第26章 観測不可能
アンリ・ペネクスは、ケイという男の言葉を借りれば、場を共有していた。彼と出会ってすぐ————南極大陸から原子力潜水艦で助け上げられたとき、彼はグラス一杯の緑色に光る飲み物を差し出した。
まるでどこかの教祖の血を飲み、教団に入るためのイニシエーションを受けるようにも思えたが、かつてキリストや、東洋で言うところの仏陀が到達した高みを、この一杯で体験できると彼は言った。
「この液体には、数億というナノマシンが含まれている」
その昔、アメリカではLSDや、さまざまな合成麻薬を用いて、その境地を体験できる者もいたが、それでも僅かな人たちで、実際は薬物依存といった副作用に引きずられ、墜ちていく人たちばかりだったと、彼は説明した。
「これには副作用はない。やがて君の体を駆け巡り、やがて脳へ達し、脳関門さえもすり抜け、シナプスの繋ぎ直し、または強化を自動でやってくれる」
だが、飲んだ後は、しばらく仰臥して体を休めるといい。初めにこれを飲むと、たいていの人間は、脳内で起こる強烈な、断続的なシナプスによる発火で、立っていられなくなる。だが、それは直に落ち着き、やがて新たな君が目覚めるだろう。
たしかにアンリが、再び目を覚ましたとき、意識は肉体という狭い器から引き剥がされ、宙に浮かぶような感覚があった。意識は独りでどこまでも広がっていく。原子力潜水艦内の鉄製のベッドがここにある意味、原潜のスクリューが海水をかき混ぜて推力を得られる代わりに発生するキャビテーション・ノイズのこと、果てや圧力隔壁の向こうに広がる暗い深海がどうやって形成され、人間が造ったこの乗り物を内包しているのか————すべてを理解することができた。
そしていま、ロシアの氷点下にある川から這い上がり、歩き始めたアンリには、ケイに指示されなくとも、次にやることはわかっていた。
場を通して、彼からの指示も理解していた。
女の居場所はすぐに分かった。だが、なぜか、あのキリュウとか言ういけ好かない男の存在だけは認めることができなかった。ケイの説明によれば、あの男は、たとえるなら真空状態にあり、そこに何もないはずが、素粒子をたまに観測してしまうような、気まぐれで、期待する観測が難しいということだった。
少なくともキリュウという特殊な性質を持った人間は、それは遠目で見れば、線を描いているように見えるかもしれないが、いわば粒子のようには飛び回っているわけではない。泡のように現れ、弾けるように消えて行く。
そんなキリュウでも、一緒に行動する女の居場所さえ見えれば充分だった。アンリがターゲットにすべき人物はそちらなのだからだ。
「なんとしてでも、発表される前にイタリアに入り、あの女を殺す」
それには、銃器を手に入れる必要がある。だが、幸いイタリアは銃規制が緩く、審査を通れば一般人でも手に入るはずだ。もちろん、外国人であるアンリが、その審査を通過できるはずもないが、やり方はもう分かっていた。銃だって撃てる。すべてやり方は、場を共有する者たちの中で、射撃経験者から吸収していたからだ。
「第27章 ポープと、ホープ」へ続きます。




