第20章 シベリア鉄道
桐生游輔は、大河内有理を複座に乗せ、北太平洋から一気に日本列島、日本海を越え、F-35で、ロシア領に無許可で侵入した。
夜明けも近い。ステルスとは言っても、内陸奥深くまで行けば、目視で探知される可能性も高くなる。そこで桐生は、ロシア・プリモールスキークライの州都で、東シベリアの玄関口でもある、ウラジオストクを着陸する場所に決めた。
もっとも京の考えが及ばない————やつはスーパーコンピューターによる計算と言ったが————その場所とはどこだろうか。そう考えたとき、桐生にとって一番「無い」答えである、ここを選んだ。
あのシベリア鉄道のターミナルでもあるウラジオストク駅は、アムール湾を抱えるようにして伸びる、ムラヴィヨフアムールスキー半島の突端に位置している。
桐生はさらに、その半島の先端からほど近い、ルースキー島に着陸した。鬱蒼とした森に、草原があり、わずかな隙間に着陸した。ここは近年まで軍事基地として一般観光客の立入を禁じられていた島だ。今も「極東連邦大学」という軍が運営する大学があり、それでいて島には手つかずの自然が残っていた。植物研究者たちや、風光明媚な景色を求めて観光客が、ウラジオストクに来たついでに立ち寄る場所でもある。
これがもし二十年も前であれば、とても旧西側、特にアメリカ軍謹製のF-35で着陸することなどできなかっただろう。
すでに着陸地点には仲間たちが来ていた。小さな灯りで、着陸を誘導してくれた。
「あの人たちは?」
有理は長い戦闘機での長旅から降りると、聞いた。
ロシア人と思しき四人組が、小型のバンの中へと案内すると、すぐに走らせた。
「信用できるの?」
「お金次第かな?」
「私は無一文よ」
「あの戦闘機を売った金ならある」
「え? あなた、気は確かなの? 旧東側に、西側の最新鋭機を売るなんて。それにそもそもこれは、日本政府の所有物よ。どうかしてる」
〝東側〟なんて政治的な言葉は久しぶりに聞いた気がする。戦場に身を置いていた者としては、どちらの側もない。
「じゃあ、どうすれば良かった? 日本上空を通過せずに、自治大学へ戻れば良かったか?」
有理はぐうの音も出なかった。おそらく彼女の中にも最適解はないだろう。自治大学は有理を監視していた。
やがて走るバンの前方には、煌びやかにライトアップされた、日本だと横浜ベイブリッジのような、聳え立つ尖塔に数多く張られたワイヤーで道路を吊り上げた、巨大橋が見えてきた。
運転していたロシア人が、大きな声で言った。
それを有理に通訳して教えた。
「ここは島とウラジオストク南部とをつなぐ3,000mの世界最長の斜張橋で、ルースキー橋と言うそうだ。まあ、開通は2012年だから、中東のどこかで、ちがう橋がすでに〝世界最長〟を謳っているかもしれないけどね」
「あなたロシア語が分かるの?」
「ああ、ロシアでの仕事も多かったからね」
一瞬の沈黙があったので、続けて言った。
「もちろん、あまり人様に自慢できるような仕事ではなかったよ」
有理はそれ以降、何も話さなくなった。
一時間もしないうちに、バンは大きな駅舎前、ぎっしりと車が居並ぶ中に停まった。
ウラジオストク駅————
そこで、ロシア人一味から桐生、有理にそれぞれ書類を手渡された。
「これって・・・・」有理が受け取ってびっくりしたようだ。
「よく犯罪者や、後ろめたい人たちが使う偽造パスポート。あとは観光ビザと、バウチャーチケット。少額だが、ルーブル紙幣。この国では、今も異国の人間が、自由に旅行することを禁じている。あらかじめ決められた旅程と、現地旅行代理店を通した前払いバウチャーチケットが必要になる」
有理は、パスポートにある自分の写真をじっと見ていた。
「日本のパスポートの偽造費用は高くってね。ICチップが入っているから。でもそのパスポートには入っていない。どうせロシア内では目視の確認しかされないだろうと思って」
「どうやってこれを作ったの?」
有理の声には少し怒気が混じっていたが、桐生はかまわず続けた。
「世の中、金さえあれば何でも偽造可能だよ。顔写真なんかは、ネットを探せばいくらでもあるでしょ。証明写真みたいな正面から撮ったものが見つからなければ、小さいぼやけた画像でも、何種類かの横顔があれば、重ね合わせられて精密な3D合成写真だってできる」
有理は勃然として、さっさとバンから降りたが、すぐに冷たい外気にさらされ、「ひゃっ」と言って立ち止まった。そこへ桐生が、厚手のコートを持って行って、肩からかけてやった。迎えに来ていたバンは、二人が降りるとすぐに立ち去って行った。
「十一月でも、ロシアではもう氷点下になるところも多い」
有理は振り返ると、驚いたような顔をした。
「あなたその顔、どうしたの? 血だらけじゃない!」
そういえば、と額に触れると、濡れる感触があった。桐生はこれくらいの傷だとあまり感じなくなっていた。額から流れた血は、スーツ下のワイシャツまで達し、胸元を赤く染めていた。
「あの艦から脱出のとき、キャノピーの中を銃弾が走り回ってヘルメットのバイザーを割った。そのときかもしれない」
「これじゃ、目立って歩けないわ。ちょっと待ってて」
そう言うと、有理は今の今まで後生大事に守っていたクーラーボックスを置き、駅舎へ走って行こうとした。
「どこへいくつもりだ?」
「あなたはそこにいて! 売店とかあるかもしれない。絆創膏か包帯か、とにかく何か見つけてくるわ」
たしかに早朝とはいえ、ロシア号の出発は間近に迫っている。開いている売店はあるかもしれない。それにしても、強襲を受けたときのドローンを墜落させたり、ロシア語も分からず売店へ行ったりと、意外と肝が据わっているな、と彼女のことを思い直した。
しばらくして、彼女は憤懣やるかたないといった表情で戻ってきた。
駅舎近くの小さなスーパーで、果たしていつ頃仕入れたものだろうか。かなり黄ばんだ包帯を買ってきた。
「まったく英語が通じないのね」
売店のおばちゃんがイライラして釣り銭を床に投げつけたから、拾って投げ返してやったわ、と怒った。だが、彼女はそう話しながら手際よく包帯を頭に巻いていく。
「手慣れているね」
「私、ラグビー部のマネージャーをやっていたから。これくらいの傷は日常茶飯事」
「大学のかい?」
「まさか。大学では研究一筋。高校生のときにね」
そうか、大河内有理には、日本のごく一般的な青春時代を経てきているわけか。そこで桐生は一抹の寂しさを感じたが、彼女が言った。
「そこで徳丸と出会ったの」
「そうなのか。で、いま彼はどこに?」
「彼は科学者のくせにクリスチャンだったから、今頃は天国よ」
それでは————いくら桐生が「徳丸省吾」と主張したところで、無駄だったというわけか。
「そうか。それは知らなかった。すまないことをした」
「いいのよ。過ぎたことだし、依頼人に騙されて来たわけでしょ」
「でもなぜ、科学者のクセに、と言うんだ。クリスチャンではいけないのか?」
「あなたは、火星と地球の間の軌道上に、2,000年も前から、陶磁器製のティーポットが周回しているって知ってた?」
有理が突然、質問してきたので戸惑ったが、
「いや、知らない。冗談だろ?」
「本当に冗談だと思う?」
「あり得ない」
「そうね。観測できない以上、あり得ない、と答えるのが正解。でも、発見されるまでは皆、ティーポット不可知論者でないといけない」
「なるほど」
「だから私はどの宗派にも属さない。一方で不可知論者でもある。神の奇跡を現実的、科学的に、目の当たりにすればすぐに、その神に帰依するかもしれない」
「まさにその〝神の証拠〟とやらが出てきたじゃないか」
「でもそれは私たちが考えている〝神〟ではない可能性だってある」
「どういうことだい?」
「地球を実験体として扱う悪魔かもしれない。あるいは人間の進化をつぶさに観察し、その生き死にを楽しそうに外からシミュレーションして眺めているマッドサイエンティストかもしれない」
科学者というものは、いつもこういう考え方をしているのだろうか。あまり理知的で無い桐生にとっては、常にこうしたことを考え続ける人間の頭は想像できなかった。
「もちろん、私はクリスチャンを非難しているわけではないし、それは個人的な体験や考えであって、人格まで否定するわけじゃない。私は徳丸のことを愛していた、ただそれだけ」
有理はそう言って、ハイ出来上がり、と桐生の頭をポンと叩いた。
桐生は、停めてある隣の車のサイドミラーで、包帯具合を確認した。これは目立。少し慎重に行動しなくてはならないだろう。
「さあ、これからどうするの?」
「シベリア鉄道でモスクワに行く」
「え? シベリア鉄道って・・・・ウラジオストク空港へ行くために鉄道を使うんじゃないの?」
「空路は使わない。安易にイタリアへ行く方法を選択したら、ヤツらを出し抜けない」
「モスクワまで鉄道で行くと、どれくらいかかるの?」
「六日間」
「それじゃ、学会に間に合わない!」
「学会に間に合わないという点が重要だ。だが、モスクワに着く前に、ヤツらはここを嗅ぎつけて踏み込んでくるよ」
「それじゃまるでシベリア鉄道に乗る意味がないわ」
「ヤツらはいつも先回りして待ち構えていた。おそらく空路を使えば、着いた先の空港で拘束されるのがオチだ。今度はこちらが準備を整えてから迎え撃つ」
有理はそれでも納得していないような表情だ。
「俺たちは、ずいぶんと寝ていないし、食べていない。ヤツらと対峙するには、こちらも体力をつけて、余裕をつくっておかないといけない。時間が要る」
そう言ったとき、桐生は急激な眠気に襲われた。まず列車に乗ったら、まずは爆睡だな、と桐生は思った。
「第21章 囚われた過去」へ続きます。




