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第25章 ウィザード

 11月。大河内有理にとって初めてローマは、ロシアに比べれば暖かい春のように感じた。日中の気温は、15度を越え、少し着込めば、すぐに汗ばんでくる。今までにび色の空の下で鉄道に乗っていた空とはちがう、雲一つない青空と、黄金に光り輝く街並み。


 街は遺跡と同居し、どれに人が住んでいて、どれが歴史的な重要文化財なのか分からない。下手をすると、何世紀も前に建てられたかのようなアパートメントに、人が住んでいて、小さなバルコニーにある色鮮やかな花が咲く鉢植えに水をやっていたりする。


 日本に来た有理の知るイタリア人研究者は、日本の街並みを、夜景が煌びやかで、騒音もゴミも少なく、美しい街並みと表現し、自分たちの街はいささか地味だと卑下していた。


 だが、日本人に言わせてみれば、日中のイタリア・ローマは黄金に輝いて見える。こうした何世紀にも渡って文化が重畳し、築き上げられた街自体にも感動するが、そこに人が住み続けていることにも感銘を受けた。


 有理は、桐生と一緒に地下鉄を乗り継ぎながら、スペイン広場まで来た。トリニタ・デイ・モンティ教会へと続く、大波を打ったかのような大階段があり、平日だというのに、観光客でごった返していた。大階段に座る者、あの二十世紀中頃に取られた古典的名作『ローマの休日』でも、ここは、オードリーヘップバーン扮するアン王女が、ジェラートを食べるシーンでも有名なシーンにもなった。


 広場の片隅には、カフェやジェラートを売っている店もあり、そのジェラートと一緒に、教会の時計台をバックに写真に収めている観光客が何人もいた。


「好い加減、どこまで行くつもりか教えてくれないかしら?」


 有理は聞いた。桐生はイタリアに入ってから、その一切を教えなかった。


 ただ、一つ「ギリギリに物事を決定するようにしている」と言った。そうすることにより、未来の結果が、そのギリギリまで留保される。あのドラキュラ伯爵————京という男は、過去を洗いざらい調べることは可能だと言ったが、未来は完全には見通せず、ある種の計算を行わなければならないという。


 あえて選択を放棄し、関係を絶ったとしたら、周囲はその影響を免れない。たとえば友人から結婚式の招待を断わったことで、席次がズレて、たまたま席が隣同士になった二人が意気投合し、また新しいカップルが誕生するかもしれない。


 だが、それも有理にはまったくピンと来ない説明だったようだ。


「じゃあ、ローマでは何をするつもり?」


「ツチノコ探しだ。知っているか?」


「日本の伝説上の生き物でしょう? おそらく胴の短いヘビと多くの人が誤認しているというやつよね」


「言うことに、いつも夢がないねえ」


 桐生は笑って言った。


「だが、こっちも伝説だが、実在しているのは確かだ。俺は会ったことも話したこともある。ただ、発見が非常に難しい」


「それって人間?」


「凄腕のハッカーだ。いや、本人は、自称ウィザードと言っていたが」


魔法使い(ウィザード)?」


「ハッカーよりも格上だという意味らしい」


 桐生は有理に聞いた。


「そうだ。ここで、あのアメリカの船の上で、GPS信号をハッキングして、ドローンを飛行不能にしたように、この辺の、Wi│Fiの周波数帯の妨害電波を出せないか?」


「おそらくほとんどの国で、そういった妨害電波を出すことは禁じられいて、違法なんだけど」


「ほんの数秒でいい」


「やつは自分で言っていた。ギークは家に籠もって、エナジードリンク片手に、ポテトチップスを頬張りながらキーボードを叩いていると思ったら大間違いだと」


 確かに、ハリウッド映画でも、政府が発信元を突き止めて、特殊部隊がハッカーの家に突入するシーンがあるが、概ね外れてもなさそうな気もした。


「そいつは、かつてこう言ったんだ————『本当のハッカーは、いつでも逃走でるように、身軽だ。部屋に大事なフィギュアやポスターを飾っていたら、それが惜しくて逃げるのを躊躇する。だから、所有物は最低限。未練が残らないようにしている。いつでも逃げられるような場所から、不正な侵入を試みる』ってね」


 桐生はそう説明してから、


「・・・・と、まあ、ヤツはそんな自分に酔っていて、こうした観光地で有名な場所を好んで、のこのこ出てきては、オープンカフェでカプチーノを飲みながら、公衆無線LANを乗っ取って遊んでいるのさ」


「ローマには観光地はいくらでもあるでしょ?」


 桐生は、おそらく二、三箇所以内でヤツを見つけられる自信があると断言した。


 有理は渋々、大階段の隅っこに座って、ノートパソコンを取り出した。安全な公衆無線LANを維持、運営するのは難しいが、逆に妨害する方は簡単だった。日本なら秋葉原の雑居ビルにある怪しい電子パーツショップへ行けば、二、三千円くらいでそういった電波妨害機器(ジャマー)を買うことができる。


「はい、スタート」


 有理はエンターキーを押した。


「ビンゴ」


 すぐに大階段の上から見下ろしていた桐生が言った。そういえば、映画の中のハッカーはたいていそんな感じで、政府や重要施設へのサーバー侵入を宣言していたな、と思い出した。


「いたの?」


「今どき、観光地のカフェで、パソコンやタブレット端末を操っているやつは、俺に言わせればワーカホリックか、ハッカーくらいしかいない。カフェは、その名の通り、コーヒーを楽しむための場所だからな」


 たしかに先ほど見た、ジェラートを売る店の隣に、路地までテーブルや椅子を広げて営業するオープンカフェで、ひとりノートパソコンを操っている、ジャケットを着た男がいた。有理が妨害電波を放った瞬間に、ピョコンと顔を上げて辺りを見回した。


「たしかに、ふつうWi——Fiが途切れたくらいで、辺りを見回す人もそういないわね」


 そういって、有理は妨害電波を止めて、ノートパソコンをしまった。


「妨害電波を出されたと考えるのは、いかに自分がやましい行為をしているかということだ」


 そう言って桐生は有理の手を引いて、その男が座るテーブルへと案内された。


 彼の前に許可も求めずに座ると、彼は開口一番、叫ぶように言った。


「勘弁してくれよ!」


 英語だった。自然な発音だったので、ネイティブアメリカンか。いかにも典型的な白人で、イギリスかアメリカのビジネスマンが、今日は出張の後の休日を楽しんでいる、とでもいうように、白いワイシャツと、意外と仕立ての良いが、目立ちもしない紺色のジャケット。彼の身体にピッタリと合っていたので、オーダーメイドかもしれない。美しいブルーの瞳に反して、冴えない表情は残念なところだが、こざっぱりとした茶色い頭髪は、フォーマル、プライベートでも行けるといった具合に短く整えられていた。一見すると、いかにも軍隊出とは思えなかった。


「こいつは、俺の古い戦友でウィル・キャンベル。デジタル戦担当」


「本当に勘弁してくれ。僕の悠々自適の、今の生活を邪魔しないでくれないか?」


「俺も含めて、人殺しが、煉獄を抜けずに天国に行けるもんか。そうだろ?」


「そうさ。いずれ煉獄へは行くかもしれないさ。でもそれまでの半生は穏やかに過ごしたい。厄介事に巻き込まれるのは、もうご免だ」


「ヴェネツィアに案内してもらいたい」


「そういうのは、BFFの退役軍人グループで助けを請えよ」


「言い忘れていたが、こいつがBFF設立メンバーの一人」


 桐生がさらりと紹介した。この人が軍事衛星をハッキングしたりしていた、というのが驚きだった。たしかにギークには見えない。ウィザードというわけか。


 言葉には出さないが「どうぞよろしく」とでも言うように、有理に向かって顔をしかめながら首を傾げた。


「今回のは観光目的でイタリアまで来たわけじゃない」


「観光じゃなくても、BFFはトラブルに巻き込まれたときにも使えるだろ」


「もうそのレベルはとっくに超えている」


「もういい! やめてくれ! これ以上は聞きたくない!」とウィルは駄々っ子のように耳を塞いで「ウーアー」という言葉を繰り返した。有理は思わず吹き出した。


 桐生も肩をすくめて、降参の仕草をしたが、その刹那、懐から、あの京という男から奪った銃を取り出して、その上に、テーブルにあった新聞紙を被せた。


 ウィルは、ギョッとして声を出すのを止めた。


「この人は本当に撃つからね・・・・」ウィルは怯えたように、有理に向けて言った。有理は、自分に助けを請われても困るというばかりに苦笑するしかなかった。


 桐生はウィルに向かって小さく頷くと、ウィルは突然右足のズボンの裾を上げた。武器でも取り出すのかと、有理は席から飛び跳ねそうになったが、彼はただ、ふくらはぎ付近の大きな傷跡を見せた。


「これだよ! ここ! ここ!」


 聞けば、戦闘中、味方だった桐生に撃たれたと主張した。しかもこのケガのせいで傭兵生活を終わりにしないといけなかったという。


「お前が、早いタイミングで塹壕を飛び出すからだ。俺が撃って止めなかったら、今頃は敵兵のスナイパーに額をぶち抜かれて、地獄行きだったぜ」


「そう。命の恩人でもある。だから難しい」


 ウィルはそう言ってから、諦めがついたように、カプチーノの残りを飲み干し、銃を引っ込めろという手振りで桐生をみやった。


「あるデータを全世界へ公表したい」桐生が切り出せば、


「この地球上で、メタフィルターのかかっていないプロバイダーなど存在しないのは知っているでしょ?」


「だからこうして遙々〝ウィザード〟に頼みに来たんだよ」


 ウィルは満更でもないという顔をした。その笑顔は子どもそのものだった。

「第26章 観測不可能」へ続きます。

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