第13章 世界のアーキテクチャ
「第14章 嘘の嘘は罠」へ続きます。
桐生は、ホテルで屈強なボディガードに挟まれながら、エレベーターに乗り、最上階まで上がった。途中で、他の宿泊客とは一人も出くわさなかった。貸し切りなのだろうか。それともホテルという皮をかぶった巨大な秘密組織の施設か。あれくらいのことをしでかし、いろいろな事件を隠蔽できるということは、政府周辺も絡んでいそうだ。
最上階に着いて、ずいぶんと色彩のある、細やかな布地でつくられた荘厳な両扉を開けると、豪華なシャンデリアが吊り下げられているほど天井が高い、大広間に入った。結婚式場にでも使われそうな大ホールだ。
真ん中には、大きなテーブルが置かれ、何の飾り気もない真っ白で清潔感が漂うクロスがかけられていた。そこに椅子は二脚。一脚はすでにあの老紳士が座り、もう一脚は、その真正面にあって、空いていた。
誰も何も言わなかったが、そこが自分の席だろうと、桐生は断りもなく座った。正面で朝食を採っていた、あの老紳士が、上品な仕草でゆっくりとナプキンで口をぬぐった。皿の横にある真っ赤な色のジュースは、まさかホンモノの血液ではあるまいな、と思った。
「昨夜はよく眠れましたかな」
「ええ、とても。死んだように」
老紳士はふふっと小さく笑うと、
「あなたも朝食はいかがかですかな?」と聞いてきたので、
「いいえ、けっこう・・・・」
そう言いかけてから、
「いや、そのジュースだけ、いただこうかな」
一応、本物の血液じゃないことを確認しておこうと思った。
入り口にじっと待機していた、ホテルの従業員なのか、このボスの部下なのか分からない男性が、ロボットのようにお辞儀をして部屋を出て行った。誰か別の部下の血液でも絞りに行ったのだろうか。
「そういえば、お名前を聞いていませんでしたね」
ドラキュラ伯爵と呼ぶと、気を悪くされるかもしれない思い、尋ねた。
「名前、ですか。とくに名乗るほどではないですが、ケイとでも呼んでいただきましょうか」
K————自分はジェームズ・ボンドかな? なんだかアホらしくなってきた。
「じゃあ、Qはどこにいるのかな? 秘密兵器を受け取らないと」
「おもしろいご冗談を。そちらのケーじゃありませんよ。数字の京《けい》です。兆の1万倍。すなわち10の16乗ですよ」
「ペンネームか何か?」
「本名ですよ」
そう言うと、京は笑って付け加えた。
「あなたのように偽名ではない」
「どうしてそれを知っている?」
桐生は少しムッとして言った。そのとき、入り口から真っ赤な液体が運ばれてきた。京はそれを飲んでからどうぞ、といった手つきで促した。
まるで目の前の教祖様から何か怪しげなイニシエーションを受けているようだった。一口ふくんでみた。味はどうみても、フレッシュで、強い甘みのあるトマトジュースだった。
「人は右へ行くか左へ行くかを決めるが、これはある程度、過去の行動から予測可能です」
京は、そう唐突にそう切り出した。
「未来はあらかじめ決まっている、と言っても過言ではない」
「じゃあ、いま俺がトマトジュースを頼んだことも?」
彼はかぶりを振って答えた。
「残念ながらハズレました。朝食は召し上がらないとの予測は出ていましたが」
馬鹿らしい。そんな計算までする必要があるのか。
「未来は必ずしも決まっていない、と」桐生は皮肉を込めて言ってやった。
「たしかにそれは認めざるを得ません」
拍子抜けする京の答えだった。
「ただ、それは、その予測値から大きく外れて行動する人ほど、選択されるはずだった未来が、通常よりも遠のいていくのです」
言っている意味がまったく分からなかった。それを推し量ったように京が言った。
「今は理解されなくてけっこうです。順を追って説明させていただきます」
京は入り口にいる従業員兼、部下に、目配せした。
部屋のライトが少し落とされた。
彼が、さっと目の前を払いのけるような仕草をすると、テーブルの上にホログラフィックな立体図形が聳え立った。この大きなテーブルにかけられた、味も素っ気もない白いテーブルクロスは、特殊皮膜でコーティングされた、投影機材だったというわけか。どうりで肌触りがよくないわけだ。トマトジュースをこぼさないように気をつけないといけない。
彼は、目の前に投影された立体的な画像を、手で払いのけるようにしてどんどん切り替えていった。
見覚えがある図形が表示された。東京都と思われるマップが現れ、その地図上を無数の点が蠢き出すのが見えた。
さらにその点の動きは階層を成し、幾重にも積み上がっていった。リアルタイムにこの立体映像を描画して、ホログラムで表示するとはたいしたスペックの装置だ。しかもこのホテルにわざわざ運び込んだのか?
「人間は生まれてくること自体が奇跡という者がいる。そしてまた一人として同じ人間はいないという。そんなことはない」
やはり狂信的な宗教教団か? 桐生は少し嫌気がさして言った。
「どういう意味です? もう少しわかりやすく主張してくれませんか。でないと次の選挙で、あなたがたの政党名を書きませんよ」
「これは主義主張の類いではない。私はただ事実を、冷静に語っているだけです」
「いいや。人間が地球に誕生したのは奇跡だと、どこかの有料チャンネルで見たよ」
少し茶化して言えば、すぐさま回答があった。
「それは誤りです。この世に奇跡なぞ一つもない」京はそう言い切った。
「なんとも身も蓋も、ついでに言うと、夢もない話ですね」
「人はビッグデータの中にいる。さらに言えば、未来はほとんどすべて決まっていると言える。みんな、このように、毎日毎日、同じ行動を取る。同じ電車に乗る。そしてそれはいつも同じ時刻かもしれない。それらによる行動が、予測可能どころか、未来として固定されていくのです」
「うーん、どうだろうね」
桐生は、それには少し疑問があるので遮った。滔々と力説を続けていた伯爵は、拍子抜けしたように見えた。
「たとえばだけど、例外もある。人は病気になると行動が変わる。アフリカで従軍していたとき、いつも冷静沈着なベテランの隊長が、エボラ出血熱に冒されてね。混乱して、味方に銃を向けて乱射した。これは誰にも予期せぬ出来事だったよ」
京は肩をすくめて言った。
「その人の行動が、病気で変化することでも、どこで新型インフルエンザや薬剤耐性病原体が発生するのかを即座に予測可能となります」
「なるほど。どこを切り取ってもビッグデータだ」
「今のひとたちは、デジタル機器をいくつも手にして歩いておられる。その機械には必ずGPSが入っていて、逐一行動を記録されています。ケータイか何かお持ちですかな?」
「スマートフォンは一応、持ってはいるが、いつも電源を切っている」
「あなたなら、そうでしょうね」
そういって京は笑みを浮かべた。
「俺は、ICカードなんかも使わない。電車に乗るときはすべて切符を現金で買う。クレジットカードも持たない。すべて現金決済だ。ポイントカードも作らない。財布がかさばるだけだからね」
「さすがですね。個人情報の管理を徹底しておられる。それでも、街中には監視カメラがあふれているのはご存じですかな。コンビニや、喫茶店内にもね。避けても、あなたの行動は逐一記録されていますよ」
「まあ、俺は有名人でもないし、もしそのすべての映像データをチェックしていたら、それだけの専任アルバイトを雇ったとしても、一生分の仕事になるだろうね」
「とても良く出来た顔認識アルゴリズムがあるのはご存知ですかな?」
「ある程度の角度が必要だろ? 俺の行動範囲内の監視カメラの位置は、だいたい把握している。コンビニにも当然設置しているけど、開店した日からずっと記録しておくほど、大容量の記録媒体が店の奥にあるとは思えない。ましてや制限つきのネット経由で、逐一本部に送っているとも思えない。何日かおきにリセットされ、ループしているはずだ」
「なるほど。まったくその通りです」
「そろそろ本題に入ってくれませんかね?」
桐生は少し苛ついた。
「これは失礼しました。まずは『奇跡はない』ということと、『未来は決定している』ということをご説明差し上げてから、本題に移ろうかと思っていました」
京は、目の前にある、東京都の地図上で蠢く点集合のホログラフィックを手で払った。
代わりに見慣れぬ大陸の地図が立体的な画像が差し込まれた。ほぼ同心円状に拡がる大地だ。一瞬、こんな地形が日本、いや地球上にあったかな?と思った。それを察したのか、京が説明した。
「これは、南極大陸です」
「なるほど」合点がいった。
「実は、ここで神がいるかもしれない、という証拠が見つかってしまったのです」
南極大陸でも内陸部、少し標高の高い辺りに矢印アイコンが現れた。
「おっと。危うく『奇跡だ!』と叫ぶところでしたよ」
やはり狂信的な信仰グループだったか。さて、ここからどう逃げようか————そんな考えが浮かび始めていた。ただ、少しだけ話に付き合って、自身の不信感を隠す必要がある。
桐生は続けて聞いた。
「見つかってしまった? ずいぶんと不都合な真実みたいな言い方じゃないか」
「南極にある、日本の基地で発見されました」
「そういえば今朝の新聞に、南極で惨劇があったっていう記事があったね。ただ、現場に神様が居合わせたとは書いていなかった」
京は押し黙った。まさかその惨劇とやらと、何か関係があるのだろうか。まあ、こういう依頼や任務に危険はつきものだが、この件に関しては、どうもキナ臭い感じがする。
「いえ。これは神・・・・と、人は呼ぶでしょうが、私どもはアーキテクトと呼んでいます」
桐生はその詭弁に鼻白んだ。地球の創造主。完全に、イコール「神」ではないか。ただ、アーキテクトと呼ぶと、不思議と「奇跡」という言葉を持ち出しにくくなるし、なんだか荒唐無稽な、スペースオペラ的B級映画に出てきそうな気がする。
「せっかく発見された証拠を闇に葬りたいということか」
「お察しのとおりです」
「でもなぜ?」
「私の想像する神ではないからです」
「少なくとも人型ではないと?」
その桐生の答えに満足したのか、京はにこやかに言った。
「全知全能の神なら、このようなミスを犯すはずはないのです」
「神様だってミスはするだろう?」
「では逆に質問したい。その不完全な神を創ったのは誰なのか?と」
「なるほど。神が完全無欠で、唯一無二の存在でないと、議論は無限後退に陥るわけだ」
老紳士は少し驚いた顔をして言った。
「ずいぶんと博識でおられる」
これは皮肉か? いや、彼は純粋に驚いているのかもしれなかった。自分がまだ彼に心を許していないだけで。
「何か特定の信仰はお持ちですかな?」
「いつもポケットにしまっているんだけどね」
ジーンズのポケットを裏返して見せたが、もういい、とばかりに彼は手で遮った。
「昔、潜伏任務の一部として、一時的に特定信仰を装備することはあったよ」
「なるほど。どおりで」
「とりあえず俺は、その証拠を隠滅し、それに関係する人物を殺せということか」
「ええ。任務の依頼は、そういうことになります」
「でもなぜ俺を選んだ? すべての適任者を洗い出して確率を出したとするならば、失敗する確率が2%未満は高い。本当に他にいなかったのか?」
「さすがですね。その通りです。たしかにもっと高い確率を出した人間はいました。それこそゴマンとね」
「じゃあ、そいつらに頼めよ」こんな面倒くさい拉致まがいなことをされてまですることなのか。
「お気を悪くなさらないでもらいたい。私どもがあなたを選んだのは、あなたが未来の選択を行える能力をお持ちだからです」
「俺に?」
「その原因は、あなたが、ある方[#「ある方」に傍点]を射殺した瞬間に、世界が揺ぎ始めたせいです」
「なぜそれを知っている?」
桐生は思わず京を睨み返した。怒りを露わにするほどではないが、喰ってかかるような言い方にはなった。
「私どもは、あなたのすべてを記録して、分析しています。何もかもね」
「ビッグデータってやつね。もうけっこう」
「未来は、少し先の未来からやってきます」
京はかまわず説明を続けた。
「たいていの人は、周囲からの影響を受け、多くの情報を得てから、選択をする。それは自分にとって最善の選択だと信じている。だが、それはちがう。周囲からの入力を受けて、ただ決まった結果を出力している機械と同じだ」
「その話と、俺が人を殺したことと何の関係がある?」
「しかし、自動選択を留保し、ギリギリのところで変更すると未来が揺らぐ。不確定になるのです。これは主に、人間の感情に依るところが大きいのです。逆だ、という者もいるでしょう。それを気まぐれ、と呼ぶ者もいる。だが、それはちがう。そちらの方が主体性はより大きい」
桐生が感情をもって、karifa 射殺の選択をギリギリまで留保して迷っていただと? 到底信じることはできなかった。
「ところで、肝心のアーキテクトさんはどこにいるんだい?」
「あなたは、アリがどのように世界を認知しているのかはご存じですかな?」
いつも唐突に話を変えてくる面倒くさいヤツだ。飲み会とかでいて、たいていは女性からは嫌われるタイプだ。
「さあ。あいにくアリになったことがないんでね。アリのお友達でもいらっしゃるんですか」
控え目の皮肉を込めたつもりだったが、京はただニヤリとしただけだった。
「アリは視力がほとんどなく、触角を使って匂いを感知します。すぐ近くの仲間は見えても、人間は見えない。至近距離にいても、アリの世界では、人間は存在しないのです」
「なるほど、天に召します我らが神は、人間には認知できないほど、巨大な存在である、と。そうおっしゃりたいのですね」
「大きさの問題ではありません。人間の感覚器では認知できない場所にいるということになります」
「あ、そういえば子どもの頃、真夜中に、足のないお爺さんがトイレでうずくまっているのを見たよ」
「幽霊のことを言っているのですか?」
「いや。翌朝わかったんだが、地雷を踏んで両脚を失った爺さんが、這いずって助けを求めたが、結局トイレで絶命していただけだった」
桐生はそう説明して、トマトジュースをごくりと飲んだ。
きっと京も同じことをするかと期待したが、意外にも不快な表情を浮かべるだけだった。