第31章 ローマ教皇
ヴェネツィア国際大学の講堂は、それほど大きなものではなかったが、大河内有理の発表を見に来ていたのは、進化生物学の研究者が、十数人と、東京大学時代の同級生で、量子物理学を研究する塩田遠韋が、東京からわざわざ駆けつけてくれたくらいだった。
塩田は、有理と同じで、徳丸省吾をよく知る友人の一人でもある。
彼が、発表前の有理に近づいて来たとき、講堂の一番後ろに立つウィルが、背中に手を回した。彼は銃とナイフを携行し、有理のボディガードの役目を買って出た。これは戦友の桐生の依頼でもあった。だから、有理に近づく者がいれば反応し、銃把に手をかけた。
有理は、ウィルに向かって手で制して、彼は安全であることを示すと、ウィルがまた同じ位置へゆっくりと後退し、壁を背にして寄りかかるのを見た。
「片山教授・・・・」
塩田は言いにくそうに切り出しながら言った。
「とても残念だった」
「ええ、私もよ」
もはや片山教授が亡くなった悲しみで、涙は使い尽くしていた。今はただ彼の果たせなかったことを引き継ぎ、やり遂げるだけだった。
「でもなぜ、君はあの南極に、片山教授と居たんだい?」
やはり有理が書いた論文は、メタフィルターを通さず、世界にはよく伝わらなかったようだ。
「私の論文は?」
「書いたのかい? 僕には見つけられなかった」
やはり————
「君がここで片山教授の代わりに発表することも、君から直接メールをもらってから知ったんだ。下手をすると、日本で進化生物学を研究する人のほとんどに伝わっていないんじゃないだろうか」
たしかに見回して見ても、日本人はほんの数人だ。とはいえ、講堂を埋め尽くすほどの聴衆もなく、全体的に空席が目立ち、淋しい発表の場である。
「徳丸のこともそうだが、何かがおかしい。僕も含めて、皆は何が起きているのか分かっていないし、気味が悪い印象しかない。なぜ徳丸の研究も、片山教授のことも、君の研究成果も、広く伝わらないんだろうか。誰かが意図的に隠蔽しているとしか思えない・・・・」
そこまで塩田が話したところで、有理は手で制した。これ以上、大切な友人を巻き込みたくなかった。
「何か知っているのか?」
「うまく事が運べば、いずれわかるわ。ただ、今は知らない方がいい」
塩田は何かまだ言いたそうだったが、「わかった」とだけ言って、前の方の席に座り、ノートパソコンを開いた。
「まずは君の発表を見届けよう」
そのとき、講堂の外がざわついた。人々の喧噪が、有理のところまで聞こえてきた。たくさんのスーツを着た人間や、白い衣に身を包み人間を多数引き連れて、突然一人の老人が入ってきた。頭には小さな白い帽子を被り、手には、十字架に架けられたイエス・キリストをモチーフにした杖があった。
その群衆の後ろには、地元テレビ局だろうか。大きなカメラを肩に担ぎ、明るいライトでその老人を照らしていた。
「まさか・・・・」
有理は壇上から降りて、恭しくその老人に近づいた。
「あなたは、ユリ・オオコウチさんかな?」
彼はキレイな英語で尋ねてきた。
「はい。私が有理です。教皇様」
有理はそう答え、彼が差し伸べた手を優しくとり、握手した。
彼は紛れもなく、現在のローマ教皇フランシスコ二世だった。
「君の関係者と名乗る人物から、今日ここで神が存在する証拠を発表するとメールで連絡を受けてね。今日のスケジュールをすべてキャンセルして来た」
有理は、あまりの感激で涙を浮かべた。講堂の後ろを見れば、ウィルがオーケーのサインを送ってきた。彼のメールが、まさか教皇まで届くとは思わなかった。
「教皇様。まず一言申し上げておかねばなりません。私は科学者であり、不可知論者で、今のところ神を信じてはおりません。今回発表するのも、キリストを信仰する方々が思い浮かべるような〝神〟の存在を証明するものではないかもしれません」
「かまわんよ」
フランシスコ二世は、小さく微笑み頷いた。
「君は科学者としての使命を果たしてください」
教皇は続けて言った。
「しかし、君の友だちは、いったい何者なんだい? 枢機卿のイタズラを見抜くとは」
そういうと、彼は手にしていた杖を見せた。質素な木製の杖だった。所々に小さな宝石がはめ込まれているくらいで、ほとんど装飾がない。これは異例のことで、通常教皇が持つ杖は、金銀で装飾され、派手なものが多い。権威を損なうという理由からだが、彼は名前からも分かるように、先々代に、初めてアルゼンチンから教皇になったフランシスコの思想を受け継いでいる。「質素な生活」「華美なものや贅沢を求めない」といった信念を杖にも込めたものだと聞いていた。
「教皇になってから五年にもなるが、これにまったく気づかなんだ」
彼は杖の十字架の先にはめ込まれていた宝石の一つを回すと、中から小さなICチップが出てきた。
「これを君に託そう。研究成果を全世界に問うておくれ」
「ありがとうございます」
有理は、教皇から直々に受け取ると、ウィルに視線を向けた。彼が小躍りするように近づいてきた。
「第32章 対決」へ続きます。




