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第22章 人格の独立

 桐生游輔は、二本のビールの空きを持って、出たとき、ふと車窓から外を見た。


 すべてが真っ暗闇で、民家の灯りさえない。月も出ていない。そこに映るのは、車内の鈍い灯りが反射することで浮かび上がる、自分自身の姿だった。


 感情————桐生には物心がついた頃から、心の内に「不安」と「怒り」の感情を常に抱いていたような気がする。傭兵という過酷な世界に放り込まれたことに対する憎悪、それは怒りになっていた。だが、毎日生き残ることに精一杯で、いつしかそれが無意識下へと沈殿していったのかもしれない。


 そこに感情があるとするならば————彼の復讐心から、殺す選択肢を採った、と考えるしかあるまい。そう思い直すと、桐生は三等車へビールを取りに向かった。


 有理の部屋に戻り、彼女にビール瓶を手渡すと、今度は迷うことなく、手際よく机下の栓抜きに引っかけて開けた。


「乾杯しましょう」


「何に、だ?」唐突な提案に桐生は笑った。


「あなたが自身の感情に気づき、人格が独立を果たしたことへの乾杯」


 独立————たしかにあの瞬間、師であり、親代わりでもあった krifa から独立した感覚があった。いや、縛られた自身の運命、しいては自身が置かれてた世界からの足抜けした感覚があったかもしれない。


「何を言っているのかさっぱりわからない。専門用語は止めてくれないか」


「あら、別に専門用語は何一つ含まれてないわよ?」


 そう言いつつも、有理のビール瓶に、自分の持っていた瓶を合わせると、一口飲んだ。


「今度は君が話す番だ」


 桐生が促せば、有理の表情は途端に曇った。


「徳丸省吾のことから話せばいいかしら?」


 桐生は無言で頷いた。


「彼は私の婚約者で、半年前に自殺したの」


 いきなりの告白に、飲んでいたビールが一気に苦くなった。


「すまない・・・・」そう桐生が言えば、有理は手で制した。


「でも私は、誰かに殺されたと思っている」


「どういうことだ」


「彼はマンハッタンの場末のホテルに泊まり、浴室で頭を撃ち抜いて死んでいた。ホテルのメモには、〝すべてを終わりにしたい〟ただ、それだけ」


「でも州警察は自殺と判断したんだろ?」


「警察はアテにはできない。ニューヨーク州の犯罪率は高いし、他の仕事で手一杯。なら、分かりやすい状況証拠が一通り揃っていれば、すぐに〝自殺〟と断定するでしょう?」


「でも他殺である証拠もないだろう?」


「彼は、マンハッタンにアパートを借りて住んでいた。彼の研究所からはすぐ近くよ。そんな遠くのホテルにわざわざ泊まる理由がない。銃も所有していなかったし、撃ったこともないと言っていたのよ?」


 桐生はそれを聞いて思った。得てして男というのは、たまに息抜きしたいこともある。コールガールでも呼んでいたのかもしれないし、銃だって相応の身分があり、犯罪歴でもない限りは、お金を積めば、すぐにどこのガンショップでも購入可能だ。扱いも簡単。試射場も併設しているところもあるから、撃つ練習もしていたかもしれない。


 あとは、弾をこめて、こめかみに銃口を向けるだけ。的を当てる必要もなく、自身の頭を撃ち抜くだけなら、下手をすれば子どもだってできる。せいぜい気をつける点としては、安全レバーを下げるのを忘れずに、といったところだろうか。


「じゃあ、誰が彼を殺した?」桐生が質問すれば、


「彼は腫瘍学(オンコロジー)の研究者で、あるグループの人たちの大腸癌のDNAを調べていた。そこから、二箇所にある特定のDNAを調べれば、将来、大腸癌に罹患する可能性を100%予想できることが分かったの」


「100%。そりゃ大発見だな。でも、そんなニュースは、俺が日本に来てからは、聞いたことがない」


「そうよ。その後、各大学や研究所が追試や、臨床実験を行ったら、その二箇所にある特定のDNAではないことが分かったの。100%ではなかった」


「なるほど。それにショックを受けて、か」


「いいえ」有理は桐生を睨みつけた。


「あ・・・・すまん」


 有理も問い詰めた口調にハッとしたのだろう「ごめんなさい」と消え入るような声で謝った。


「2023年8月12日に、徳丸は研究論文を発表した。ところが、すぐにあちこちで臨床実験が始まったものの、一部で反証が上がってきた。彼はすぐに再調査したわ。そうしたら、意外な事実が分かった」


「意外な事実?」


「彼が論文を発表した2023年8月12日以降に生まれた新生児には、その二箇所にある特定のDNAがまったく異なって現れていたの」


「その日を境に?」


「ええ。あなたは、2023年より前に生まれている?」


「ああ、もちろん」


「じゃあ、大腸癌に罹患するリスクを100%判定できる」


 桐生は、この奇妙な出来事に、むず痒い何かを感じた。


 まさか————


「DNAが修正されたというのか? 誰に?」


 有理は断定こそしなかったが、それに近いことを言った。


「徳丸は、発見したDNA二箇所の位置を総称して〝神の値〟と名づけた。でも、それは〝神の変数〟となってしまった」


「100%の判定ができないとしても、その事実を公表すべきじゃないのか?」


 その日を境に人類のDNAの構造が変わることこそ、不自然だし、研究対象とされるべきだ。


「もちろん。彼は追加論文を書いて、各科学誌に送ったけど、まったく採用されなかった。正確には届かなかった」


「メタフィルターに引っかかったのか? テキストデータのサイズは小さいはずだ。なぜだ?」


「その後、オンコロジーに関する論文データベースからを検索しようとしたけど、彼の論文は、検索結果に現れなくなった。もちろん、彼の名前を直接入力すれば出てくるけど、そんな検索をする研究者なんて普通いないから」


 話を聞けば、まるで宇宙のアーキテクトがいて、人間によって誤謬(バグ)が発見されたから、緊急パッチを充てたように思えてくる。


「そして、その化石か・・・・」


 なぜ、こうも桐生の周りに、神の存在を示すものが集まってくるのだ。いや、そもそもあのアーキテクトの召使いと名乗る京が、この厄介事、を持ち込んできてからだ。


 まあ、いずれにせよ、シベリア鉄道の旅の半分の日程を過ぎることなく、京たちは必ずここへ来る。それまでに迎え撃つ態勢を万全に整えておくしかない。


「それにしても・・・・」


 桐生は、手にしていたビール瓶を置くと、有理の左手をさっと取った。ピクリと引っ込めようとする仕草をしたが、すぐには逃げなかったので、左薬指からゆっくりと結婚指輪を外そうとした。


「君は、今すぐ過去の記憶を手放すべきだ」


 有理はその瞬間、慌てて左手を引き抜いた。その拍子にビールの空き瓶が床に落ちたが、ふかふかのカーペットのお陰で割れずに済んだ。その空き瓶を取ろうと、二人で慌ててテーブルの下へ潜り込んだら、有理の頭とぶつかった。


「いてぇ」


「痛い。私だって!」


 そう言ったあと、左手薬指から指輪がなくなっていることに気づき、


「指輪が! どこへやったの?」


「さあね」桐生は惚けたように言った。


「返しなさいよ!」


 そういって、有理は桐生のズボンのポケットに手を入れようとしてきて、揉み合いになった。その拍子にソファベッドの上で身体が入れ替わり、桐生が、有理の上に覆い被さるようになった。


「あ・・・・」


 有理は頬を染めて、小さな吐息をついた。先ほどまで一緒に飲んでいたビールの匂い、それとはまた別の、仄かに南国を思わせるような花の香がした。桐生はそのまま彼女に唇を重ねた。そして桐生はこう言った。


「あの指輪は、もう二度と見つからない」


 スッと有理の身体の力が抜けたような気がした。


「そうだろ?」


「いいえ。断定はできないわ。私は科学者だから」


 有理はそう言うと、桐生に体を合わせてきた。

「第23章 再襲」へ続きます。

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