間かで溟くて冽たくて
小雨そぼ降る冽たい夜のことであった。
散歩中、道端で表紙に『 の 辶し』と書かれた絵本を拾った隠人参は、速やかに最寄りの交番に届けた。
交番には2人の警官がいた。
1人は「こんな汚い絵本、わざわざ届けなくてもいいのに」と言った。
もう1人は「山を越え谷を越え、よくぞここまで送り届けてくれた。そなたこそ正しき者。その勇姿、稲妻の如し。俺の前世は納豆のおひたし」と言った。
寸時を惜しんだ隠人参は2人の頬を2秒だけ撫で、即座に立ち去った。
交番から些し離れただけにもかかわらず、街は恐ろしく間かであった。
そんな折、ごうごうと動物のなく声が聞こえた。この街の長者である湯晴暴の家の方からである。
『湯晴暴は黒いキリンを飼っているから、やつの屋敷の前を通る時は決して息をしてはいけないよ』
祖母の言葉が隠人参の脳裏に浮かんだ。
「隠人参様!」
湯晴暴邸の曲がり角に差し掛かったところで、見知らぬ声に足を止めた。
「ぬ、何奴!」
隠人参は腰の刀に手をかけ、声の主を睨んでみせた。
「拙者、煮粉血芋と申しまして、乱人参様の嘗ての家来にございます」
「お祖母様の家来だと? お前のことなど見たことも聞いたこともない!」
刀を握る手に力を込める隠人参。
「湯晴暴は黒いキリンを飼っているから⋯⋯」
「そ、それはお祖母様の!」
「いかにも、乱人参様より賜った御鳳聲にございます」
「して、なんの用じゃ」
隠人参は刀から手を離し、己の股座に棲む毛象の鼻先をつまんだ。
「この続きをあなた様にお伝えしたく⋯⋯」
「いや、知っておる」
「えっ!? ではこちらのお話を。あの、実はですね⋯⋯その⋯⋯」
「何をもったいぶっておる、はやく申せ! 手っ取り早く、簡潔に!」
隠人参の膀胱が悲鳴をあげ始めた。
「目を閉じて心の中で『スルメ!』と心の中の喉から血が出る声量で10回叫ぶ、というものなのですが」
「⋯⋯それを今やれと申すのか?」
「いえ、この言葉を乱人参様へお伝えいただきたいのです」
「無理だ! そんな余裕はない! さらばだ!」
隠人参はめいっぱい息を吸い込み、湯晴暴邸の前を駆け抜けた。
「ちっ、なんなんだよアイツ。ボンボンの眉なしおばけのくせして調子乗りやがって。いつかひでぇ目に遭わせてやるかんな」
小さくなりゆく隠人参の背中を見つめながら煮粉血芋が呟いた。
そのようなことを隠人参が知る由もなく、ただ雨中に燦然と輝く珍かな朗月の下、肩を濡らしながら溟い路を歩んでいた。
「あなたおかえり〜! ご飯にする? お風呂にする? それともご飯にする?」
「そこをどきなさい」
「え〜?」
「解らないか、先っちょをつまんでいるのだ」
隠人参には時間がなかった。刻一刻と死が近づいているのだ。
「ホントだっ! てことはもしかして私が欲しいってこと⋯⋯?」
「莫迦をいえ、早くそこをどけ!」
「さっきからどけどけって、自分の妻になんでそんな言い方するのよ! もう⋯⋯うぅ、うわぁぁ〜ん!」
隠人参の鬼気迫る表情に蜂蜜紙袋は失禁してしまった。
「どういうことだよ!」ジャー⋯⋯
理解不能な状況に、彼もまた粗相をしてしまった。
漸漸と小便を垂れ流し、とば口に黄金色の小さな澱みを拵えた頃、蜂蜜紙袋が口を開いた。
「⋯⋯強制的にお風呂になったわね」
その声は甚も間かで、溟く、そして冽たかった。
「やだし! オレぜってー風呂入らんし!」
隠人参は人の言うとおりにすることが大嫌いであったため、妻の言葉も聞かず水溜まりを抜け出し、食卓へと向かった。
夫の行動を見て、妻も仕方なく後に続いた。
台所には、暗い顔をした下半身裸の男女の姿があった。
隠人参は考えていた。
(心の中でスルメと10回叫べと言っていたな。そしてそれをお祖母様に伝えろと⋯⋯何かの呪いだろうか。暇だしやってみるか)
暇つぶしも兼ねて毒味を決行した。
「あなた」
「⋯⋯⋯⋯」
まだ4回なのだ。隠人参は口をきけぬ。
「あなた」
「⋯⋯⋯⋯」
まだ7回なのだ。隠人参は口をきけぬ。
「バードは日本語で?」
「スズメ!」
「ブッブー! 鳥でした!」
「これなんて奇跡?」
「うふふ」
「ははは」
できた妻とは言い難いが、気の合う妻ではあった。隠人参は再婚した甲斐があったと改めて思ったのであった。
それに、彼女の作る飯は旨い。
いつもご飯を茶碗によそったものと皿に盛ったものを両方出すのだが、米に対してライスが旨すぎるのだ。
ゆえに、カーネシスとの結婚は上手くいくはずがなかった。
隠人参は飯を済ませ、小水に塗れた下半身を露出したままエレベーターに乗り込んだ。行き先は寝室のある2階である。
夫が寝静まったのを確認した蜂蜜紙袋は、旧くから愛用している岡美という鏡を取り出した。
「岡美よ岡美、岡美たそ。世界で1番美しいのはだあれ?」
『ピ⋯⋯ピ⋯⋯』
「(っ ॑꒳ ॑c)ワクワク」
『ピピピピピピピピピピ』
「(っ ॑꒳ ॑c)テカテカ」
『ピピピピ⋯⋯ピ⋯⋯ピ⋯⋯』
「(((((((((((((o(*゜▽゜*)o)))))))))))))」
『プレイヤートゥエンティエーイト!』
「(・д・)チッ」
『すいませんの島』
「ならよい」
友との会話を楽しむ夜の時間。これが彼女にとっての最高のひとときなのである。
「んん〜〜〜っ!」
『どうした? 美味しかったの?』
「ただの伸びだよ」
他愛もない会話でこそあれ、彼女の心は癒される。
「そういえば今日、駅の近くでめっちゃ走ってる人見たんだけど、久々に見たよ、人が全力疾走してるとこ」
『子どもの頃はみんな走り回ってたもんねぇ。かけっことかねぇ』
「そうそう、鬼ごっことか、かくれんぼとか」
『かくれんぼは走んねーだろ』
「そーじゃん! キャッハッハッハ!」
『ギャルかよ』
「おうよ! あたしはギャル! 我が名は牙狼!」
『?』
「んでさぁ〜」
『120分が経過しましたのでコースを終了します。またのご利用をお待ちしております』
「⋯⋯⋯⋯」
蜂蜜紙袋は木炭で歯を磨き、下半身を濡らしたままエレベーターに乗り込んだ。
ここには1階のような騒がしさはなく、夫の眠る寝室は、僅かに鼻をつく安母尼亞の臭いとともに静謐を湛えていた。