010 海咲マリンの釣り
今日は授業開始日ということで、6限までびっちり埋まっているわけではなく、慣らしということで5限で解散となった。
「結衣さん、車に乗って帰りましょう!」
「いや……今日はお婆ちゃんの家に行くことになってるんだ。ごめんね」
「そ、そうですか……」
わかりやすくしょんぼりするエレナ。もしエレナに犬耳が生えていたらきっと折り畳まれていたことだろう。
少しだけ心がキュとなりながら、私はお婆ちゃんの家に向かって歩き始めた。
お婆ちゃんの家は海沿いにあり、耳をすませば波の音が聞こえてくる。
「ごめんねぇ。お勉強に忙しいだろうに様子を見にきてもらって」
「いいよお婆ちゃん。どう? ちゃんと食べてる? 寝れてる?」
「うんうん、心配することはないよ」
もちろんお婆ちゃんの家も貧乏なので、生活の質は高いわけではない。
かなり古い布団を騙し騙し使っているし、コンロも錆びついたままだ。それでもお婆ちゃんの家というのは居心地がいいものだった。
「お友達はできたかい?」
「う〜ん……まぁできたって言える……かも?」
正直まだわからない。入学2日目だし、これから天月さんやエレナの絡む人が変われば私は置いていかれる可能性だってある。
「結衣ちゃんのお友達、見てみたいねぇ」
「……その願いは叶わせられないかなぁ」
こんなボロい家に、お嬢様を連れてくるなんて無理だ。
私はなんだかバツが悪くなって、もう帰ることにした。
早く帰り過ぎるとお母さんが心配するから海でも見ていこうと思いつき、一面の濁った青色を瞼に焼きつけた。
「昔はこんな景色でめっちゃテンション上げてたなぁ」
海を見ると少しだけセンチメンタルな気分になる。私だけだろうか?
「よ〜っし! 爆釣だあ!」
そんな気分を吹き飛ばす、大きな声が耳をつんざいた。
何事かと思えば、どうやら釣り人が魚を釣り上げたらしい。近くにいたのに、存在に気が付けなかった。それだけ心が離れ、意識が散漫だったのだろうか。
よく見たら釣った魚はクロダイのようだ。刺身がめっちゃ美味いんだよなぁ。
……と思ったら、釣り人は釣ったクロダイをリリースしてしまった。
「あっ! もったいない……」
思わず大きな声を出してしまい、ハッとして口を手で塞いだ。
しかし出してしまった声は戻ってはこない。
たった今クロダイを釣った釣り人は完全に私の方を向いてしまった。
……あれ? サンバイザーでわからなかったけどこの釣り人ってもしかして……
「あれ? 慎見結衣さんだよね? うわー偶然! なんでここにいるの?」
やはり釣り人は出席番号2番の海咲マリンさんだった。
日焼けした肌と、肩までで切り揃えられた水色の髪が海の乱反射と相まってキラキラと輝いている。
ブランド物のブレザーは雑に堤防に置かれており、海風で飛ばされないか心配になるほどには雑だ。
そんなことを考えている間にも海咲さんはぐいぐいと距離を詰めてくる。
「慎見さん、海好きなの?」
「あー……お婆ちゃんの家が近くて。たまたま来たんだ」
「へーそうなんだ。偶然ってやつだね。それでさっき叫んでたよね? 何を叫んでたの?」
「あっ……いや、クロダイをリリースしていたから、『もったいない』って。美味しいお魚だからさ」
私がそういうと、海咲さんは少しだけ意外なような顔をした。
「慎見さんはクロダイの食べ方、知ってる感じ?」
「え? うん。一応料理もできるけど……」
「じゃあさ、今からまた釣るから、そしたら料理して食べさせてよ。あたしって釣ってばっかりで食べたことなかったから気になってたんだよね」
「え、ええっ!?」
なんだこの展開……! 急すぎるぞ!
でもまぁ海咲さんが私に惚れた「お嬢さま」かどうかを探る絶好の機会と言えるか。
「わかった。じゃあおっきいの釣って欲しいかな」
「うん! 任せてよ」
へへっと笑う彼女は、ほんの少しだけ頼りがいのあるカッコいい女性に映った。