第28章 ヴェネツィア
大河内有理は、ヴェネツィアに行ったことがないばかりか、こうして海から入るとは思いもしなかった。定期船に乗り、直接、内海に浮かぶ島へと乗り込んだ。
ヴェネツィアは、てっきりそのまま海岸線から飛び出しているような〝出島〟かと思っていた。ところが、完全に陸から離れ、防波堤に守られた、内海の中に作られた干拓地だという。
ふと船上から、ラグーナの海一面に、銀色に光るフィルムが浮かんでいるのが見えた。
「あれは何かしら?」有理が尋ねれば、
「昆虫型機械、いわば Insect-tipo di macchina だ。日光浴をしているのさ」
ウィルが教えてくれた。
「日光浴?」
「エネルギーはソーラー発電で賄っているって」
航行の邪魔をしないよう、群体で動くようプログラミングされており、こうして一箇所にまとまって休み、日向ぼっこ、よろしく、蓄電を行っているのだという。
「日本製だって聞いたよ」
ウィルはそう言って、サングラスをかけた。強い陽射しは、たしかに発電にはもってこいだろう。
ヴェネツィアは、年々アックア・アルタと呼ばれる高潮被害に遭うことが多くなった。温暖化の影響が多分にある。平均水位は二十年前よりも、五センチメートルほど上昇していた。これはラグーンとはいえ、海に浮かぶヴェネツィアには大きな影響を及ぼす。
ヴェネツィア全土を沈めるほどの被害はまだ出ていないが、あの有名なサンマルコ広場が一面、水で覆われる事態は何度も起きた。
ただ、イタリアも手をこまねいていたわけではない。「モーゼ・プロジェクト」と称し、300トン級の可動式防潮堤をラグーンと外海との間に何十枚も設置して、高潮発生時の防護壁にするいう、計画を立てた。
だが、設置費用、メンテナンス、管理などの多大なコストと、周辺の豊かな海洋環境への影響が懸念され、プロジェクトは完全に棚上げとなってしまった。
そこで別の案が急浮上したのが、小さなロボットを五万個ほど、日本のハイテクメーカーが生産し、ヴェネツィアの海へ放つプロジェクトだった。機械は生分解質の殻に覆われ、その役目を終えたとき、ラグーナ近海に生息する微生物によって分解され、土に還るようにもなっていた。
有理はそれを見て思った。まるで片山教授が発見したカンブリア紀の機械生物と同じではないか。
ヴェネツィアの干潟には、建物を建てるため、大量の丸太の杭を打ち込み、それを建物の土台とした。あの有名な〝ヴェネツィアを逆さまにすると森ができる〟と言われる所以だ。
その昆虫型機械は、ヴェネツィアの街全体を支えている森————いわゆる粘土層に深く突き刺された木製の杭と、そこに土台として積み上げられたイストリア石に接する境界線に穴をうがち、そこへ人工の樹脂を流し込んで行くという。いわゆる「スーパースロージャッキアップ」という、気の遠くなりそうな作業を、彼らは二十四時間無休で、約二十年もかけてやっていく計画だと聞かされた。
しかも、杭に注入する樹脂は、運河を浚渫すると大量に出てくるヘドロを取り込んで、体内にある特殊活性化酵素が樹脂に変える。これはすべて日本の技術で成り立っているそうだ。
ヴェネツィアに住む住人は、気づかぬ内に二十年という歳月をかけて、海面から数メートル上がっていくというわけだ。見える景色は変わらないとはいえ、囲まれた空間は上へ移動していく。不思議な感じがした。そんな落ち着きのない場所には住みたくないと思ったが、この地球上で空間の移動しない場所なんてありはしない。ましてや宇宙レベルの俯瞰で見れば、なおさらに。
やがて、銀色をした一面へ、船が接近すると、パタパタを板がひっくり返っていった。その昆虫型ロボットは、そうやって日光浴を終えると、水の中へ、まるでイルカみたいなスピードで泳ぎ、深く潜行していった。これからまた気の遠くなるようなジャッキアップの作業に取りかかるのだろう。
***
有理が桐生と離れるとき、不安を打ち明けたが、ウィルは「俺の背中を任せられる仲間の内の一人」と信頼を置いていた。一見すると頼りなく見えるウィルだったが、本当は人情味も厚く、築いた信頼を裏切らない。こういう傭兵仲間は希有だ、と評価した。
「しかも、あいつには、とてつもないエピソードがある」
桐生は、小声で有理に話してくれた。
あれはアフリカの内戦で従軍していたとき、BFFがクラッキング被害を受けた。ウィルが作り始めたばかりの出来事で、彼は落胆したと同時に、たいそう憤慨していた。
「絶対、犯人を見つけ出してやる」と息巻いた。
その夜、少数の精鋭部隊————ウィルも入っていた————が、夜襲をかけ、相手部隊の指揮官を殺害する計画を実行した。その指揮官は、〝恐怖〟で部下たちを支配していた。失敗すれば、容赦ない懲罰を与え、時に仲間同士で死者も出ていた。だから、その相手の指揮官を殺せば、ただの烏合の衆になる。そう考えた。計画は成功し、指揮官は死んだ。
そして、翌朝その部隊が駐屯していたところへ行けば、一人残らず敵兵士は退散していたが、その駐屯地には、司令官の他にも、二十人近くの敵兵が首を切られ、死体になっていた。
敵兵同士の相打ちということも考えられたが、切り方がどれも同じだった。そこで桐生は、夜襲に参加したウィルに尋ねたところ、
「BFFをクラッキングしたヤツが誰なのか、やっとのことで口を割らせることができたよ」
平然と言ったので、
「で、その張本人はどこにいる?」と桐生が尋ねれば、
「同じ部隊にいたんで、一緒に殺したよ」
つまり司令官以外の十数人を一人で殺して回ったということになる。
その話を聞いて、有理は震えた。逆にウィルの狂気を感じ、怖くなった。
「ウィルは、ナイフや近接戦闘はもちろん、各種武器、銃の扱いにも長けている。きっと守ってくれる」
「そういう問題じゃ・・・・」
「傭兵にまともなヤツなんかいるもんか。ただ、スイッチを自分で切り替えられるかどうかでしかない。あの氷斧を振り回していた大男と、どっちがマシだ?」
「どっちもまともじゃない」
有理が正直に言えば、桐生は笑った。
「ついでに俺もそこへ入れておいてくれ」
ただ————
「あいつは俺の世界においては、一番まともだったよ。だからすぐに傭兵から足を抜けられた」
ウィルはサングラスをかけ、眩しそうに海面と海上に浮かぶ街並みを、スマートフォンで写真を撮っていた。
やがて陽は沈む。明日の学会にはどうやら間に合ったが、肝心の証拠品はまだ手元になかった。本当に届くのか、訝しがったが、桐生は「大丈夫」としか言わなかった。その少ない言葉は、あの色の白い老人に気取られ、居場所を嗅ぎつかれることがないように、との配慮だということは十分に分かってはいたのだけれど。
「第29章 宇宙人からの信号」へ続きます。




