を開く。


「もうひとつ……聞いてもいいですか」

「ええ、どうぞ」

「その、何故、忘れるのですか」

「ああ、それですか」


 黒沢はどこか遠くを見ている。


「なんでも、この宇宙の記録というか名簿? みたいなのがあるそうで」

「こちらに来ると、それから削除されるとか。まあ学者さんがそう言ってますので」


 岸本はぐったりとソファにもたれかかっている。


「最後に……いいですか」

「ええ」

「郢ァ?ッ郢晏というのは……」


 部屋とその中身が傷みに悶えた。

 黒沢は眉間に皴をよせて難しい顔をしている。


「マズイな……岸本さん、発音できるようになったんですか」


 黒沢の眼鏡の奥から黒い瞳が何かを覗いている。


「それ、エラを上手く使わないと発音できないんですよ」

「え……」

「脇腹のところに溝のような穴が開いてるはずです」


 慌てて自分の脇腹を触った岸本が痛みに顔をしかめる。


「慣れてないと中を触ると痛いんですよね」

「あの……私は、いったい」

「岸本さんもこちらに来てもらおうかと」

「な、何故……」

「ええとですね、玲ちゃんがだいぶこちらに来ていたので、普通の人間だと認識できない恐れがあったのと」


 黒沢が岸本を見る。


「美緒ちゃんの頼みです」

「えっ」


 岸本が鞄の中に手を入れてそこにある日記に触れる。


「で、でも彼女は関わるな、と」

「岸本さん、変わると変わるんですよ」


 黒沢の雰囲気がどこか黒く沈む。


「僕も変わったんですが……たまに思うんです、前の僕は学者さんに変えられたときに死んで、今の僕はその記憶を持っているだけの別の存在じゃないかって」


 黒沢の表情がふっとゆるんだ。


「まあ、考えてもしょうがないことですが」


 岸本の充血した目が黒沢を見つめている。


「いつ……どうやって」

「ああ、方法ですね。この部屋の湿気、水じゃないです」

「え……」

「あなたがさっき言った名前呼んじゃいけない奴の一部です。それを吸ってしまうとそうなります」


 黒沢の人差し指から雫が垂れる。


「名前を言わない方がいいから、アレとかソレで。名前を言いたくなる衝動があるでしょうが我慢してください」

「アレ……」

「そういえば、なんで最上階か気にしてましたよね。実はアレ、陸地が苦手というか嫌いらしいんですよね」

「え……」

「なので僕の家は地面から出来るだけ遠いところに。新しい霧守村は陸地から一番遠い場所に」


 黒沢が卓上にある地球儀の一点を指さした。


「ここの底。ここって到達不能極とかポイント・ネモっていうそうです。カッコいいですよね」


 楽しそうな黒沢の視線の先で、岸本の体が赤くぶくぶくと泡立ちはじめている。


「アレの名前なんか言うから、進行が早まりましたか」


 岸本の体が赤い泡に沈みはじめた。


「あなたは……あなたたちは、何を」

「目的ですか。学者さんが言うには、手順を完遂して、この宇宙とアレを入れ替えるとか取り換えるとか……意味わかります? 僕はわかんない」


 黒沢が肩をすくめると同時に、部屋が透明な何かに満たされる。

 一瞬の後、何かは潮が引くように消えた。

 岸本のいたソファには、赤いにじみも残っていない。


「霧守村でまた会いましょう、岸本さん。美緒ちゃんと仲良くね」


 体のあちこちから雫を垂らしながら黒沢は独り呟く。


「そういえば美緒ちゃん、見た目が腸だけど大丈夫かな。まあ岸本さんも内臓っぽくなるから大丈夫か」


 ひとつ伸びをした黒沢はビニール袋に入った携帯電話を机から取り出した。


「さてと、霧島くんはどこでどうしてるかな」


 細い触手が携帯の表面を這いまわった。




 日陰でもないのに、どこか沈んだ雰囲気の古いビル。

 その最上階にある応接室に、人影がふたつ。

 たまに怪奇物を扱っている雑誌「裏窓」の編集長は、柔和な笑みを張り付けた顔で、向かいのソファに座っている人物に前のめりで話しかけている。


「霧谷ダムの底の廃校って話があるんですよ!」

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