第16章 脱出
桐生は、大河内有理に連れられて留置場を出て廊下を足早に歩いた。長い廊下だった。真っ白に塗られた壁と天井は、クリーンルームか、病院の病棟をつなぐ廊下のような感じがした。
桐生たちが歩く天井にだけ、LEDの真っ白の光を放ち、やがて彼らが遠のくと、自動的に消灯していった。
銃器を持った警備兵は一人も待ち伏せておらず、逆に拍子抜けした。
「すべての施設は、セキュリティートークンで管理されているのよ。だから人員も必要最低限になっている」
「俺の腹に入っているやつか」
「すでにあなたのトークンID情報は、書き換えておいたわ」
「いつもここにいる人たちは毎日飲むのかい?」
「まさか。恒常的にラボなどを行き来する人間には、肩のどちらかの皮膚下に、小さなICチップが埋め込むの」
「君の肩にも入っているのか」桐生は驚いて言った。
「ええ、もちろん」
「まるでロボットか、家畜だな」
「ずいぶんトゲのある言い方ね」
「いや、誤解しないでほしいんだが、俺がそういった管理をされるのがイヤなだけで、他意はないよ」
そうして有理の研究室に着いた。
ほとんど白い壁と同化しているかのような、白い扉の横には、「Y.Okohchi」と、電子ペーパーディスプレイに印字されていた。
ただ大河内有理が前に立っただけだが、解錠される微かな音を発し、扉が開いた。これも彼女の肩に埋め込まれたチップと、桐生の腹の中で踊っているトークン入り錠剤のお陰か。
研究室の中も廊下も同様に、真っ白な壁に天井、何かを格納する棚も、壁にフラットな形で収められ、平面キューブの中に閉じ込めらる感じがした。
家具といえば、中央に白い何の材質で出来ているのかもわからない大きな作業台と、背もたれのないイスが一脚のみだ。そういえば窓もない。
「息苦しい感じの部屋だ」
「私は落ち着くけどね」
「そうかな? 俺にはサイバーパンクの世界に出てくる、核シェルターに入った気分だ」
そう思う人もいるかもね、と大河内有理は少し笑った。硬い表情以外を初めて見た。よく見れば美人で笑顔がかわいい女性だった。
彼女は棚の一部を開けて、小さなクーラーボックスを中央のテーブルに出した。
「これが、証拠ってやつか?」
有理が、その質問に頷いたとき、唐突に警報が鳴り響いた。
彼女は、すぐさまコンソールを操作した。
「部外者が侵入したときの鳴るアラートだわ・・・・」
「ほらな、言ったとおりになった。出るぞ」
そう言っている間に、有理の研究室の扉が開いて、警備兵が入ってきた。
そこを桐生は低い姿勢から、素早く滑り込み相手の足を払った。警備兵は、勢い余って転倒した。そこへ桐生は組み付き、銃を持つ腕を捻り上げた。彼は銃を取り落とした。
もう一人やってきていた警備兵が、銃口を向けたので、取り落としていた銃を取って、銃把を相手の鳩尾に叩き込んだ。身体がくの字に折れ曲がったところ、再び銃把で頭部をなぎ払った。
「乱暴はやめて!」
「乱暴? これでも君の手前、手加減しているんだ。それとも、こいつらに俺と一緒に撃ち殺されたかったか?」
「まさか。警備兵が私たち研究者を撃つわけがないわ」
そのあまりに楽観的な考えに呆れつつも、桐生は銃を構え、研究室外の様子を伺った。廊下の突き当たりに、何人かの警備兵が壁越しに様子を伺っているのが見えた。
桐生が唐突に手を廊下に突き出した。と、同時に激しい銃撃音が鳴り響いた。
「彼らは手だけで俺と君とで区別して撃っているのかい?」
大河内は押し黙った。
「準備はできたか?」
「分かったわ」
消え入るような声で返してきた。
「俺の背中を見て付いて来い! 遅れるな!」
そういうと、彼女は桐生の背中を手で掴むのを感じた。桐生は、気を失っている警備兵の胸元にある特殊閃光弾を手に取ると、廊下に向かって投げつけた。
「耳を塞げ! 眼を瞑れ!」
程なくして、激しい爆発音と振動が伝わってきた。大河内はきちんと目を瞑り、耳を塞いでいたはずだが、悲鳴を上げた。
「行くぞ!」
そう言って桐生は、足取りの重い有理を、片手で引っ張り上げながら、銃を乱射して、有理の研究室を出て、後退するように歩いて行った。
すぐに研究棟を出るガラスの扉があった。扉のランプが赤く、扉はビクともしなかったが、桐生は持っていた銃でドアノブに向けて連射したあと、足で蹴り上げた。ドアノブとともに、強化ガラスの扉は粉砕し、勢いよく弾け飛んだ。
「セキュリティを高めるなら、せめて防弾ガラスにしておくべきなだ」
桐生は、足がすくんで動きが鈍くなった有理の肩を掴み、外へと躍り出た。
自治大学へ来たときに駐機したはずの場所に向かえば、すでにF-35がエンジン始動していた。起動準備を終えているようだった。
その側には、大きく手を振る白衣姿の救急隊員がいた。
桐生は周囲の安全を確認すると、有理にまずあの救急隊員に向かって走れと指示した。
その後を、援護するように桐生が銃を構え、後ろ向きになって走る。やはり建物を出てきた警備兵たちが追うように出てくると散発的に撃ってきた。桐生はすかさず応射した。意外にも一掃射で、相手は怯んで後退した。やはり実戦兵士とちがって戦闘慣れしていない。
ようやく海老原に合流した。
「遅せえじゃねえか!」
「すみません。ただ、ここの警備兵は、ふつうの軍隊とちがって練度は低い。ノーコンですよ。あるいは、彼女を傷つけずに捕まえろ、との指示が出ているのかも」
「準備オーケーだ。いつでも離陸できるぞ」
「さっきの人! どうやってここへ?」
そこで有理はようやく、海老原の変装に気づいて叫んだ。
「毛布の忘れ物を連絡してくれただろ。それに、俺の腹の中にはまだ、トークンとやらがいまだ内臓を通過中だ。入り口の検問も引っかからなかったよ」
驚く有理に、桐生は説明した。
「初めからここを脱出するための芝居を打ったんだ」
「こいつは胸ポケットに入れた、金属製名刺入れをキレイに撃ち抜きやがった」
海老原は、ひしゃげた金属製の名刺入れと、胸をまくって青痣を見せつけた。有理は一瞬目を背けたが、それを横目で見て驚いたようだ。
「そこを狙って?」
「僕はプロの殺し屋ですよ? まあ、至近距離だったし簡単でした」
「でもなんで二発も撃つ必要があった?」
「だって海老原一尉が、一発で倒れてくれなかったから」
「馬鹿野郎。あそこから崩れ落ちる名演技が始まるところだったんだ。それにお前が言っていたより痛えぞ。下手すると肋骨まで行っている」
「無事で何よりでした。一尉」
そう桐生が敬礼すれば海老原は舌打ちをしてから、
「まあ、すべてあいつのシナリオ通りさ」
海老原は有理に言えば、彼女の強張った表情が、心なしかほころんだ。
桐生は、集結しつつある警備兵に掃射したあと、今度はさきほど警備兵から奪った催涙弾を、投擲した。銃を海老原に投げ渡すと、その隙に、有理を後部座席に座らせた。
「戦闘機なんて乗ったことない」
桐生は、有理にシートベルトとヘルメットを着用させてから言った。
「飛行機はみんな同じだよ。乗り心地のちがいだけで」
「乗り心地はいいの?」
「俺が乗った飛行機の中では、下から三番目くらいかな」
海老原が桐生の代わりに援護射撃しながら、機体のところまで後退してきて、機体を叩いた。桐生に言った。
「おい! お前はこの後、どこへ行くつもりだ?」
「何も考えてないですね」
「だと思ったよ。少しは先を考えて行動しろ」
「イエッサー」
「若い、ってのはいいところでもあるがな」と付け加えた。
「それにしてもどうしてここまで協力してくれたんです?」
「無茶しやがるからだ」
まるで自傷でもするかのように、と付け加えた。そう言われると、そのような感じもしてくる。
「最近のやつはどいつもロジカルなやつが多くてな。お前みたいな感情で突き動かされているやつは珍しいし、嫌いじゃない」
「俺が、ですか?」
彼が意外なことを言うので驚いて聞いた。
「お前が気づいていないだけだ。感情の希薄なやつが自由な選択なんかできん」
桐生は、そんなことを言われるのは初めてだったので、戸惑った。
「北太平洋上に展開中の船に向かえ。アメリカ海兵隊の強襲揚陸艦『アメリカ』が、おそらく航行中のはずだ。そのF-35にはその大まかな座標を入力済みだ」
「アメリカ海兵隊?」
今までの経緯から、アメリカ軍には何かしら力が働いている。手を貸してくれるとはとうてい思えなかった。桐生の杞憂を察したのか、海老原は言った。
「大丈夫だ。艦長とは個人的な古い知り合いでね。環太平洋合同演習でも何度か一緒にやっているし、尖閣諸島奪還では命の恩人だ」
「そういった米軍の航行情報は、機密事項では?」
「いや、何も機密は漏らしちゃいないさ」
そういって、海老原は右手首を捲って見せた。腕時計にも似た、曲面ディスプレイが巻かれていた。透明感のある気泡のグラフィックが形を変えながら蠢いていた。
それは、ネットへ直接つなぎ、個人的な連絡をP2Pで秘匿に行える機器————リープ・フロッギング機能付き腕時計だった。個人や小さな会社が打ち上げたキューブサット衛星を経由してちょっとしたメッセージをダイレクトに送り合うものだ。料金やサービスの質はマチマチだ。地球の反対側まで届くものもあれば————そのためには複数の衛星を経由する必要があるので高価だ————実際のエアメールのように、届いて受信するまでに時間がかかるなどある。
「一週間後の昼に、渋谷でうまいワッフルの店で食べる約束をしている。そこから、逆算すれば、いまどの辺を航行しているかは、おおよその検討がつく」
いかつい中年男性が二人、しかも一方は角刈りの日本人で、おそらく相手はガタイのいいアメリカ人がテーブルを挟んで、焼きたてのワッフルをがつがつと食する約束とは。その様子は、きっと笑えるにちがいない。
「あと、艦の側まで近づいたら、合い言葉を言え。これは俺と、その艦長しか知らない言葉だ。きっと手助けをしてくれるだろう」
その合言葉を桐生の耳元で囁いた後に、海老原は操縦席の桐生に叫んだ。
「グズグズするな。行け!」
集結していた警備兵たちが、盾を装備して態勢を立て直して突っ込んでくるのが見えた。ふつうは逃亡者なのだから、盾など装備せず、捕縛を優先した、素早い展開をするべきだが、適切な対応でなくて逆に助かった。
これなら逃げられそうだ————桐生は前の操縦席に座り、ヘルメットを被った。海老原は、警備兵に向けて発砲しながら、こちらを見ず、行けとのハンドサインを送ってきた。
桐生はコックピットの天蓋を閉じると、ディスプレイをタップして離陸モードにレイアウトした。
《離陸する。後部座席、用意はいいか?》
しばらく間のあった後、
《え、ええ・・・・》くぐもった声が返ってきた。こんな状況だ。ムリもない。
F-35はエンジンを轟かせ、垂直上昇に入った。一瞬だけ、ふわりとする浮遊感と、ビリビリと全身を貫くエンジンの振動があった。
コックピットより見下ろせば、海老原が銃撃をしばらく行った後、弾倉が切れたのか、銃をその場に捨てて離脱した。近くに停めてあった救急車に乗ると、急発進して大学出口へタイヤを滑らせるように走っていった。
パラパラと散発的な射撃音が聞こえたが、警備兵の腕で夜間に離陸するこの機体の重要な箇所を打ち抜く可能性は低いだろう。
すぐに水平飛行に移った。桐生はスロットルレバーを倒して、急角度で上昇を開始した。
手元のディスプレイを操作し、目標付近と思われる座標を確認した。目指すは北太平洋、東京から約一二〇〇キロメートルの距離にあった。今の燃料からすると、ギリギリかもしれない。その座標周辺に、その船がいる保証はどこにもない。そのまま燃料切れで海に墜落する可能性だってある。
だがこれは同時に、京の先回りを防ぎ、意表をつくことにもなる。それが無謀で無茶なほど、有効になるのではないかと思った。あとは、海老原が「友人」と呼ぶ人間が、桐生の助けに応じてくれるかどうかに、賭けるしかなかった。
「第17章 神が倒す進化ドミノ」へ続きます。