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第7章 焦げたトースト

 アンリ・ペネクスに与えられた自室には、イエス・キリストの遺骸を包んでいたとされる聖骸布(せいがいふ)のレプリカがある。それはあくまでアンリにとってシンボリックなもので、何かの力が宿っているとは思っていなかった。ただ布に、模様をプリントしただけのものにすぎない。


 しかし、アンリがその聖骸布のレプリカを床に敷き、身を横たえると、そのとき十字架にかけられたイエス・キリストの傷を追体験できるような気がした。


 キリストは刑の後、その死を確かめるため、右脇腹を槍で突かれたと伝えられている。そのとき彼の身体の中には、肋骨に受けた傷が原因で肋膜腔に血の混じる水がたまっていたと聞く。聖骸布にはそれらが流れ出たことが、その跡としてくっきり残っていた。そのときすでにキリストは絶命していたかもしれないが、アンリは、今まさに右脇腹を槍で突き刺され、その箇所から漏れ出た、血の混じる腹水が流れ出る感覚を味わっていた。時空を超え、キリストと感覚を共有しているかのような気がした。


 マクマタウンで部屋に飾られた聖骸布を仲間たちに見られたときには、


「お前は、完全に焦げたトーストだ」と言われた。


 この南極で越冬する人間は、少なからずストレスを受け、言動がおかしくなることがある。それを心理学者は「越冬症候群」と呼んだが、そこにいる南極人(ポーリーズ)は、「トーストになる」と喩えた。


 冬が進むと甲状腺で作られる特定のホルモンが欠如しはじめるためとも言われる。また、外へ出なくても体温が一、二度下がる現象がある。おそらく日照不足か、睡眠パターンの乱れ、あるいは寒さによるものだ。小さなグループに押し込まれて、そこから出られない心理的な影響もあるのかもしれない。


 ただ、アメリカ国立科学財団は、南極で越冬を予定する者全員に、心理評価(サイキ・エヴァル)とよばれる心理テストを課している。ここに居残れたということは、そのテストを通過したからだ、と言う者もいる。


「自分はけっして焦げたトーストじゃない」


 アンリは自分に言い聞かせるようにつぶやいた。むしろ、自分は神から特別に選ばれて、ここにいる。


 11月には、南極に越冬した以外の人間が大量に押し寄せてくる。南極開きは、ある種、越冬者たちに楽しみをもたらすこともあるし、ストレスを与えることもあった。


 これっきりで南極を去る人間は、温暖な地域で過ごすバカンスの計画を立て、一方でそのまま南極に居座り続ける人間は、南極外からやってくる人間の受け入れ準備や、補給作業に駆り出された。いわば、長い期間、一定だった空間が乱される。


 そして、このドームふじに、早くも、日本から新しい研究者が一人やってくるという。


 カタヤマの古くからの知り合いのようだが、アンリはこの招かれざる客に対して、強いストレスと不安を感じていた。カタヤマは、ここで発見された「あの品」を、その研究者に託し、南極外へ持ち出させるのではないか、と危惧していた。


 あれは、神が創りたもうた神聖なもので、この聖骸布の本物以上に価値のあるものだ。ここから持ち出す行為は、神への冒涜に他ならない。


 アンリは、神という存在にも近しい、白いベールに包まれる経験があってから、自分はこのドームふじで起こる出来事を注視してきた。ここは神聖な場所なのだ。ある一定のラインまでは、人類の研究として、その片鱗を触ることは許されるが、その境界線を越えたり、ましてや神の所有物をここから持ち出したりするなどは言語道断だ。


「来訪者から、あの神聖物を守らなければならない」


 アンリは、棚の奥にしまい込んでいた氷斧(スノーアックス)を取り出すと、切れ味や破損個所がないかを入念にチェックをし始めた。

「第8章 神のイタズラ」へ続きます。

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