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出番だよ

地面に臥した多田乃は朧気に遠くから聞こえる救急車のサイレンと目撃者たちの悲鳴を耳にした。視界はぼやけ、体を動かそうとしても全く反応しない。周りの人間たちが忙しなく事態の収拾を図ろうと右往左往している。


多田乃は人々の様子をぼんやりと他人事のように眺めていた。次第に目がかすみだし、音も遠くなっていく。体の感覚が鈍くなり、急激に体温が奪われていくのが分かった。


僕は死ぬ。多田乃は冷静に今の状況を理解した。市庁舎から身を投げた時点で分かっていたことだ。だが、いざその時となると認めたくないものである。後悔はあるし、やり残したこともある。でも今の多田乃にはそんなことはどうでも良かった。ようやく苦痛から解放されるのだ。後は野となれ山となれ、だ。


多田乃がゆっくりとその時を待っていると、視界の向こうから何が此方に近づいてくるのが分かった。人影ではない、何か小動物のようである。周りの人間や風景はぼんやりとして判別が付きにくくなって来ているのに対して、近づいてくる小動物は寧ろハッキリと見えていた。やがて小動物の正体は一匹の黒猫であることが判明した。黒猫は間違いなく多田乃に向かっていた。


黒猫は多田乃の眼前に迫ると、多田乃の表情をマジマジと眺めた。多田乃は動けない為、黒猫の様子をじっと観察した。何かの幻か?多田乃は薄れ行く意識の中で想像した。



「迎えに来たよ」



黒猫が多田乃にハッキリと呟いた。喋る猫…つまりは死神というやつか。しかし、まさか死神の正体が黒猫とは…多田乃は心の中で苦笑した。黒猫は多田乃の額に鼻を付けると少し離れて座った。



「大丈夫。体を動かしてごらん」



黒猫はニッコリと優しく微笑んだ。多田乃は半信半疑でゆっくりと瞬きを試みた。すると瞼が動かせるのが確認できた。驚いた多田乃は先程まで冷えきっていた体が熱くなり、感覚が徐々に戻っているのを実感した。だが、身を投げたときの痛みがないことや自分の周りの人間や風景が霞んでいるのは戻らない。多田乃は意を決して立ち上がる。



「不思議だな…」


「何故?」


「死んだはずだ。なのに今まで通り動ける。」


「いや君は死んだよ。だから迎えに来た」


「やはりそうか…」



多田乃は少しだけがっかりした。確かによく考えたらビルから落ちて助かるわけがない。気を取り直して黒猫に尋ねた。



「で、僕は天国に行けるのか?それとも…自殺だから地獄?」


「いや、そのどちらでもない」


「えっ…どういうことだ…?」


「出番だよ、多田乃君。まだ死んでる場合じゃない」



そういうと黒猫は背中から巨大な羽を広げて多田乃ごと包み込んだ。驚く多田乃だが、突然視界が真っ白になり、再び意識が遠退いた。

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