第21章 囚われた過去
桐生が「シベリア鉄道で行く」と言ったとき、有理は、無茶苦茶な提案だと思った。学会に、この大切な証拠品とともに出席することができなければ、この旅のすべてが無駄になってしまう。
ただ、アメリカの艦から飛び立つときに受けた襲撃を思い出すと、今も震えが止まらなくなる。片山教授が、あのアンリ・ペネクスという男に殺されてから、いや、有理にとっては、最愛の徳丸省吾が殺されたときから、何かの歯車が狂い出した。それは有理にとって、破滅へ向かって進む時の流れのように思えた。
一方で、理性的な頭ではなく、本能的な心は、この桐生という男が、間一髪のところで、秒針を食い止めているようにも思えた。
「いいか。ここからは別行動だ」
桐生は突然、こう切り出した。
「別行動って・・・・どういうこと?」
「別行動とは言っても、もう少しで出発するモスクワ行きロシア号には同乗する。でも、君は一等車のチケットを二枚買って乗り込め。俺は三等車のツーリストクラスの寝台車へ乗る」
「どうして?」
ようやく有理が、その破滅的な道から抜け出せそうな気がしていた矢先に、離れて行動することの提案を受けたので、不安が先立った。
「ただでさえ日本人は目立つ。ケガをした日本人男性と、女性が一緒にいれば、駅に常駐する警察官や、車掌にもマークされかねない。政府当局に連絡されたら、一発アウトだ。偽造パスポートの件はもちろん、日本からの不法出国、米国艦上での攻撃、すべて紐付けられて終わりだ」
「わかった」と言って、有理は小さく頷いた。
ここは彼を信じて従うしかない。
「あと、絶対に荷物から目を離すな。車両の中でも気をつけろ。この国は置き引きが多い」
「目を離すわけないでしょ」
「さっきクーラーボックスを放り出して、スーパーに行ったじゃねえか」
「それは、あなたに預けていったつもりだったの。見張ってなかったの?」
桐生は肩をすくめると、さっさと駅の方へ向かって歩き出した。
「ちょ、ちょっと・・・・」
慌てる有理に、桐生は手で制して、
「俺が行って、しばらくしてから来るんだ」
しかたなく置いたクーラーボックスの上で、受け取った偽造パスポートや、ビザ、バウチャーチケットを見た。ロシア語がビッシリと書かれていてちんぷんかんぷんだった。かろうじて数字が読み取れるだけだった。
しばらくして有理も動いた。初めは切符売り場も見つからず、その上、窓口で応対した中年女性もまた英語が通じない。パスポート、ビザ、バウチャーチケットを提示して、シベリア鉄道の一等車のチケットを身振り手振りで要求するが、最後は相手の女性がムスッとして喋らなくなった。だが、スッと窓口から、チケットと一緒に出てきたので、話は通じたのだろうが、その後は顎でしゃくるように、『行け』というふうに追い払われた。
怒っているヒマはなかった。そこから、案内掲示板や、やはり無愛想な駅員を捕まえながらも、少ないヒントを辿って、どうにかこうにかロシア号が停車するホームまで来た。日も明けない早朝に出発する列車と言えば、このロシア号しかないようだ。
こうしてシベリア鉄道に乗車し、いざ一等ソフトクラス寝台車に入ったとき、中が広くてびっくりした。
コンパートメントになっていて、おそらく夜は、ベッドになるのだろうか。向き合うように柔らかくて座り心地の良い、二つの座席があった。床のカーペットはふかふかで、窓辺には小さな花瓶に、一輪小さな花が挿してあった。カーテンも、お洒落なレース生地と、小さく刺繍が施された上品なものだ。
シベリア鉄道と聞いたとき、狭い車内に多くの人が雑魚寝しながら行くイメージしかなかったが、こういった高級な車両もあるとは思わなかった。
本当にこの列車で良かったのか。なぜ桐生はこの列車の三等車に乗ったのだろうか。不安が過ぎったが、列車は汽笛を鳴らしてゆっくりと速度を上げ、発車した。
ほどなくして、この車両の担当車掌と名乗り、中年男性だが、紳士的で、小綺麗なたたずまいの車掌がやってきて、有理のパスポートとチケットを確認した。彼は親切な応対に加えて、珍しく英語も喋れるようだった。
「お一人様がお望みですか?」
わざわざ高額なチケットを二枚買い占め、一等のコンパートメントを貸し切りにするくらいだ。よっぽどの金持ちか、人嫌いのどちらかだろう。でも有理はそのどちらにも見えなかったようで、なぜチケットが二枚あるのかを彼はやんわりと質問したようだった。
そのときの答えは、桐生から指示されていた。
「生前、主人とシベリア鉄道で旅をするというのが夢だったんです」
車掌はその台詞と、有理の左手の真新しい結婚指輪を見て、察したのだろう。
「失礼しました。お二人で、良い旅を」
そう告げると、初老の車掌はにこやかな笑みをたたえ、静かに部屋を出て、扉を閉めた。有理はカーテンを開けた。しかし、外は真っ暗闇で何も見えなかった。見えるのは、ガラス窓に映る自分の顔だけだった。
嘘とはいえ、この演技は今の有理には辛かった。涙が出てきた。本当にこの真向かいに徳丸省吾がいてくれたら、一週間近くかけ、このシベリアの大地を旅行できていたなら、どんなに楽しかったろう。二人は結婚後も、遠距離での仕事漬けの毎日だった。式ところか、新婚旅行にさえ行けなかった。
いろいろなことが脳内を駆け巡ったあと、有理はベッドに横たわると、そのまま寝てしまった。
***
顔を照りつける強い陽射しがあって、有理は目を覚ました。外はすっかり明るくなっていた。シベリア鉄道の寝台車両は、寒いものかと思っていたが、完全暖房で窓ガラスも薄い一枚ではなく、厚い二重構造になっているようだった。昨日のコートを着たまま寝たら、体中汗ばんでいた。
外は一面に広がるシベリアの荒野。目をこらしても、地平線の彼方まで何もない大地しか見えない。時折、白樺の林を抜ける以外は、まったく同じ景色の連続だった。
昨夜、優しい笑顔で迎えてくれた車掌が、ドアをノックして入ってきた。
「温かいお食事ですよ」
プレートには、小さなピロシキやパン、野菜や肉が煮込まれたたくさんのスープ、クレープみたなものに蜜がたっぷりとかけられたデザートまであった。
有理は頼んでいない、ということを伝えると、
「これはバウチャーチケットに含まれています」と説明し、乗車して最初の食事は無料で提供されるのだそうだ。
「以降は列車の中程にある食堂をお使いください」
そう言って、部屋を出ようとした車掌に、有理は尋ねた。
「三等車はどこでしょうか?」
なぜそんな質問を聞くのかと、一瞬彼の間があったが、にこやかに答えてくれた。
「一番後ろの車両です。ただ、車内は暖房が効いていて暖かいですが、連結部分は外気に触れます。コートを着て行かれることをお勧めしますよ」
親切にも教えてくれた。
車掌が出ていった後、有理は久しぶりの温かい食事に、舌鼓を打った。かなりのボリュームだったが、あっという間に平らげた。二日分は食べたような気がした。
疲れや空腹を満たしたあと、有理は、三等車へ向かった。たしかに車掌の言うとおり、連結部分は外気で、氷点下どころではないような気がしたが、どうにか辿り着けば、そこは、コンパートメントではなく、開放式の車両だった。二段ベッドが進行方向、向かい合わせにあり、さらに通路側にも二段ベッドがあった。まさに有理が想像していた「シベリア鉄道」がそこにあった。
だいたいが、両合わせのベッドと、通路側も含めたブロックが、一組となるらしく、ロシアの人たちが思い思いに過ごしていた。
だが、ひとしきり、やかましいブロックがあった。そこに桐生がいた。
とても若い少年のような人たちと、昼間だというのに酒を飲み、盛り上がっているようだ。その周辺だけ酒臭かった。
「イポーニィー! イポーニィー!」
と、若い男の内の一人が、有理を指差して叫んだ。
桐生は有理を見やると、大げさに驚いたような仕草をしてから、何やらロシア語を言った。そしてすぐその後に、日本語で言った。
「これはこれは、あなたも日本からですか?」
「なにやっているの?」有理が呆れたように聞けば、
「こいつらは、兵役を終えて、故郷へ帰るそうだ」
たしかに三人とも若かったが、さっぱりとした短髪は、兵役帰りと言われても違和感がない。彼らは好奇な目で、二人を見比べていた。
「溶け込むのが上手ね」
「まあね。こういう生活も長かったから。ところで休めたかい?」
「ええ。いっぱい寝て、食べたわ。まだ飲んではいないけどね」
「一緒に飲んでいくかい?」
そこでまた、イポーニィーなんちゃら、と若い男たちが囃し立てた。「日本人」という意味なのだろうか。彼らは————おそらくウォッカだ————透明な液体を早いペースで飲み干していた。
「そうか、じゃあ今夜、ちがう酒でも持って、夜這いしに伺うよ」
「そういうジョークは嫌い」
そう言い放って振り返ると、背中から冷やかすような雰囲気で若い男たちは盛り上がった。桐生が、有理に振られたとでも思ったのだろう。桐生は、大声を出し、また彼らの席へと溶け込んでいった。
***
夜、夕食を一人食堂車で済ました後、部屋に戻ってまた漆黒の闇ばかりを眺めていた。
やがて小さなノックが聞こえたきた。
「どうぞ」
静かに扉が開いて、ビール瓶を二本、手に携えて桐生が入ってきた。
「不用心すぎるぞ。鍵くらいはかけておいた方がいい」
「でもこの車窓をぶち破られたら終わりでしょ」
桐生はビールを一本有理に渡すと言った。
「まあ、そうだな。あの連中ならやりかねない」
有理がビールの栓をどうやって抜こうか迷っていると、桐生がテーブルの下でビール瓶を傾け、王冠を取って見せた。テーブルの下に、栓抜きが付いているとは知らなかった。
「何でも知っているのね。それにもう三等車の乗客たちと仲良くやってる。それにしても飲み過ぎてないの?」
「敵地に潜入しての仕事は得意だ」
ビールをグビリと一口飲み干すと、続けていった。
「それに昼間はそれほど飲んでいない。若いヤツらが先に飲みつぶれるようにうまく誘導した」
「あきれたわ」
桐生はビールを飲みながら、外の景色を見た。先ほど有理が眺めていた景色と同じ、漆黒の闇しかないはずだった。
有理もビールを一口飲んだ。美味しい。ロシアのビールも悪くないと思った。
「それにしても兵士は皆、持っているのね」
有理は、桐生が海老原からもらったリープ・フロッギング腕時計を指差した。あの若者たちも全員腕に巻いていた。
「俺が傭兵として戦場にいた頃、そこには必ず一人や二人ギークがいてね。メタ・フィルターをすり抜け、いろいろな場所にいる兵士と直接やりとりしていた。そいつは、タチの悪いジョークみたいだったが、それを〝Battle Fields Forever〟と命名して、略してBFFと呼んでいた。最前線で戦う兵士たち専用のSNSも立ち上げていた」
「そんなこと可能なの?」有理が訝しがれば、
「ある程度の規模の軍隊であれば、衛星を使ってインターネットにある有用な情報を取得して利用している。そこのメタフィルターをハックして、互いの通信に公開暗号鍵をかければ、完全な秘匿通信による交流サイトをの出来上がりというわけ」
「サーバーが要るわ」
「そうだね。サーバーは一般的な商用クラウドサーバーではなく、各国が打ち上げた軍事衛星が使われていると聞いた。もちろんデータは暗号化され、分散して保存されていた」
ビールを一口飲んでから、桐生は言った。
「明日死ぬともわからない戦場で、なんの情報をやりとりするんだ?と利用しているやつに聞いたことがある。今日何人殺した、殺された、いいね!ってところか?って茶化したら、ひどい剣幕で怒られたよ」
「それは怒って当然ね。でも機密事項も多いでしょう? 下手をすると相手に情報が漏れることだってあったはず」
「いや、彼らのほとんどがBFF上ではポエムを共有していると言っていた。嘘だろと思ったら、そいつもポエムを毎日、書いていて、戦士が戦いから帰ってきて休息するとき、みな詩人になる、と真顔で言っていた」
「ロマンチストね」
「そうか? そのときブックマークランキングで一位になっているポエムを読ませてもらったが、〝戦争のないセカイを想像しみるんだ。きっとそれは叶う〟といった出だしで始まる、百年も前の、有名なポップスの歌詞を枕として拝借したものだったぜ」
有理は苦笑するしかなかった。
「たった四人のバンドで仲違いして解散したやつが、いざこざの無い世界を想像できると思うか?」
有理はついには吹き出した。
「世界から戦争がなくなると本気で考えているヤツはきっと、頭の中が完全にお花畑か、戦争のない世界というのは、もちろん敵を殲滅した後のことを指していて、異なる宗教も、人種も、自分と敵対する、あらゆるものを根絶させたあとの、ディストピアを想像しているだけだろ」
あるいは、今ごろは野戦病院で、もげた手足の痛みに耐えながら、無事故郷に帰れることを夢想しながらら、モルヒネ中毒でラリってるか、と付け加えた。
「ずいぶんな言い草ね。戦争にはいつから行っていたの?」
「好きで行っていたわけじゃない」
桐生はそう言うと口ごもった。視線を逸らし、車窓の真っ暗闇を見つめた。またそこには当然、桐生の顔が反射して見えるだけだった。
「俺は戦争孤児だった。母親が誰かは分からない。俺を拾ってくれた父親代わりの恩人から断片的に聞いたのは〝日本人である〟ということだけだ」
桐生は思い出すようにゆっくりと話し始めた。
「物心ついたときには、アフリカ各地を彼と転戦していた。傭兵から足を洗って、日本へ帰ってきてからは、日本の小説や漫画をたくさん読んだ。その中で父親の転勤で転校するなんてシーンがよくあったけど、それはその父親が商社で働いているか、傭兵かのちがいだけでね」
桐生は笑って言ったが、有理は言葉にすることができなかった。
「そう。ふつうじゃないよ。俺は、ふつうの少年としての経験は皆無だ。子どもは学校へ行ったり、ボールを蹴って遊んだり、あるいは携帯ゲームで友だちと遊んだりしたんだろ? 俺にはそういうの経験がまったくなかった。様々な銃器の取り扱い、兵士と接近戦になったときの格闘術、戦闘に特化したあらゆる乗り物の操縦訓練を叩き込まれた。たしかにその環境で生き延びるためには必要な手段ばかりだったよ」
俺が初めて人を殺した話をしても?と聞くので、有理は小さく頷いた。
「今でも忘れられない。十二歳のときで、ナイジェリアにいたときだ。大男に、建物の陰へ引き込まれて、レイプされそうになった。俺は必死に抵抗して、いつも携帯していた小さめのナイフでその男の首を串刺しにした。必死だった。興奮を求めてきた男の表情が一瞬でくすんだ色になったよ。男の頸動脈から吹き出す血を俺は顔面に浴びながら、泣いた」
有理は言葉も出なかった。
「ただ、いまを生き残る以外なかった。夢もなかった。過去を振り返ってもクソだらけ」
「いま、あなたの親代わりとなって育てたって人は?」
桐生はビールを煽りながら、有理に指さした。
「俺が殺したよ」
「え?」意外な告白に思わず声が出た。
「あれはインド軍の傭兵として戦っていたとき、カシミール地方のアクサイチンという小さな村での戦いだった。彼は、足を打たれ、生きて中国側の捕虜になった。敵軍は、交渉材料にしようと、kレを先頭に無理やり引きずりるように歩かせ、後ろに大量の歩兵を引き連れて来た。俺は傭兵で狙撃手の仲間と一緒に迎え出た。こういうとき、傭兵はどうすると思う?」
有理には分からなかったが、捨て石になるのだろうというだけは想像ついた。有理の言葉を待たずに、桐生は言った。
「俺たちはインド軍に雇われている。その傭兵が足手まといになっては本末転倒だ」
桐生は最後のビールを飲み干すと、もう一本持ってくるべきだった、と言って続けた。
「もちろん彼を含め、その周辺を警戒して歩いていた歩兵十数人の頭を撃ち抜いた」
有理はそれについては何も言えなかった。沈黙が続いた。
桐生も、有理がこういうとき適切な返す言葉を持っているとは思わなかったのだろう。
「彼は、敵兵に連れられながら、〝ヘルプ!〟と叫んでいたよ」
その桐生の言い方は淡々としていた。まるで他人事のように聞こえた。
「俺がもし逆の立場で、〝ヘルプ!〟と叫んでいたら、助けてくれただろうか?」
「彼ならそうしたかもしれない」
「そんな彼を見て、俺はそのとき、何も感じなかった。憐憫の情も、怒りも、焦りもなかった。ただそこにあったのは合理的な決断しかなかった」
「そうかしら?」
「どういう意味だ?」桐生は挑発するような目で有理を見た。
「合理的な決断だったにせよ、そこには必ず〝感情〟があったはず」
有理からの意外な反応に、桐生は驚いたようだが、有理は続けた。
「〝冷たい合理的な行為者〟というのはあり得ない。徳丸から聞いたことがある。人間である以上、決断には感情が絡むのよ」
「俺は生まれながらにして生き延びるためだけに創られた冷徹なロボットだぜ。おまけに三原則も脳内に焼き込まれていない」
「依頼を反故にして私を殺さず、助けようと決断を下したのも、あなた自身が気づいていないだけで、何かの感情に支配された結果かも」
「恋愛対象になるかも、とか?」
彼はふざけてそう言ったが、彼の目は笑っていなかった。
「俺はただ自分が生き残ることを考えただけだよ」
桐生はそう冷たく言うと、席を立った。
「もう一本ビールを持ってくるよ。君は?」
「いただこうかしら」
なんだかんだで有理もビールを一本開けていた。
「第22章 人格の独立」へ続きます。




