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捨てられ令嬢は、今さら亡命してくる元婚約者を門前払いします

作者: 入多麗夜

長編版始めました。

「――君との婚約は、破棄することにした」


 その声は、淡々としていた。

 正装に身を包んだ王太子アレクトは、目の前の椅子に座る令嬢に一切の情を見せない。


 沈黙が落ちる。

 春の陽が穏やかに差し込む応接室は、まるで時間が止まったようだった。


「理由を、お聞かせ願えますか」


 アイリーン・アスナルクは表情ひとつ変えず、静かに問い返した。


 美しい金髪と灰緑の瞳を持つその令嬢は、王国屈指の名門であるアスナルク侯爵家の娘。

 礼節も才知も兼ね備え、未来の王妃と称されてきた。


 しかし今、その立場は揺らいでいた。

 目の前にいる男――アレクト王太子が、自らの婚約を破棄すると宣言したのだ。


「すまないが、詳しいことは教えられない」


 アレクトの声は冷ややかでも、怒気を含んでいるわけでもなかった。


 目を合わせることを避けるように、彼は視線を窓の外に逸らしていた。


「それは……殿下のご判断ということでしょうか」


「……そうだ」


 淡い沈黙が、ふたりの間に再び落ちる。


 アイリーンはふと、遠い昔を思い出していた。

 アレクトが初めて自分に手を差し伸べた日。

「王妃としてではなく、君自身に興味がある」と笑ったあの午後。


 ――あれは、偽りだったのか。

 それとも、今が偽りなのか。


「承知いたしました」


 その一言で、アイリーンは椅子から立ち上がる。

 姿勢は崩さず、声音にも揺らぎはない。ただ、すでにこの場にとどまる意味はないと判断しただけだった。


「ご厚意に甘えていたこと、今はただ恥じ入るばかりです。どうか、王家と王太子殿下の前途に祝福がありますよう」


 アレクトは嫌味っぽいアイリーンの言葉に何も返す事はなかった。


 扉が閉まり、静寂が戻る。


 その瞬間、アイリーンの胸に去来したのは、悔しさでも悲しみでもなかった。

 ――ただ、虚しさだった。


 不確かなものにすがっていた自分。

 そして、すがらせた者が口にした“すまない”という言葉の、なんと空虚なことか。


 けれど、それでも彼女は泣かなかった。

 その日を境に、アイリーン・アスナルクは“婚約者”であることをやめたのだ。


 ――アスナルク侯爵家。

 王国に五つしかない侯爵家の一つであり、「天才の一族」と称される家柄だった。


 軍事を誇る一族でもなければ、大地を広く治める領主でもない。だが、政治と学問の世界において、アスナルクの名は代々輝きを放ってきた。


 歴史に名を残す大宰相、財政改革を成し遂げた天才官吏、外交の礎を築いた策士――いずれもアスナルク家の出身である。


 中でも一族の教育方針は徹底していた。才覚があると見なされた子は、幼少より政務の基礎を叩き込まれる。論理、倫理、歴史、経済、戦略。

 厳格で孤独な学びの道――だが、それをくぐり抜けた者は、王政を支える柱となった。


 そして当代もまた、その伝統に違わず、数多くの才人たちが中央政庁に名を連ねていた。


 対外折衝の席で敵国の外交官を沈黙させた交渉官、年若くして法典改革を起草した法学者。

 偉人達に顔負けしない偉業を成し遂げた者ばかりだった。


 アイリーンもまた、その例外ではなかった。


 八歳で写本司見習いとして修道書庫に通い始め、祈祷文と歴代王令の素読を習い、十三歳には王都の高等文館へと進んだ。


 高等文館――それは貴族子弟の中でも、限られた者しか入ることのできない学びの場であり、政務、法制、礼楽の基礎を徹底して叩き込まれる訓練所であった。


 アイリーンはその中でも群を抜いていた。

 論理においては師を唸らせ、史論においては長老官の反論を封じ、実務においては年長の補佐官さえ黙らせた。

 だが、彼女が誇りを持っていたのは、そうした“結果”ではない。


 ――自らがアスナルクであるということ。

 それにふさわしくあるよう、ひたむきに研鑽を積んできた年月。

 誇るべきは、道のりそのものであった。


 王太子の婚約者として名を連ねたのも、そうした努力の延長に過ぎなかった。

 冷静で、誠実で、間違いなく「支えるに足る」と評価されたからこそ、選ばれた。


 けれど――その評価も、時勢ひとつで覆る。


 才ある者が常に正しく用いられるとは限らない。


 忠誠を尽くしても、理を尽くしても、それが“都合の悪い”と見なされたとき――その価値は一転して、排除の対象となる。


 アスナルク家は、まさにそういう一族だった。


 天賦の才に恵まれながらも、時運が悪かったのだ。どの時代にも必要とされてきた才覚だったはずが、今の王宮においては過剰とされ、煙たがられるようになった。


 どちらの派閥にも直接的に与しなかった彼らは、均衡を保つ調整役として、一方から持ち上げられ、もう一方から引きずり下ろされた。


 口では賞賛されながら、実際には都合のいいところで担ぎ上げられ、都合が悪くなれば静かに切り捨てられる――そんな立ち位置だった。


 実際、アスナルク家が関わった政務案件のうち、いくつかは派閥の間での妥協の材料にされていた。


 才覚を買われながらも信頼されず、誠実を尽くしても報われない。

 そんな理不尽が、少しずつ、確実に、彼らの立場を蝕んでいった。


 そして、王太子との婚約破棄を皮切りに、アスナルク家は表舞台から排除されていった。


 才があるゆえに、扱いづらい。

 忠義深いがゆえに、派閥に染まらない。

 その誠実さが、裏目に出てしまったのだ。




 ◇




 高等文館の書架は、いつ訪れても静かだった。


 王都の中心に位置するこの学び舎は、政務に携わる貴族子弟たちが研鑽を積む場であり、同時に王政に仕える者たちにとっての知の拠点でもあった。


 アイリーンは、その学び舎の片隅にひとり座っていた。


 すでに彼女は、卒業して久しい。

 今さら得るべき学位もなく、資格も役職も持たない。

 それでも――ただそこにいることは、許されていた。


 目の前の分厚い冊子には「西部辺境交易路における関税改革案」と書かれていたが、アイリーンは内容を追っていたわけではなかった。


 指先でページをなぞりながら、彼女の思考は別の場所にあった。

 それは、一族の未来――アスナルク家の行く末について。


 婚約破棄を境に、家は静かに王政の中枢から退いた。叔父は政務庁を辞し、従兄は地方へ異動し、今や中央に名を連ねる者は数えるほどしかいない。


 誇り高く、才を重ねてきた家が、声も上げられぬまま後ろに退かされていく。理不尽であると理解しても、それを嘆く暇すら与えられない現実。


 ――自分に、何ができたのだろう。


 もし自分がもっと従順で、もっと感情的で、もっと“都合のいい婚約者”だったら。

 少なくとも家だけは、ここまで傷つかずに済んだのではないか――そんな思いが、ふと胸をよぎる。


 それが、自己弁護なのか、誇りなのか、自分でも判然としなかった。


 アイリーンは視線を落とし、手の中の書物を閉じる。指先がわずかに震えていることに気づき、そっと膝の上で組み直す。


「……やっぱり、ここにいた」


 そう呟いたのは、栗色の髪を軽くまとめた女エイリー・ノアだった。

 かつて共に机を並べ、学び、語り合った親友。

 今では王都を離れ、異国で外交の任に就いていると聞いていた。


「珍しいわね、あなたがこの文館に来るなんて」


 アイリーンがそう言うと、エイリーは肩をすくめた。


「当たり前じゃん、何年の付き合いだと思っているの私達」


 そう言ってエイリーは、懐かしさと共に笑った。


「……ここに来るって事は、何か言いに来たのでしょう?」


「察しがいいね、アイリーン。さすが“天才一族”の看板娘」


 エイリーは背筋を伸ばし、視線を真っ直ぐに向けた。


「じゃあ、単刀直入に聞くよ。――今回のアスナルク家の処遇、どこに任されたと思う?」


 唐突な問いに、アイリーンは眉をひそめる。


「処遇……? まさか、それがあなたの……」


「そう。アスナルクの処遇は、うち――ノア家に任されたの」


 アイリーンは黙ったまま、エイリーを見つめた。


「“最も穏やかに整理できる家系”って。言い方は綺麗だった。でも実際は、“反発されずに片づけられる相手に任せたい”ってことよ」


 いわゆる死体処理班のような雑用処理だった。如何に事を荒立てないか、それだけが求められていた。


「うちの家も、アスナルクからお世話になっているのもあって、本音では関わりたくなかったんだよね」


 エイリーは、ため息まじりに続けた。


「中には“見せしめに死刑にすべき”なんて言い出す過激派もいた。本当にありえない話だけどね」


「……あなた、まさか慰めに来たわけじゃないでしょうね」


「違うわ。慰めるつもりなら、お菓子でも焼いてきてるわ。今日は、もっと現実的な話をしに来たの」


 エイリーは鞄の中から一枚の書状を取り出し、机の上に置いた。


「フェレグリード。海の向こうにある新興国よ。いま、そこで私は外交顧問をしてるの」


 アイリーンは視線を落とし、書状を無言で見つめた。


「その国の政務が、完全に止まってる。法も組織も、人も足りない。だから、重役として、あなた達を迎えたいって正式に依頼されたのよ」


 フェレグリード――王国の交易政策の一環として、数十年前に開発された沿岸地域である。


 表向きは王国の属国として扱われており、現在も形式上の主権は王家に属している。


 だが、現実には統治の手はほとんど届いていなかった。


 王都から派遣された総督府はあるものの、名目ばかりで、実質的な行政は現地の有力商人や自衛組織が担っている状態だった。

 住民の多くは、王都を「遠すぎる中心」と見なし、内心では独立国家のような意識を抱いていた。


 とはいえ正式な独立を宣言すれば、王国との交易関係は断たれる。

 そこで、名目上は属国のまま、実質的な自立を進めるという奇妙なバランスの上に成り立っていた。


 当然ながら、法も官制も不完全で、政務を動かせる人材はほとんどいない。

 外交関係の整備もままならず、各地で利権をめぐる小競り合いが絶えなかった。


そうした中、王国の官僚経験者を重役として迎える動きが強まっている。


 風潮には縛られず、それでいて制度を設計できる才覚と実務経験を持つ者――


 その条件に最も合致した人材として、推薦されたのがアスナルク家だった。


  政争の余波で王国から煙たがられたとはいえ、その実績と系譜は疑いようがなかった。


 フェレグリードの側にとっても、アスナルク家は政治色が最も薄い存在だった。


 特定の派閥に属さず、軍権とも縁が薄く、王家とも距離を置いてきたが故に、他国にとっては中立的で扱いやすいと映ったのだ。


 加えて、今や王政から外れたことで、王国側の意向を背負わずに動ける立場にある。


 信頼と技術はあって、欲がない。


 それは、制度を一から築こうとする新興国家にとって、理想的な条件だった。


 こうして、正式な招聘文が送られた。

 アスナルク家に――そして、今そこにいる、アイリーンに。


 アイリーンは書状から視線を上げなかった。


重い沈黙の中、机の上の羊皮紙だけが、目の前にあった。


「……これは、私個人への依頼ではなく、家としての招聘?」


 アイリーンの問いにエイリーは頷いた。


「ええ、そうよ。今回の件で職を外された者、全員に送ってるわ。アスナルクの名で政に携わっていた人たちに、平等に」


 そして少しだけ口元を緩める。


「でも、あなたには一足早く届けた。最初に話すべき相手だと思ってたから」


 アイリーンは黙っていた。


 それが、感情を整理するためなのか、言葉を選んでいるのか、自分でもわからなかった。


 机の上にある封書は、ただの書状ではなかった。

 失われた立場の代わりに差し出された、新しい選択肢だった。


 アイリーンはゆっくりと息を吸い、視線を封蝋から逸らした。


「……返答は、少しだけ待ってもらえないかしら。時間がほしいの」


 エイリーはすぐには返事をしなかった。


 けれど、わずかに身を乗り出し、低い声で告げる。


「できれば、今答えてほしいの。猶予は長くないわ」


 アイリーンの眉がわずかに動く。


「これは、ノア家が王国側に突き出した最大限の妥協なの。アスナルクを国外に出すことで、面子を保つっていう建前付きの提案よ。……でも、それが通っているうちに動かないと、次はない」


 言葉は穏やかだったが、そこにあったのは確かな切迫感だった。


「いつ方針が変わって、心変わりが起きるか分からないの。それこそ次は死刑になりかねないわ」


 アイリーンはわずかに目を伏せた。


「……家としての意見をまとめるには、時間がいるわ」


 その言葉に、エイリーは静かに首を振った。


「家の総意はいらないわ。今回の招聘は、一人ひとりの意思を尊重するって条件で通してある。各個人の判断に委ねてるの」


 アイリーンは顔を上げた。


「……そんなこと、よく通ったわね」


「通させたの。形式でも“国外に出す”ことが第一条件だったから、それさえ守れば、細かいところまでは目をつぶるって」


 エイリーの声は変わらず穏やかだったが、その裏には確かな交渉の痕跡がにじんでいた。


「だからこそ、あなたにまず動いてほしい。誰かが最初に歩かないと、他の人も動けない」


 静かな視線が、改めてアイリーンに向けられた。


 アイリーンは息を小さく吸い、封書に手を伸ばした。封はまだ開けていない。だが、その重みはすでに、十分すぎるほどに感じ取れていた。


「……もし、私が引き受けたとしても。それは、この国から追い出されるという事実に変わりはないわ」


 アイリーンは封書に指を添えたまま、視線をエイリーに向けた。


「これは、“必要とされた”というより、“都合がよかった”から回された仕事でしょう?」


  エイリーは否定しなかった。


「そうかもしれない。でも、都合よく扱われるかどうかは、受け取った側が決めることよ」


 アイリーンは黙った。


「フェレグリードがどうなるかは、あなたにかかってる。何を形にするかは、あなたの手に委ねられてるの」


 そこで、ふと口元に薄い笑みを浮かべる。


「それに――あの傲慢王子だって、きっと思い知ることになるわ。自分が切り捨てたものが、どれだけの価値を持っていたかをね」


 アイリーンは黙ったまま、もう一度封書に視線を落とした。


 指先がわずかに動き、封の縁に触れる。


「……わかったわ。行く」


 その声に、迷いはなかった。


 彼女の中にある静めたはずの怒りは、エイリーによって刺激され、沸々と湧き上がっていた。


表に出ることはなかったが、確かに残っていた。


 特に――あの王子の態度


 礼もなく、説明もなく、ただ一方的に切り捨てた。


 忠義にも、努力にも、一片の価値も見出そうとしなかった。


 (負けてばっかりじゃ、終われない)


 その言葉は声にはならなかった。だが、心の底に確かに響いていた。


 アイリーンは封書を手に取り、まっすぐエイリーを見た。


「準備の猶予は?」


 エイリーは笑みを浮かべた。


「二日。最初の船が出るのは、あさっての朝よ」


「手伝いはいらない?」


「必要なものは、自分で決める」


 その答えに、エイリーはわずかに目を細め、満足げに頷いた。


「じゃあ、迎えは当日の夜明け前に寄越すわ。遅れないでよ、アイリーン」


「もちろん」


 アイリーンは封書を胸元に収め、静かに席を立った。


 迷いのない動作だった。


 書架の間を抜けていくその背に、エイリーは声をかけなかった。


 その姿が、もはや“追われた者”ではなく、“歩き出した者”であることを、誰よりも強く感じていたからだ。


  陽の光が静かに傾いていた。

 冬の名残をわずかに含んだその光の中で、アイリーン・アスナルクは、新しい航路へと向かっていく。




 ◇



 王都の外れにある港は、まだ深い靄に包まれていた。

 空は灰色に沈み、海の向こうから届く風が、冬の名残を運んでくる。


 アイリーンは一人、埠頭に立っていた。

 荷は多くない。必要最低限の書類と衣服、それにアスナルク家の紋章が刻まれた小さな銀製の印章だけ。


  足音が、後ろから近づいてきた。


「……来るとは思わなかったわ」


 アイリーンが振り返ることなく言うと、聞き慣れた声が返る。


「最後まで見届けるのが、私の務めでしょ!」


 そこにいたのは、外套の裾を軽く風になびかせたエイリーだった。

 変わらぬ笑みを浮かべていたが、その表情はどこか静かだった。


「船は予定通り。もうすぐ来るわ」


「ええ、貴方には本当にお世話になったわ」



 すると、エイリーは懐から折りたたんだ新聞を取り出した。


「こちらこそ。でも――感謝なら、これを見てからでも遅くないわ」


 アイリーンが受け取った紙面には、大きな見出しが踊っていた。


 《南部諸派連合、軍備増強か。我が国との衝突不可避の見方広がる》


 アイリーンは眉ひとつ動かさずに目を通す。


「……動いたのね」


「ええ。外交筋は否定してるけど、軍部はもう既成事実を積み上げにかかってる。恐らく、開戦は時間の問題」


 エイリーの声は低く、淡々としていた。


「あなたが出国する話も、これ以上引き延ばせなかったの。派閥の中には、“まだ甘い”って反発する動きもある」


 アイリーンは新聞を折りたたみ、静かにエイリーへ返した。


「……皮肉ね。外に出る方が、安全だなんて」


「だから言ったでしょ。フェレグリードに行くのは正解よ」


 エイリーはそう言って、わずかに微笑んだ。

 だがその目は、冗談めかすことなく、真っ直ぐだった。


 波音の向こうから、低く重い船の軋む音が聞こえてきた。

 薄靄の中をゆっくりと進んでくる船影が、埠頭に近づいてくる。


「ねえ、念のために言っておくけど――こっちが本当に戦争になったら、避難先はそっちになるから。よろしく頼むわよ」


 アイリーンは小さく息を吐くように笑った。


「現地に着いたばかりの“亡命先”に、期待しないでちょうだい」


「冗談じゃないわ!あなたがいれば、半年でまとまるでしょ。こっちの政治家より、よっぽど信頼できるわよ」


 その言葉には、冗談だけではない本気が混じっていた。


 アイリーンは短く頷いた。


「期待には、応えておくわ」


 船が桟橋に横付けされ、甲板の上から乗船を促す声がかかる。

 乗組員の姿が靄の向こうに見え始めた。


 アイリーンは荷を手に取った。

 背筋を伸ばし、迷いなく歩き出す。


「……じゃあ、行ってくるわ」


 エイリーはその背に声をかけた。


「気をつけてね」


 アイリーンは振り返らず、手をひとつ、小さく上げる。


 そのまま、ゆっくりとタラップを登っていく。

 彼女の背を乗せた船は、やがて音もなく港を離れた。


 朝の陽が、ようやく霧を破って水面に差し始める。

 王都の輪郭が遠ざかり、海の先に、新たな地平が広がっていく。


 ――その日、アイリーン・アスナルクは旅立った。


 それは追放ではない。

 彼女自身の意思による、新たな政の始まりだった。




 ◇




 ――それから、数年後。


 フェレグリードは、かつての辺境とはまるで別の国になっていた。


 法は整備され、税制と交易制度は安定を得、周辺諸国との外交も形を成しつつある。


 その礎を築いたのは、間違いなくアスナルク家の人々だった。


 アイリーンの招聘を皮切りに、各地で政務を退かされていた一族が次々とフェレグリードに集まり始めた。

 無名の地で再び政を司る彼らの手によって、国は一歩ずつ、確実に形を得ていった。


 そして、エイリーの予言は現実のものとなった。


 王国と南部諸派連合との間に戦火が上がったのだ。

 最初は小競り合いに過ぎなかった衝突はやがて本格的な戦争へと拡大し、気づけば十年の歳月を呑み込む長期戦に変貌していた。


 政も軍も疲弊し、王都は混乱を極めた。

 支配力は急速に落ち、各地で離反と崩壊が相次ぐ。


 そうしてフェレグリードは、事実上、完全な独立国家となった。


 避難者は後を絶たなかった。

 貴族、役人、商人、軍人――それぞれの立場で「亡命先」を求めて海を越えた。


 だが、そのすべてに門が開かれていたわけではない。


 アイリーンは、かつての恩義ある者には入国を許した。


 エイリーやその家族をはじめ、真に誠実に接してくれた者には、新たな地位と仕事が与えられた。


 一方で。


 アレクト王太子の入国申請は、静かに却下された。

「手続き上の不備」という名目のもとに、その書類は受理されることなく差し戻されたのだ。


 もちろん、それは偶然ではない。

 この国に、忠義も誠実も見ようとしなかった男を迎える義理などなかった。


 戦争の最中、弱体化した本国が抗議の声を上げることもなかった。

 フェレグリードは、もはや対等以上に物を言える立場となっていたのだ。


  その影響は、思わぬ形でも現れた。


 アレクト王太子の名で届けられた書簡は、丁寧な筆致で綴られていた。


 そこには、過去の判断についての反省と、困窮する本国の現状、さらには「再び歩み寄る余地があるのならば」といった言葉まで並んでいた。


 アイリーンは、それを最後まで読むことはなかった。


 冒頭数行を流し見ただけで、封筒ごと手元の書類入れに押し込み、次の瞬間には炉の扉を開けていた。


 火はすでに入っていた。

 封蝋が弾け、羊皮紙がゆっくりと焦げていく。


 指先に残った灰を払うこともなく、彼女は机に向き直った。


 目の前には、次期予算案の修正草案。

 南方地域との交易協定に関する折衝資料。

 そして、新たに赴任する官吏たちの履歴書。


 過去の栄光よりも、今ある責任のほうが、はるかに重かった。


 王宮に仕え、忠誠を尽くした女が追い出され――今や、王国の難民が頭を下げる国の執政として名を連ねている。


 その皮肉を、アイリーンは口に出すことはなかった。


 かつて彼女を不要と切り捨てた王太子は、今や“入国許可”すら得られず、遠く離れた地で打ち捨てられる側となった。


 過去に価値を見出さなかった報いとして、そして、アスナルクの名に汚名を着せた代償として――


 彼らの居場所など、最初から与えるつもりはなかったのだ。


 それこそが、真に“選ばれた者”の証なのだから。

評価&ブクマありがとうございます! 励みになります。


前書きの通り、長編化させました。是非そちらもよろしくお願いします。分かりやすいように代表作にしています。

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