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愛しい君に恋をしたい

作者: 氷柱里紗


 電車に揺られながら今日の余韻に浸っている。

 ニヤニヤした顔を知らない人にちらちらと見られた気がしたが、そんなの正直どうでもいい。

 むしろ誰彼構わずこの幸福感を分けてあげたい気持ちだから、ぜひとももっと私を見てって叫びたい。もうそんな気分だ。

 膝の上に置いたトートバッグが目に入るとまた一段と笑みが広がる。しょうがない。どうしたって抑えられない。

 だって私は今日──、神を見てきたんだから──‼

 神といっても一人じゃない。四人いた。どなたも素敵過ぎた。もう私、多神教になる。

 いやそんなこと言ってたら、本当の本当に信仰している人たちに失礼かもしれないな──うん、ちょっと浮かれすぎたかも。

 少し冷静さを取り戻してきた私は自分を戒めるように咳払いをする。


 なにはともあれ、私、八牧杏莉やまきあんりは今、絶好調に幸せなのだ。

 それはどうしてか。理由なんて語るまでもない。私の推しているダンスボーカルグループDroiDドロイドのライブの帰りなのだから、語らずとも当たり前の話だ。

 思えばこのライブのチケットを手に入れるのはそこそこ大変だった。

 チケットが手に入りにくくなったのはここ二年ほど前から。推しが人気になっていくのは嬉しい。だけど同時に寂しいという気持ちも湧いてきて。これはファンの勝手な我儘だって分かってはいるけど──。

 推しが飛躍していくことを寂しがるなんて当人たちにしてみたら知ったこっちゃないだろう。むしろ何言ってんだって平手打ちされても文句言えない。

 うん。私も、心の底から活躍して欲しいと思っている。

 だって彼らは最高だ。

 彼らのパフォーマンスを世界中に見せびらかしたい。ほら、こんなに素晴らしいのだぞって。知らないなんて勿体ないよって。

 またまた沸騰してきた頭の中で私は拡声器片手に見えない群衆に声を張り上げていた。

 そんなくだらない妄想をしている間にも今日のライブの光景が瞼の裏に浮かび、またまた勝手に胸を躍らせる。

 ステージの上にいる彼らの記憶を興奮で消してしまわないように何度も繰り返す。皆大好きだけれど、中でも私のイチオシは七戸澄人ななどすみとという最高の男だ。

 でも──ああ、もう、彼ら全員のことが愛おしくてたまらない。

 最高すぎてなんにも手につかなくなっちゃうのだから困ってしまう。

 ああもう。この感情をなんらかの罪に問えないのかって裁判所に訴えかけたいくらいだ。

 


 大学が休みのある日、私は段ボールを抱えて街を歩く。

 潮風の香りを仄かに吸い込んでから深呼吸をした。骨の髄まで浸されたこの心地良い香り。

 やっぱり私はこの町が大好きだ。少しノスタルジックな地元の空気に包まれ、私は大手なんか振ってみちゃいながら意気揚々と目的地まで向かう。

 さて白い家が見えてきた──絵本から飛び出てきたみたいな愛らしい小さなお家。ここが今日の私の目的地となる。


城之内じょうのうちさーん‼」


 段ボールを抱えたまま私は扉の前で叫んだ。っていうか、普通はインターフォンを押すよね。別に玄関が開いていたわけでもないし。


「はーい!」


 だけどちゃんと返事が聞こえてくる。年配の、柔らかくてマシュマロみたいな大好きな声が。


「杏莉ちゃん、来てくれたんか?」

「梨のお裾分けだよ、おじいちゃん」


 抱えた段ボールをよいしょと上げて、城之内さんが出てくるのを玄関前で待つ。

 城之内さんは近所のお祖父さんで、私たち家族がこの町に引っ越してきた幼いころから交流がある人だ。

 優しいお祖父さんで、私のことを昔から無条件に可愛がってくれる。きっと子どもが大好きな人なのだろう。城之内さんは三年前にお祖母さんを看取ってから一人で住んでいる。

 お子さんがたまに顔を出しているけれど、今のところお孫さんはいないようだ。

 だからもしかしたら私に親しみを持って可愛がってくれるのかもしれない。

 でも城之内さんだけではなくて、私の母が介護職に就いていることもあって、最近は以前よりも近所の人たちとの交流は深くなった気がする。少し前はちょっと面倒だなって思ってた人付き合い。だけど今、それはいいことだよねって、考えられるようになった。これもまた成長の一つと自負してもいいのかな。

 そんなことをぶつくさ考えていると、目の前で閉ざされていた玄関扉が開いた。


「あ! こんにちはおじいちゃ──」


 ──ん?

 玄関扉の向こうから出てきた人物を見て、私は思わず固まった。

 だってこの人はおじいちゃんじゃない。

 おじいちゃんは、もっと背が低くって、それに、だんだんと背中が丸くなってきているのだ。

 だけど現れたのは私よりもずっと背が高くて、背筋のピンと伸びた人のシルエット。

 え──誰だろう?

 私が目を白黒させていると、その人は一歩外に出てきて私が持っていた段ボールを持ち上げた。


「うわぁ、すごく美味しそうな梨。わざわざありがとうございます。重くなかったですか」


 めちゃくちゃいい声だ。耳触りの良すぎる声に私は単純にぼうっとしてしまう。

 けど、あれ……待って、この声、どこかで聞いたことある?


「ねぇおじいちゃん、この方がいつも話してた八牧さん?」

「うん。そうだよ、澄人」


 城之内さんが奥から歩いてくるのが見える。

 あ、良かった。家を間違えたかと……え? でもちょっと待って──?


「そっか。じゃあ改めて──はじめまして、八牧さん」

「え?」


 私は目を回したまま顔を上げる。きっと勘違いだよね。この見上げた先に映る麗人が、まさか私の知っている人であるはずがない。だってここ、ちょっとした田舎町だよ?

 なんて私の必死の脳内会議などに構うことなく、目の前の愛想のいい笑顔が口を開く。


「いつもおじいちゃんがお世話になっています」


 …………えっ‼⁉


「初めて会いますよね。俺、七戸澄人ななどすみとです」


 えええええええええええええええええええええ‼⁉

 彼が私の目を見てニコリと笑った瞬間、文字通り目の前が真っ白になった。

 ちかちかして視界が曖昧になってしまったけれど、これは、確かに──とんでもなく身を冷ましてくれる清涼剤みたいに爽やかに笑っているのは、明らかに知っている顔だった。


 嘘⁉ これは夢⁉  私、狐に化かされているのでは──⁉


 口をぱくぱくさせたまま、私は何も言えない。

 だって、当たり前だ──こんなのローマ帝国の歴代皇帝を全員正確に言えなけりゃ命はないって突然脅されたみたいに意味が分からない事態だもん‼


「──杏莉ちゃん? どうしたんや?」


 城之内さんが首を傾げる。ちょ、城之内さん、なんでそんなに冷静なの──意味が分からないんだけど‼

  私は城之内さんに救いを求めるかのような目をしていたと思う。城之内さんはポカンとしているけれど本当にポカンとしたいのは私の方だ。


「八牧さん? 大丈夫?」


 大丈夫じゃないです。心臓をバクバクさせながら、私はどうにか使い物にならなくなった思考を働かせていく。

 もしかして、これは盛大なドッキリなのかもしれない。もしや家族の誰かが番組の企画に応募したな?

 なんだ、そんなことなら納得できる。まったく、人の心を弄んじゃって迷惑なものよ──。

 適切な答えに辿り着けた私はここでやっと息を吐くことができた。そして同時にようやくため息とともに声が出ていく。


「あ、あの──私、八牧杏莉です」

「はい。よろしくね、杏莉さん」


 そう言ってニコッと笑う。え──待ってよ可愛すぎない? こんなのズルいよ澄人くん!

 私はゆるゆるになる頬をどうにか抑えようとした。だって向こう二十年は知り合いにからかわれそうな情けない顔でテレビに映りたくないし。

 そこで私はハッとする。

 そもそも今、髪の毛も跳ねまくってるし、ぼさぼさじゃない?

  ちょっと、そういうことならちゃんと教えて欲しかった。そりゃドッキリの意味なくなっちゃうけど、娘が末代まで笑われることとドッキリの成功、どっちが大事なの。事前に教えられても私、絶対にうまく反応できた自信があるのに──‼

 こうなったらもう、黙っていた家族や城之内さんに後で文句の一つでも言わなくちゃ気が済まない。

 でもこんな間近で彼を見られたことに感謝もしないといけないよね──うーん、身内への制裁はあとでゆっくり考えればいいか。

 それよりも今は──この幸運な瞬間を楽しまなくちゃ──!


「ええっと……あの……」


 そして目の前の麗しすぎる青年を見上げてみる。

 やっぱりそうだ。間違いない。一寸の瑕疵もないその微笑み。

 まさかこんなところで彼の視界に入ってしまうとは──少し、不覚かもしれない。


DroiDドロイドの、澄人くんですよね?」


 私はどぎまぎしながら訊ねてみる。改めて聞く必要なんかないって思ってはいるけど。一応、ドッキリらしく振舞わなくっちゃ彼の撮れ高もなくなっちゃうし。

 ──そう、DroiDは、私の激推しのダンスボーカルグループ。澄人くんはメンバーの中でも特に歌唱力が高くて、その伸びるような透明感のある歌声に私たちファンはいつも感動を貰っている。もちろんダンスだって抜群のセンスが爆発している。表情管理も完璧。もう非の打ち所がないんだから。

 なのに今はそんなステージ上で太陽よりも光り輝く澄人くんが何故か城之内さんの家にいる。おまけに私から梨を受け取るなんてあり得ないことだ。

 だからこれはドッキリ企画に決まっている。ならば全力で楽しんでやるからな。今この瞬間を一生の思い出にしようと覚悟を決めた私の問いに澄人くんはまたニコッと笑う──致死量のファンサ。刺激が強すぎるからやめてほしい。


「あれ。そうだよ。俺たちのこと知ってくれてるんだ? ありがとう! 嬉しいな」


 思わず立ち眩みがした。冗談じゃなくクラっと貧血を起こした気がする。

 眩しい、眩しすぎるよ──!

 だけどここは冷静でいなくては。


「はい。あの──いつも歌声に元気をもらっています。こちらこそありがとうございます」


 テレビで全国放送されるのであればみっともないファンの姿を晒すわけにはいかない。

 ファン代表として、今はDroiDの印象を爆上げすることに貢献しなくては。


「ははなんか照れちゃうな。でもそう言ってもらえるとすごく嬉しい」

「ふへへ……」


 思わず気持ち悪い声が漏れる。やめなさい私。


「あ、そうだおじいちゃん、杏莉さんにもケーキ食べてもらおうよ」

「ああ、それはええねぇ」


 澄人くんは城之内さんとお話ししている。城之内さんも仕掛け人なのだろうか。すごく自然に会話してる。なんてお茶目な人なのだろう。なんだかとても楽しそうに笑っているし、城之内さんへ文句を言うのは少し控えておこうかな。


「杏莉さん、もし時間があればケーキ食べていきませんか? 俺、ここに来る前に買いすぎちゃって」

「はい。もちろんよろこんで!」


 澄人くんは恥ずかしそうに笑う。尊い。分かりました。リビングでネタばらしですね。

 私は澄人くんの後ろに続いて城之内さん宅のリビングへと向かう。もう何年も通っているのでここはまるで自宅のようにくつろげる場所だ。

 しかし今日はきっとそんな安住の地とは違うのだろう。隠しカメラとかあるのかもしれない。いや、ちょっとそう思うと緊張が高まってきた。


「少し待っていてくださいね」


 澄人くんにそう言われるがまま私はリビングのソファに座った。城之内さんは向かいに座る。駆け足で去って行く澄人くん。たぶんドッキリ大成功っていう看板を持ってくるのだろう。私はそわそわとした気持ちで待った。自信はあると思ったけどいざその時が来るとうまく反応できるのだろうか。いや弱気になるな。きっと私ならできる。できるにきまってる。頑張れよ私──!


「すみません、お待たせしちゃいました」


 しかし澄人くんが持ってきたのはドッキリの文字が書かれたド派手な看板ではなく艶々の美味しそうなケーキだった。安定のショートケーキとキラキラのチョコレートケーキ。そして美しい模様の入ったモンブラン。どれもすごくおいしそう。ひょっとしてまだネタばらしじゃないのかな。このケーキをのんびり食べてるところで、じゃーん、って感じ、かな──?


「杏莉ちゃん、ほら好きなものをお食べなさい」

「あ、はい……ありがとうございます」


 ちょっと拍子抜けしちゃったけど、城之内さんにケーキを差し出された私はひとまずモンブランを選んでみた。城之内さんは苺が好きだし、澄人くんはチョコレートが好きなはず。そして私はどれも大好物。


「い、いただきます……」


 遠慮がちにフォークを持ち、恐る恐るモンブランを一口食べてみる。こんなに緊張感のある食事は初めてかもしれない──でも、そんな状況でも普通にケーキは美味しい。天才。


「杏莉さんが来てくれて助かったね」

「そうやねぇ。ケーキ六個を食べきるのは大変やしなぁ。腐ってまうのももったいないし」

「あははは、驚かせちゃってごめんねおじいちゃん」

「いや、ええよ。ケーキはいくつ食べても美味しいからね」


 二人は朗らかな様子で話している。まるで本当の孫とお祖父さんみたい。だけど城之内さんにはお孫さんはいない。いやはや二人ともなかなかの名演技を見せてくる。澄人くんは絶対に演技にも挑戦してみるべきだと思う。


「そうだ。あの梨は、杏莉さんの家のもの?」

「えっ⁉」


 のほほんとした空気が流れる中、突如として彼の瞳がこちらを向く。突然話しかけられたものだから素っ頓狂な声が出た。彼の記憶から消したいくらい間抜けな声だった。別に私になんか気を遣わなくてもいいのに。私は置物だと思ってもらって。だって澄人くんが話しているところを見ているだけで十分すぎるほどに幸せなのだから。

 でも澄人くんは常識的な人だし気配りも持ち合わせているからそんな失礼な態度はとらないのだろう。

 知っていたけど初めて知ったみたいな彼の優しい気遣いに私はおずおずと肩をすくめながら答える。


「あの梨は母の実家から送られてきたもので──余ってしまうからお裾分けに」

「そうなんだ。すごく美味しそうな色してた。食べるのが楽しみだなぁ」

「……はい。すごく美味しいですよ」


 どうしよう。何を話せばいいのだろう。ロボットみたいに定型文を返すことしかできない。もうドッキリに気づいていないふりをするだけでも精一杯なのに。私にはキャパオーバーだよ。

 しかし澄人くんは私のメモリが限界値を超えているなど思いもしないのだろう。続けざまに素敵な笑顔で問いかけてくる。


「杏莉さんは大学生?」

「そうです。一年生です」

「じゃあ俺の一つ下だね」

「はい!」


 存じております!

 緊張感と戸惑いで一杯になって精神がよく分からないことになっているのは事実だけど、それでも澄人くんが笑うだけで心が晴れやかになるのは我ながらちょろいなって思う。ああ、でもそれでもいい。神様にお礼を言わなくちゃ罰が当たってしまいそう。この至福の時を与えてくれたもうたそのご慈悲に感謝を捧げます。

 私が天を仰いで涙を流すのを堪えていると、澄人くんはフォークでケーキを切りながらクスリと笑って申し訳なさそうに呟く。


「まぁ俺は大学行ってないけどね」

「いえいえ、澄人くんは大学になんか行かなくてもとても立派に活躍してます!  私、尊敬してますから!」

「──ありがとう。そんなことはじめて言われた」


 澄人くんはなんだかすごく驚いているけど、彼は自分のことを過小評価しすぎなだけだ。

 澄人くんは私なんかよりも何倍も偉い。私なんて大学をモラトリアムとしてしか捉えていない確信犯なんだから。でも人前に立って大活躍を見せる澄人くんにはそんな甘えなんてない。


「杏莉ちゃんは澄人のこと知ってたんやねぇ」


 興奮する私の表情を見た城之内さんが今更なことを言っている。のほほんとしたその声色、どことなく神視点のような余裕を感じた。城之内さんってばやっぱり演技が上手い。


「いやぁ、やっぱ嬉しいな、孫にこうやって会えるってのは」

「──孫、ですか」


 城之内さんなかなか演技派じゃないですか。でも私は騙されませんよ?

 城之内さんとの付き合いももう何年目だと思ってるんですか。


「俺もおじいちゃんに会えて嬉しいよ。ずっと会いたかったんだ。ごめんね最近は顔も見せられなくて」


 澄人くんもまたそうやって乗っちゃって。


「忙しくてなかなか来られなかったけど、少しずつリズムを掴んできたから──今度からは頻繁に会いに来るようにするね。これまで会えなかった空白の日々が悔しかったんだ。おじいちゃん元気かなって心配してたんだからな」

「まったく澄人は嬉しいことを言ってくれるんやね」

「母さんもようやく父さんを許したんだ。ここまで時間がかかりすぎちゃってごめん」

「ええんや。澄人のせいやない。気にせんでええよ」


 なんだなんだ感動させる系のシナリオか?

 澄人くんは城之内さんのことをじっと見て凛々しい表情をしている。まさに真剣そのもの。城之内さんのことを心の奥底から大事に思っているような──そんな、涙を誘う眼差しだった。


「いや、そうは言っても俺にだって出来ることはあったはず。でももう後悔はしたくない」


 おや──澄人くん? なんだか様子が──?


「おじいちゃん。これからもよろしくね。ちゃんと元気でいてくれよ?」


 え、すごく真に迫っている口調。澄人くんこれまで俳優業なんかしたことないのに。私、なんかつられて泣いてしまいそうなのですが──?

 二人の話の行く先が読めず私は呆気にとられたまま口を半開きにしていた。すると。


「杏莉さん」

「は、はい⁉」

「いつもおじいちゃんの傍にいてくれてありがとう」

「へ?」

「俺にはできなかったことだから──すごく、すごく感謝しています」

「…………うん?」


 おかしいな。これはドッキリじゃないの?

 こちらを見つめる彼の瞳には嘘とは思えないほどに気持ちがこもっている。すごく心に響いたし、心臓がぎゅっと掴まれて切なさでいっぱいだよ。あれ? っていうかネタばらしは? ねぇ、看板は──?

 空気がおかしくなってきたところで居たたまれなくなった私はつい思ったままに口を開く。


「えと──あの、これって、ドッキリですよね?」

「え?」


 恐る恐る尋ねた私に対して澄人くんはポカンとした顔をする。そんな顔も可愛いね──って、そうじゃなくて‼ なんでそんな意味が分からなさそうな顔をしているの?


「えっ? ほら、あの、私の家族が企画に応募してきたとか……ですよね?」

「え…………えーっと──」


 黙ってしまった。

 澄人くん、きょとんとしたまま黙ってしまった。困ってる。すごく困ってる。澄人くんを困らせてしまっている。

 え? あれ──私、変なこと言ったのかな?


「澄人くん? あの──」

「──ふっ──あはは、ふふっ」

「へっ?」


 不安になった私が彼の顔を覗き込むと、空気が抜けた風船みたいに澄人くんが笑い出した。

 目の前で澄人くんが肩を震わせて笑っている。目尻には涙。何がそんなにおかしいのだろう。


「杏莉さん、違う、違うよっ……ははははっ」

「え?」

「ドッキリじゃないよ。俺は本当にここの孫だよ」

「──え?」


 イマナニヲオッシャッタ?

 私の思考は情報を処理しきれずにパンクしてしまう。澄人くんが宇宙人になっちゃったみたいだ。その宇宙語を私は咀嚼することはできない。意味の分からない言葉を聞いた私は、もう何も考えられなくなった。というか、考えることを放棄しかけた。


「ええええええええええええええええ!?」


 そうすると、人ってこんな声が出るらしい。

 みっともなくも私は奇声を上げた。こちらの方がよっぽど未確認生命体に近い絶叫だろう。


「じゃ、じゃあ‼ 隠しカメラは⁉ カメラはないの⁉」

「はははは、ないよ」

「か、看板とか、スタッフは?」

「いないよ」


 澄人くんはずっとくすくすと笑っている。どうやら私の勘違いがツボに入ったらしい。

 彼の笑いのツボに私のボケが刺さったことは嬉しいかもしれない。でも──嘘だ。これは本当に本当の現実なのか⁉


「実は、俺の両親って離婚してから不仲でさ。俺は母さんの方について行ったから父方のおじいちゃんにはしばらく会えなかったんだ。けど、おじいちゃんがここに越してくる前はよく遊んでもらってたんだよ。俺、結構おじいちゃんっ子でさ」

「……へぇえええ」


 まだ奇声が漏れ出ていく。そんな私を見て城之内さんは他人事みたいに朗らかに笑っていた。城之内さん、それはないよ、そんなとんでもない家族設定は事前に教えといてくれなくちゃ。


「色々とごたついてたんだけど、最近になってようやく会えるようになったからさ、今日は仕事も休みだからお邪魔してたんだ。そこに杏莉さんが」


 澄人くんは頬杖をついて私のことを見てくる。穏やかな微笑み。こんな表情見たことない。きっと本当にリラックスしているんだろうな──ということは、本当にここは彼の心が落ち着ける場所なんだ。


「おじいちゃんから杏莉さんのことは聞いてたよ。孫みたいな可愛い子がいるって」

「か、かわ……」


 いやそういう意味の可愛いじゃないのは分かってる。だけど面と向かってそう言われると、照れてしまうのはおかしなことじゃないよね。どうか神様、大目に見てください。


「ねぇ杏莉さん。これまでおじいちゃんの相手してくれてありがとう。おじいちゃん、杏莉さんのこと大好きみたいでさ。それと──これからもおじいちゃんのこと、よろしくね」

「……はい! 当然であります!」


 人間ってテンパってしまうといくらでも恥を上塗りできてしまうみたい。

 私は澄人くんとのまさかの出会いと同時にたくさんのものを失った気がしていた。

 その日の記憶は、もうほとんど覚えていない。とにかく衝撃の事実に驚愕したってことだけは強烈に心に残っているけれど。



 澄人くんと城之内さんはそれからも頻繁に会っているようだった。

 私は相変わらずDroiDの曲を聞きまくって、ライブ映像なんかを見て推し活を充実させている。オタク仲間にも澄人くんとのまさかの遭遇は話していない。そもそも、皆、インターネット上の繋がりだし。変な奴って思われてしまいそうだから。

 リアルの友達はみんな他の推しがいる。私はそのことに今は感謝をしていた。だって気が緩んだ相手だと、興奮して何を言い出すか分からない。もし彼のことを誰かに言ってしまったら、あの夢の時間が無かったことになってしまいそうで怖かったのだ。


 私は今日も澄人くんの歌を聞く。本当にドンピシャの声をしている。唯一無二の愛おしい歌声だって何度でも思う。

 だけど私はDroiDの澄人くんが尊いのであって、城之内さんの孫である澄人くんのことはまるで別人のように見えていた。

 確かに他の人と比べたら垢抜けているし、スタイルも良いし、顔も可愛くてかっこいいのだけれど。でもきっと、そういうことじゃないんだろうな。


 DroiDに出会ったのは私が中学三年生の頃だった。

 まだ結成したばかりで彼らは歌というよりもどちらかというとダンスグループのイメージが強かった。しかしダンスに情熱と青春を捧げる彼らの姿は同世代とは思えないほどにキラキラと輝いて、信じられないほどに眩しかった。ぐうたらでどうしようもない私が直視するのも忍びないと思ったくらいだ。

 どんどんと彼らの魅力に落ちていく中で、度肝を抜かれたのは高校一年の冬だった。

 本格的に歌に力を入れた頃だ。その歌声に私は衝撃を受けたのだ。心の奥底まで響いてくるその繊細な歌声に、私は一気に引き込まれた。

 その声はどんな歌だろうと柔軟に変化して聞く人に彼らの言葉を届けてくれる。

 受験がうまくいかなかったり、友だちと喧嘩したり、どんなに辛い時だってあの歌声に救われてきたのだ。もうそれは数えきれないほど。息を吸うのと同じくらい当たり前に私に生命を与えてくれた。

 初めてライブに行ったときは、本当に彼らは実在するんだって証明できて心から感動したことを覚えている。ちょっとだけ泣いたのも思い出だ。

 その時からメンバーのことが愛しくて、尊くてたまらなかった。もう表現者としてとにかく大好きなのだ。

 だからまさか澄人くんがあんな近くにいたなんて今も信じられない。

 これまでは精々ライブでアリーナに行けた時が最短距離だったのに。

 やっぱりあれは夢だったのかも。

 明日は、また城之内さんのところへ掃除の手伝いに行く日だ。これは定期的に行っている恒例行事。

 ──澄人くんは、来るのだろうか。

 そんな期待をほんの一ミリでもしてしまう自分が少しだけ憎く感じた。



 「城之内さーん」


 私は城之内さんのことをいつものように呼ぶ。


「はーい」


 返事が聞こえる。でもこの声は城之内さんじゃない──ということは。


「杏莉さん、いらっしゃい」


 最近彼が髪を黒く染めたことはもちろん知っている。

 黒髪の青年がひょこっと顔を出してきた。やっぱり、澄人くんだ。


「あの、お掃除の手伝いに来ました」

「ありがとう。入って。手伝わせちゃって悪いね」

「いえ、掃除は好きなので。お邪魔します」


 私は慣れた手つきで靴を脱ぐ。初回の衝撃が凄すぎてもう澄人くんが目の前にいることに驚くこともなくなった。きっと麻痺しちゃってるんだ。だけど──。


「そっか、じゃあもしかしたら杏莉さんには残念なお知らせかもしれないんだけど──今日はもう掃除終わっちゃったんだ」


 そうやって彼が無邪気に笑ってくれると、どうしたって胸がいっぱいになる。


「杏莉ちゃん、いらっしゃい」

「こんにちは。あれ……城之内さん、どうしたの?」


 奥から出てきた城之内さんの足をよく見てみるとどうやら怪我をしているみたいだった。軽症っぽいけど、細い足にひしめく湿布が少し痛々しい。


「おじいちゃん張り切りすぎちゃったみたいで、ちょっとね……」

「えっ、大丈夫なんですか?」

「昨日ご近所さんと体操してたんだって。そうしたら、その時にひざを痛めたみたいで」

「……そうなんですか」


 澄人くんの説明に私は前のめりになった身体を下げる。

 城之内さんは私のおじいちゃんのようなものでもある。やっぱりその身に何かが起きちゃうのは嫌で、心配だ。


「今日は掃除した後におじいちゃんとドライブにでも行こうと思ってたんだけど──無理そうだから、先に掃除してたんだ」

「なるほど……だからもう終わっているのですね」


 ちなみに掃除というのはお風呂やトイレ掃除のこと。そういった、ちょっと体力が必要な掃除は私も積極的に手伝うようにしている。いつも張り切る私に対して城之内さんは遠慮しようとするけれど。でも私は、ピカピカに磨かれていくトイレや風呂場を見るのが好きだからちっとも遠慮なんかいらないのにって逆に申し訳なくなってしまう。

 そんな優しい城之内さんが私たち二人を交互に見てから澄人くんの腕を叩く。


「澄人、私のことはええよ。杏莉ちゃんと出掛けてきなさい」

「え?」


 私と澄人くんの声が揃った。初めての共同──いや、浮かれすぎた。


「ほら澄人、今日はええ天気やないか。家にこもってじじいの相手するだけなんて勿体ないやろう」

「で、でも城之内さん」


 何を言っているんだ。城之内さんにとっては可愛いお孫さんでしかないかもしれないけど、この澄人くんはそこそこ有名人なのだよ。こんな白昼堂々一緒になんて出掛けられないよ。それに私にもそんな資格なんてないし! 澄人くんと肩を並べるなんて!

 声には出さなくても、私は心の声で城之内さんに説教をした。どうかこの精一杯の眼力で伝わって欲しい。伝われ。伝わってくれ私の想い!

 ほら、澄人くんからも何か言って──


「杏莉さんがいいなら、俺はいいよ」

「は⁉」


 私の遠回りな念力説教も虚しく、澄人くんはそんなことをあっけらかんと言う。


「でも澄人くん、いいの? 城之内さんだって怪我してるんだし──」

「私のことは気にせんでええよ。大人しくしていれば大丈夫なんともないさかい」

「……そんな」


 澄人くんと二人で出かけるとか、そんなイベントが発生していいはずがない。


「杏莉さん?」


 だけどそんな風に小首を傾げられたら何も言い返せない。しかもなんか哀しそうな目をしている。いや違う。別に澄人くんと出掛けるのが嫌とか、そんなわけないでしょう!


「そうしたら、折角なので、い、行きましょうか……ね」


 なんてこった。

 私の笑顔は確実に引きつっていたことだろう。

 数秒前まで家を見失った子犬みたいな顔をしていた澄人くんはお構いなしににっこりと嬉しそうに笑うし。結局、そのまま私たちはドライブに出ることになってしまった。

 嘘でしょうって、心臓が救急搬送を求めているけれど。


 できる限りの冷静を装って澄人くんの車に乗ってみると途端にいい香りに襲われた。やっぱこういうところから違うんだよな。そう、彼と私は、違う世界の住人なんだ。

 助手席のシートベルトがカチッと音を立てると同時に私の中で何かがひび割れた気がした。

 何かは分からない。でも、少しだけ嫌な気持ちだった。


「じゃあ行こうか」

「はい」


 私がシートベルトを締めるのを見るなり澄人くんはハンドルを握った。なるほど勇ましい。彼の横顔を見た瞬間、さっきのもやもやはどこかへと消え失せてしまった。

 だから私も、思わず笑ってしまっていた。なんか心が軽くなった気がしたのだ。


「澄人くん、どうして城之内さんの提案を受けたんですか?」

「え?」

「私とドライブなんて」


 動き出した車の中で私は澄人くんに疑問をぶつけてみた。いまをときめく彼が、いくらなにもないとはいえ同年代の異性を車に乗せるなんてちょっと迂闊にも思えちゃうからだ。だから私はなんとなくからかいたくなってしまったのだろう。そんな失礼なことを訊いてしまうなんて。

 澄人くんは私の些細ないじわるなんかには多分気づいていない。ただ正直にその理由を答えてくれた。


「おじいちゃんの言うことはできるだけ叶えてあげたくてさ。ほら、久しぶりに会えてることだし」

「おじいちゃん想いなんですね」

「まぁ、ずっと悲しい思いさせちゃったから」

「──優しい」


 ぽつりと呟きが出ていく。だめだ、ここは茶の間じゃない。私の発する言葉は彼に直接届くのだ。気を引き締めろ。


「だから杏莉さんには本当に感謝してる」

「それは前にも……」

「何度言っても足りないくらい。ほんとありがと。おじいちゃんの相手に疲れちゃったらいつでも相談してくれていいからね」

「……うっ」


 どうしよう。尊さカウンターが破壊されそう。隣にいるのはDroiDの澄人くんではないけれど、七戸澄人だけれど!

 分かってはいる。だけどその姿も声もそのままなんだから。ふとした時にはどうしてもダメージを食らってしまう。


「どこに行きますか?」

「うーん、杏莉さんはどこ行きたい?」

「えっ……と」


 私は迷ってしまった。ここはいわば地元だから、今、特にここに行きたい! なんてところは思いつかない。


「澄人くんは、この辺まだ慣れてないですよね?」

「うん。そうだね。早く慣れたいけど」

「そうしたら、定番ですけど海と水族館行きましょう」

「水族館?」

「知っていますか? ここの水族館は有名なんですよ!」


 そうだ。ちょっと焦ったけど、私が澄人くんを案内する体でいいんだ。うん。それでいいんだ。


「どうでしょうか? ペンギンとか見ましょう!」

「ペンギン?」

「可愛いですよー!」


 まぁ、澄人くんの方が可愛いけどね。

 澄人くんは私がペンギンの真似をするとにこっと笑って同意してくれた。ステージ上のクールなイメージとは違ってこの澄人くんはよく笑ってくれる。というか、ずっと朗らかな表情だ。それが少し意外で私は思わずくすっと笑う。こうやって笑い合うと、遠いはずの相手にもすごく親しみを抱いてしまう。

 それは少し、切なくも感じてしまった。


「楽しみだね、ペンギン」

「はい!」


 澄人くんの安全運転で水族館にはすぐに着いた。平日なのもあって道は空いていたのだ。

 水族館の中に入るとこちらもやはり来館者は少なめだった。内心ほっとした。だって澄人くん、変装も何もしないんだもん。


「杏莉さん、ほら見て、エイだ!」


 澄人くんは存外楽しんでくれているようだ。無邪気な笑顔で水槽を指差している。どうやらエイはお気に入りらしい。知らなかった彼の一面に予期せず出会ってしまった。


「澄人くん、水族館とかあんまり来ないんですか?」

「うん。レッスンで忙しくてさ。小学校の遠足以来かも」

「そうですよね……」

「だからおじいちゃんのところに来るのは俺にとってはすごく息抜きになるんだよ。杏莉さんにも会えるし」

「……え?」

「あ、ほら杏莉さん、ペンギンだよ!」

「わ! 本当だ!」


 澄人くんはよちよちと歩くペンギンを嬉しそうに見つめる。

 私もつられてそちらを見るけれど、さっき言った言葉、聞き間違いかな?

 私の中で何かが跳ねたような気がした。

 本当はそのまま、気のせいだって思い込んでいたかった。



 水族館を満喫しているうちにすっかり夕暮れ時を迎えた。次は定番中の定番、海へと繰り出す。

 シーズンは過ぎているから散歩中の近所の人しかいなかった。しかも少し肌寒い。

 だけど私はこののどかな雰囲気が好きだった。賑やかな海もいいけれど、こんな海岸も大好きだ。むしろ私にはこっちが似合う。


「水族館、楽しかったですか?」

「うん。すごく楽しかった。なんだか童心に返れたみたいで」

「それは良かったです!」


 夕陽に照らされてオレンジに波打つ海は、いつも奏でている唄を歌っている。私はそんな波の唄もお気に入りだった。このどこまでも広がる大海原が、砂粒ほどにちっぽけな私だけに囁いてくれるように錯覚できるからだ。海を独り占めするのはとても贅沢なこと。今は二人占めだけど、それもまた、なんだか楽しい。


「綺麗な海。心が洗われていく気分になるね」

「そうでしょう!」


 彼の言葉に私は得意げに笑みを返す。宝物を褒められているような気分だから舞い上がってしまうのだ。


「いいところだよね、本当」


 澄人くんはそう言って目を細める。太陽が近寄ってきて眩しいのかな。彼の瞳を縁取る長い睫が夕陽に照らされて透き通っているように見えた。


「あのね、俺、今度ライブがあるんだ」

「……はい、知ってます」


 私は当然のように頷く。もちろん知っていたから。


「そこでね、俺、新曲を歌う予定で」

「……え?」


 まさかのネタばれ?

 澄人くん、それ情報漏洩じゃない?

 大丈夫? 私、ここにいてよかったのかな?

 居心地が悪くなって、ちょっとだけ心配になる。

 でも会話は続けないと。


「新曲ですか?」

「うん。作詞作曲した曲」

「すごい! そういうの初めてじゃないですか!?」


 思わず興奮してしまった。落ち着け、オタク。


「ソロ曲でね、挑戦してみたくなって」

「楽しみです! 澄人くんの歌声で次はどんな曲が聞けるのか、私いつもワクワクしてますから!」


 ライブに行くこと丸出しの言葉だ。まぁ、もうチケット買ってあるから、行くには変わりないんだけど。


「はは。ありがとう杏莉さん。俺、もう今から緊張しててさ──その曲を発表することを」

「澄人くんが?」

「初の試みだし、どんな反応があるのかなって。皆の期待に応えられてるのかなって不安で」


 澄人くんは遠くを見ている。彼の横顔に私は思わず見惚れてしまった。だって、澄人くん、なんだか寂しそうだったから。彼の愁いに私はすっかり吸い込まれてしまった。


「だけど今日、杏莉さんと水族館に行って童心を──初心を思い出した。俺は歌もダンスも好きで、俺の歌で誰かを笑顔にしたいんだって、そんな気持ちを。重圧に負けて見失うところだった。俺は人を笑顔にするために頑張るんだって、そうしたかったんだってことを思い出せたんだ」

「澄人くん……」

「そう思ったら、怖くなくなってきてさ。早く皆に聴いて欲しいって思えるようになった」


 澄人くんはとても嬉しそうに笑う。そのまま私のことを、その大きくて勇敢な瞳で捉える。


「だから杏莉さんにも早く聞いて欲しいなっ!」


 ……あれ?

 おかしいな。

 私、もしかしてどきどきしてる?

 彼の百点満点の笑顔を浴びたのに、心臓がぎゅうって苦しく感じた。いつもなら尊いって微笑ましくて堪らなくなるのに。

 こんなことは初めてだ。


「じゃあ、冷えちゃうからそろそろ帰ろうか?」


 澄人くんが立ち上がって手を伸ばしてくる。


「風邪、引いちゃったらよくないよ、杏莉さん」

「……はい」


 よく分からない感情に戸惑うまま、私はその手に引かれるようにして立ち上がった。

 今のは一体誰なんだろう。

 DrioDの澄人くん? それとも──?

 私はその日から、うまく眠る術を忘れてしまった。



 ライブの日が来た。

 今日の席は恵まれたことにアリーナだった。いつもなら絶対に狂喜乱舞している席だ。

 それなのに、どこか弾けきれない。解釈できないモヤモヤを抱えたまま、会場は開演時間を迎え暗転した。

 ライブが始まると観客たちは皆DroiDに熱狂していった。今日も四人は完璧に仕上がっている。素晴らしいと思う。当人でもなんでもないのに誇らしいとすら思えるほど。でもなんか、気持ちが天まで突き上がらない。

 ふと澄人くんに目を向ける。やはりそこにいる澄人くんはあの海で見た彼とは別人だ。だけど、何かがおかしい。私の中で何かが腑に落ちない。

 でもそんな客一個人の事情などに構うこともなくライブは順調に進行する。

 そのうちにソロの時間がやってきた。

 一人目、二人目のメンバーが歌い終わり、会場は歓声と惜しみ無い拍手に包まれる。


「皆さんこんばんは!」


 次にスポットライトを独占したのは澄人くんだ。

 私は、無意識のうちにぎゅっと唇を噛んでいた。


「今日は皆さんに新曲を聞いてもらいたくて……」

「キャーー!!」


 彼の声を皮切りに会場には歓声が流れ込む。私はその声に酔いそうになった。澄人くんはまた少しだけ話した──そして。


「どうか聴いてください」


 彼は、初めて作詞作曲したという曲を歌いだした。

 尊くて愛おしいその歌声。バラード調のその曲は彼の天性の声の魅力を最大限に引き出していた。

 皆、その美声に聞き入っている。一方の私はというと──。

 ──どきどきどきどき……心臓の音がうるさかった。

 うるさくてうるさくて。

 せっかくの彼の声も耳に届かないほどだった。

 まさかと、私も最初は認めたくはなかった。

 愛おしくてたまらない推したちに向かってそんな気持ちを抱きたくはなかった。

 かつてどこかで誰かの懸命な想いを揶揄する言葉を聞いたことがある。確かその言葉をガチ恋と言った。多くの人に軽くあしらわれてしまうから。傷つくのを恐れて、あまり大っぴらにはできないその気持ち。

 本音すら、素直に言うことを許されないあの気持ち。

 これまでそんな人たちは私には縁もない遠い世界の出来事だと思っていた。

 だけど──。


「嘘でしょ……!?」


 思わず漏れた私の声に両隣の人が眉をひそめる。

 それすらも気にならないほど、私は私に驚愕する。

 ──おかしいのは私だ。

 私は、七戸澄人が好きなんだ。



 澄人くんがソロを披露したライブが終わってからというもの、私はDroiDから少し距離を置いた。

 気持ちの整理が未だつかない。

 まさか、推しが尊すぎてどちらかというとガチ恋という概念が理解できずにいた私が、そうなるなんて。

 推しとして愛おしい気持ちとは全く違う。

 ただただ澄人くんが気になってたまらない。

 どきどきして止まらない。

 頭を抱えたまま、私はベッドの上に転がった。

 澄人くんにドン引きされたらどうしよう……。

 下手に知り合いになんてなりたくなかった。

 不安ばかりがベッドに沈んだ身体を覆い尽くす。

 城之内さん、やっぱりもっと早く教えてよ!


 数日後、そんな城之内さんの家がリフォームすることになったという話を聞いた。

 私は母に言われ、その片付けの手伝いをすることになった。なにも知らない母よ、娘は大変複雑です。

 私は重い足を引きずって城之内さんの家に行き、インターフォンを鳴らす。


「はいよ」


 応えてくれたのは城之内さんだ。良かった。ほっと胸を撫で下ろす。

 段ボールだらけになっている城之内さんの家で、私は不用品をゴミ袋に詰めることになった。城之内さんは物を大事にする人だ。しかし今回は思い切っていらないものをたくさん捨てている。城之内さんのリフォームにかける気合いを感じた。


「杏莉ちゃんごめんねぇ」

「いいえー!」


 申し訳なさそうにする城之内さんに私は笑顔を返す。なんだかんだ城之内さんのことは大好きだ。憎めるはずがない。そんな必要もない。

 ──と、私がせっせと作業をしている間に、二階からどたどたと誰かが下りてくる音がしてきた。


「じいちゃん!」


 嘘ッ!?  澄人くん!? いるなんて聞いてないですが!?

 聞き間違えようのないその声に私は分かりやすく動揺する。彼の姿を目にするのはライブ以来久しぶりだ。


「あ、杏莉さん、いらっしゃい。ごめんね、手伝ってもらっちゃって」


 重そうな壺を抱えた澄人くんの登場だ。


「あ、あわわわ」


 何を言ってるんだ、私は。いや何も言えていない。舌がもつれてしまった。


「じいちゃん、この壺いるの?」

「ああ、それは──」


 澄人くんの不意打ちの笑顔に私はすっかり舞い上がりそうになっている。久しぶりに見たけれど、やっぱり彼は素敵なのだ。それはしょうがないじゃない。


「杏莉さん」


 いつの間にか話を終えた澄人くんが私の近くまで来ていた。


「はっ!」

「ん? 大丈夫?」

「は、はいっ!」


 私の上ずった奇妙な声にも澄人くんは穏やかに微笑んでくれる。なんてことでしょう。それだけでこんなにも心が躍るなんて。モヤモヤしていた気持ちが嘘みたいに消えて晴れ渡っていきそうな勢いだ。


「大変でしょ。手伝うよ」

「ありがとう、ございます……」

「杏莉さん、前から思ってたけど、敬語じゃなくていいからね」

「え?」

「敬語も可愛くて好きだけど。なんかさみしいから」


 なんてことを言うんだ。勘違いしたらどうするつもりなの!? 澄人くん!


「えっと……うん、わかった、えっと──澄人くん」

「はーい」


 澄人くんは小さく手を挙げて返事をしてくれた。その仕草は自分の魅力を分かってやってるな?


「さっき、じいちゃんが俺に買ってくれてたゲームが出てきたんだ。終わったら一緒にやらない?」

「……え? いいの?」

「勿論」


 澄人くんは軍手をつけて引き続き不用品を分別している。

 その姿を見ていると、やっぱりどきどきどきどきして苦しい。でも、同時に視界が明るくなって、心が温かくもなる。

 もうきっと、その瞳から私は戻ることができないんだ。


「……澄人くん」

「ん? どうかした?」

「あのね…………ありがとう」


 澄人くんは首を傾げている。それはそうだよね。

 これは、ただ私が言いたかっただけなのだ。

 私に歌で希望を与えてくれた。あんなに夢中になれるなんて、まさに夢を見ているみたいだった。

 だけど、その幻想みたいだったDroiDの澄人くんも、目の前にいる澄人くんも、どっちも七戸澄人くんだ。

 きっかけなんてもうわからない。けれど確信していることがある。もう腹を括って認めよう。私も自分に素直になる時だ。


 七戸澄人くん。

 私は、あなたに恋をしています。



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