第5章 サウス・ポール
結局、大河内有理の乗った大型輸送機は、ニュージーランドへ二度も引き返す羽目になった。
「二回じゃ、まだまだ序の口だよ」バズは楽しそうに話した。
過去に十二回の飛行を試みて、引き返した経験があるそうだ。さぞや基地の連中も待ちわびているだろうと、そのとき労いの交信をすれば、彼らは「輸送機が到着するまで、ありったけの食料を使って、らんちき騒ぎのパーティーを始めてるよ!」と返してきたそうだ。
「そのときは意地悪して、行くのを止めようかと思ったね」とバズは楽しげに言った。
そして今日三回目の飛行は、午後三時を回ろうかという時間になっていた。激しい風雪は止み、滑走路も充分に地ならし済みだとの連絡が入った。
「オペレーションセンターへ。こちらフーファイター。人員は二名。異常なし」
「了解。サウス・ポールへようこそ」
そこで有理は、南極に来たことを実感した。
高周波無線には雑音がつきもので、ときに宇宙空間を飛び交う宇宙線が飛び込んでくると、バリバリと耳障りな音がする。
「この音を、パイロットは、宇宙からラズベリーが飛んでくるって言うんだ」
バズはそう言って、海辺の波のような音は、木星の磁気嵐で、高いピッチの口笛のような音は、隕石が立てる音だと、説明した。
「まるで宇宙のオーケストラね」
「いいね! ロマンチックな表現だ。今度はそれを僕が使わせてもらうよ」
バズは今にも操縦桿から手を離さんばかりでハラハラした。
「これから行くマクマード基地は、ロス棚氷に覆われたロス海に突き出す半島に建てられた基地だ。言ってみれば南極の玄関口だ。あの南極点到達を競い合ったアムンゼンと、スコット隊も、この近くをスタート地点にしたんだよ」
「まさに南極の歴史の始まりそのものの場所ね」
有理がそう言えば、バズは嬉しそうにして言った。
「僕たちの間じゃ、親しみを込めて『マクマタウン』って呼んでいるよ。そこはアメリカ研究本部もあって、その支部は南極大陸のあちこちににネットワークを張り巡らしている。規模からいっても世界最大級だろうね」
バズは得意げに言った。
「何人くらいのスタッフがいるの?」
「夏季には、2,000人以上のスタッフが働いている」
「2,000人ですって?」
「でも、冬季になると、完全に陸の孤島として閉ざされる。そのときは200人くらいに減るけどね」
それでも充分に大きな基地だろう。
そしてバズの巧みな操縦で、ようやくマクマード基地に軟着陸した。降りてみて驚いた。てっきり雪や氷に覆われているかと思えば、細かい砂埃が舞うような、剥き出しの岩盤にある基地だった。
「みんな最初は面食らうよ。南極らしくないからね」バズは言った。
「まるで西部劇に出てくる街のよう」
「みんな、そう言うよ」
バズは笑って言った。
「じゃあ、もっとも南極らしい、南極にお連れしましょうか」
ニュージーランドからの積み荷を降ろしは終わり、燃料も補給完了とのことだった。
有理は、マクマタウンにわずか三十分ほどの滞在で去ることとなった。
今度も大型輸送機で、そこからさらにまた二時間かけ、南極点近くのアムンゼン・スコット基地に向かった。
昭和基地はマクマードと、まったく正反対の位置にあり、いったんはサウス・ポール近くの基地を経由して、また別の機に乗り換える必要があるという。
マクマタウンから、長い長い飛行の後、ようやく大河内有理は生まれて初めて南極点のある場所に降り立った。
次の輸送機が準備されるまでアムンゼン・スコット基地内で待つことになったが、驚いたのは、基地内は適温に保たれ、完全に自足で歩け、食堂、ランドリー、売店なども備わっていたことだ。もはや観光地のホテルと変わりがない。
バズが、次の輸送機の準備に追われている間、基地で働く、いかにも軍隊経験者と思わせるような筋骨隆々の、ロニー・マッカーターという男性が案内役を買って出てくれた。ずいぶんとくたびれた、大きくて頑丈なカーハート社製のオーバーオールと、とくに厚手の緑色のパーカーが似合っていた。いかにも基地内のベテランといった風体だ。
「南極は長いんですか?」有理が聞けば、
「いや、越冬は今回初めてだ」
「本当に?」
くたびれた服装のことに気づいたのだろう。彼は言った。
「マイナス70度で生活していると、あっという間に繊維がボロボロになるのさ。ところで、次の飛行機の準備が終わるまで南極点の見学でもいかがですか?」
「ええ。喜んで」
そうして、マイナス三十度の世界を案内された。ロニーは、
「日本の美女と、一度南極デートをしてみたかった」と軽口を叩いたが、手袋をはめるとき、有理の左薬指の指輪を見て「おっと、これは失礼しました。ミセス」と詫びた。
「ノープロブレム」
彼の紳士的な態度に何も気にはならなかったが、少しだけ胸の傷が痛むのを感じたけれど。
基地からすぐの場所に南極点があった。
有理は、南極点にはてっきり、簡素なポールだけ立っているものかと思っていたら、よく磨かれた金属性の球体を載せた、派手な縞模様のポールが立ち、それを取り囲むように南極条約に調印した国々の色鮮やかな国旗が取り囲んでいた。完全に観光地化された景色に、有理は逆に興ざめした。
「でもホンモノの南極点はあっちだよ」
ロニーが指差したところには、小さな真鍮キャップをかぶせた簡素なポールがあった。
こちらは毎年元旦に再計測が行われ、正確な南極点に刺し直すのだそうだ。
「地学上、南極点は移動しないけど、この上の氷床が年間10メートルほど滑って移動するからね」
こうして南極点見学をしている内に、ドームふじまでいく小型飛行機の準備が整ったようだ。ツイン・オッターと呼ばれる鮮やかな朱色で塗られた双発プロペラ機で、真新しい感じがしたが、今まで乗ってきた重厚感たっぷりのハーキュリーズ輸送機と比べれば、小さくて頼りなく見えた。
バズは次に操れる機種が変わることに喜びを感じているかのように言った。
「この飛行機は、未整備の短い滑走路でも離着陸が可能なんだよ。この南極では、おあつらえ向きの機体だ」
この機にも梱包貨物が満載で、人員はまたわずかにパイロットと、大河内有理の二人のみという狭さだった。そのため、またも副操縦席に座らされることになった。
ドームふじ基地は、海岸線に建てられた昭和基地より、内陸へ1,000キロメートルほど離れた、標高3,810メートルに位置する日本では2番目の基地だ。
この基地では、氷床深層掘削計画が進められていて、氷床を深さ3,000メートル以上掘削して、氷床コアを取り出している。その氷の柱には、過去の地球の気候変動など示す、いくつもの「証拠」が詰め込まれていると期待されていた。
だからこそ、機械工学の専門家である有理が招かれ、わざわざ何十時間もかけ、はるばるそこへ行く意味が本当にあるのだろうかと、いまだに納得できずにいた。
「第6章 捕捉」へ続きます。