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第4章 乱数

 それはある日の日曜日だった。桐生がいつものように普段着でマンションを出て、ジムに通い、昼過ぎ、自宅へ戻ってきとき、不穏な空気を察知した。


 待ち伏せか————


 少なくともこの辺りでは見かけたことのない連中がいた。マンション玄関前に一人。警官ではない。どちらかといえば、その体格から軍隊経験者に見えた。そして、その先に黒い車が二台駐車されており、そこにも黒服姿の男性が二名。


 桐生はすぐにの元来た道を戻った。桐生は都内に数カ所、隠れられる場所————セーフハウスを借りていた。今までやってきた仕事は、曲がりなりににも不義理なことなどはしていないが、すべてが人道的だったとは言えない。狙われる可能性は十二分にある。


 まずは電車で五駅ほど先にある、団地に向かった。しかし、そこにも似たような黒スーツの男がいて、車が一台停まっていた。


 桐生の居場所や隠れ家がすべて割れるということは絶対にないはずだ。もちろん、過去の自分の行動すべてが尾行され、監視されていたのなら別だが、その可能性は無いと言い切れる。


 だが、実際はどうか。隠れ家が特定され、待ち伏せに遭っている。


 桐生は、その前提を自ら崩すことにした。ひとつの考えに囚われることは、敵陣のど真ん中、銃弾が飛び交う戦場では、命取りになる。直感に頼ることもママある。


 桐生は、彼らに自分の過去のすべての行動を知られていて、かつ、自分の行動が予測されている、と仮定した。


 今度はタクシーをつかまえて、適当な所で降ろしてもらい、近くにあった地下鉄に乗った。上野からほど近い千駄木という駅で降りた。これも特に意味はなく、ただ適当に、目的もなく降りただけだ。


 駅近くの本屋に入って、地元のガイド本を買って、しばらく歩いたところの古びた喫茶店に入った。


 2020年代頃までは、電子化がもてはやされ、新聞も一時、タブレット端末や電子ペーパーなる、デバイスへのデジタル配信に傾きかけた。だが、2024年に起きた事件をキッカケとして、再び「紙」という媒体が脚光を浴びた。


 2024年5月23日————


 世界中でインターネットが大規模障害を起こし、長期にわたって麻痺した。


 2010年頃から指数関数的に増え始めたスマートフォンやタブレット端末の台数は、このとき世界人口の二倍にも膨れ上がり、それらが生み出すデータコンテンツの重みに、ついにネットが耐えきれなくなり、押しつぶされた。


 その前々から兆候はあったようだ。送ったはずの画像データが壊れて届く、動画コンテンツが途切れるなどだ。もちろん先進諸国は、手をこまねいていたわけではない。伝送量を上げるために、データの圧縮技術の開発を行い、光ファイバーケーブルを何千本と地下や海底へと埋設し、宇宙に何十基ものインターネット衛星を打ち上げた。だが、それは「運命の日」を先延ばしにするだけだった。ネットインフラは有限であり、いつかは底が尽きる。


 それがその日だったというだけで。


 インターネットの大規模障害は経済にも大打撃を与えた。あのアメリカがデフォルトに陥り、EUはもちろん、各先進諸国、ついには日本経済も傾けた。最悪のシナリオである経済破綻はどうにか免れたものの、国債はさらに膨れ上がり、失業率、景気はかつてないほどに冷え込んだ。


 戦争も起きた。


 中国がついに軍事行動を起こしたのだ。日本の尖閣諸島への急襲、そしてインドとパキスタンとの間でも火種となっていた、アルナーチャル・プラデーシュ州、アクサイチンの領土への侵攻も行った。その背景には、インドの人口爆発や経済発展という背景もあり、中国にとっては十分な動機になった。


 今も中国、インドとパキスタンとの間で、小競り合いは続いているが、情勢はインド側が有利となっていた。


 桐生游輔が、傭兵として参加した戦争も、そのインド軍でのアクサイチン侵攻が最後となった。


 地元のガイドブックあるページには「根津神社」を観光スポットの一つに挙げていた。「1900年ほど前に日本武尊が創祀したとされる」と書かれていた。


「ホントかよ」と桐生が訝しがった。


 説明を見れば、現在の社殿は宝永三年(1706年)に創建されたとあった。それなりに古いものだった。もちろん、国の重要文化財だ。だが、桐生には、その神社へ行くに気にもなれなかった。古い社殿を見たところで、どのような感慨が湧いてくるというのか。


 インターネットなどの高速回線でのデータのやり取りは、人間の思考をも変えてしまう。記憶の一部だけ残して他のすべてをクラウドに預けてしまうのはもちろんのこと、文化的、民族的、あるいは宗教的な価値観が共有され、それらは互いに近づいていく。そこで何が起こるかと思えば、愛国心やその国に根付いている文化的価値観、信仰心を薄めていくことだけだろう。桐生も、そんなクールな考え方になった若者の一人かもしれなかった。


 世界的なネットワーク障害の後、W3C————ワールド・ワイド・ウェブ・コンソーシアムは、早急にこの問題の対処にあたった。W3Cを成すアメリカ、MIT ————マサチューセッツ工科大学を中心に、「ウェブの再構築(リボーン)」というテーマを掲げ、各国が協力し合って、ウェブの新たな仕組みをいくつも試案した。


 まず、スマートフォンやタブレット端末からの、直接的なインターネット利用。すなわちリープ・フロッギングと呼ばれるデータ転送に、かなりの制限がつけられるようになった。簡単にいえば、送受信速度が著しく制限された。


 「ウェブ」という存在を無視し、「ネット」サービスをしていた企業は業態の変化を迫られた。また、ウェブを知らなかったネット・ネイティブ世代は、ウェブ・ブラウザーというアプリによって「ページを閲覧する」という、いささか古くさいやり方に順応しなければならなかった。


 それでも、ビジネスにおいて、プライベートにおいても、クラウドベースの動画や巨大なファイルサイズのデータ転送は必要不可欠だった。その場合は、DPI ————ディープ・パケット・インスペクションと呼ばれるメタタグフィルターを通すというルールが導入された。


 いわゆるデータすべてにタグがつけられ、インターネットに載せられる前に、その優先度決められ、転送速度が決められたのだ。


 もちろんデータの暗号化も許されたが、その場合も、厳しい転送速度の低下と引き替えとなった。コンソーシアムが、「データの透明性」「インターネットにおける不平等の改善」を掲げた結果とも言える。


 これにより、インターネットはデータの重みに耐えうるだけの転送が可能になり、完全復旧を遂げた。この措置には、自由なインターネットに検閲が入ったという意見や、逆にむしろ自由が保障された、という主張があり、その是非はいまも分かれたままだ。


 こうした中で、実際の紙になった本や雑誌の復権も起こったというわけだ。


 桐生は、そのガイドブックで紹介されていた地元の老舗旅館へと向かった。


 行く途中でオシャレな雑貨屋を見つけたので、古めかしいバックパックを買った。その中にはディスプレイのために新聞紙が詰め込まれていたが、形が良いので、そのまま背負っていくと店員に伝えた。彼女は、客がその商品を背負うことがファッションの一部と思っている、と解釈したのだろう。笑顔で商品を渡してくれた。


「テープだけでもとめますか?」


 断ろうかと思ったが、明るい黄色でデザインされた店名の入ったテープで、そういえば店内の商品に初めから貼ってあるのもあった。これもオシャレの一部として使っているのかもしれない。


「目立つところに」


 そう言うと、店員は嬉しそうに、バックパックの右側に貼ってくれた。


 旅館に着いたとき、いかにもバックパッカーな格好の若者を、年老いた着物姿の女将が出迎えた。この旅館が紹介されているガイド本を手にしていたのも好印象だったのだろう。


 少し高台で緑に囲まれた、一番奥にある眺めの良い部屋に通された。下には小さな池に、色鮮やかな鯉が泳ぐ園庭が見えた。


「これ、私の実家の愛媛から今日、送られてきたばかりなの。お裾分けね」


 彼女はそう言って、籐かごにミカン一山を盛り、こたつの上に置いて行った。


「ありがとうございます」


 桐生は好青年を演じ、感じ良くお礼を言った。


 女将が出ていった後、桐生はスマートフォンに見える小さな箱を分解すると、圧力がかかると高圧電流が流れるワイアスプリングを慎重に取り出して、こたつ正面の座布団下に仕込んだ。念のための来客に備えるためだ。ブービートラップならぬ、ブービークッションといったところか。


 そして予想は的中した。設置してすぐに、下の玄関で押し問答が聞こえてきた。女将の「困ります!」という言葉と同時に、誰かが足早に階段を上がってくる音がした。


 桐生はすぐに窓際に移動して、少し開け、外の様子を伺った。万が一の、逃げ道を確保するためだが、下の園庭に先ほどは見なかった人影があった。


 また、高台、ここから数百、いや下手をすると一キロメートル以上は離れた雑居ビルの屋上に、キラリと光るものを見た。


 おそらく相手もプロだ。あえて見せたのかもしれない。この射程距離から、撃ち抜くには良い銃と、相当腕の立つ人間でないと不可能だろう。今日は時折、弱い風が吹いていた。その風はもちろん、少なくともこの距離からでは、地球の自転の影響も考慮しないとダメだ。


 やがてふすまが開き、黒いスーツを着こなし、それとは対照的に、青白い顔の老紳士が入ってきた。ドラキュラか、幽霊屋敷の執事といった風体だ。その男は無言のまま、足で座布団を持ち上げると、下に敷かれていたブツも確認せず、桐生に対して笑みを投げかけてきた。


 こいつらは何もかも知っている。理由はまったくわからないが。


「仕事を頼みたい」


「いまは休暇中でね。秘書を通してくれませんか」


「さっきの女性がそうですかな?」


 ちっとも面白くなかった。女将には悪いことをした。


「お断りします」


 笑顔で言った。相手がそれを受けて、脅し文句の一つでも言おうとしたのだろう。それを遮るように言い返してやった。


「たとえ、死んでもね」


 ここまでクールを保っていたかに思われた老紳士は、二の句が継げなかったようだ。それとも桐生が言外に、目の前にいる男を、道連れにする覚悟を決め、睨みをきかせたのが良かったか。


 顔には出さなかったが、老紳士が怯むのに、実は内心驚いていた。どうやら人智を越えたエイリアンや、アンドロイドでもなさそうだ。


「まったく予想外だ」彼は言った。


「そうだろうね。今さっきまでは、具体的な話を聞いてから、断ろうと思っていたから」


 そこで男は、少し笑ったような気がした。イヤな感じだ。


「気が変わった」桐生はそう吐き捨てた。


「断れるとでも?」


 男は挑発的な言葉で返してきたので、仕方なく言った。


「本人がハナから諦めていて、死ぬ気なら?」


 またも男が動揺した気配を感じたので、桐生はその隙を見逃さなかった。


「まあ、ゆっくりしていったらどうです?」


 そう言って、卓袱台の上に置かれたミカンカゴに手を伸ばした。


 その刹那、彼は素早く腰から銃器を取り出した。まるで手元の何もないところから、真っ赤な花を取り出したマジシャンのように。


 やはり持っていたか————懐に膨らみがなかったのは、背中のフォルスターに入れていたからだった。


 男は、桐生がただミカンを剥いて食べ始めたことに、拍子抜けしているようだった。咄嗟に出してしまった銃を引っ込めることもできなかったようだ。


「まあ、まあ、落ち着いて落ち着いて。ミカンでも一ついかがです?」


 桐生は、カゴにあったミカンの一つを放り投げた。男は銃を手にしていたこともあり、取り落としそうにになりながらも、それをキャッチした。だが、すぐにその異変を察知したようだ。


「重いでしょ? 甘いミカンなんで中身がぎゅっと詰まっていますよ」


 そのみかんを剥いた後の皮の中には、特殊閃光弾を入れてあった。そして上から先ほどの雑貨屋の黄色いテープで留めたものだ。


 その瞬間、桐生は目をつむって卓袱台に突っ伏し、両手で耳を塞いだ。


 それでも凄まじい閃光と音の衝撃が伝わってきたが、桐生はすぐ行動に移した。

「第5章 サウス・ポール」へ続きます。

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