第12章 マルチバース——多元宇宙
東京大学内でも、ここ、第一号ミーティングルームは、物理学研究室の中でも一番大きな会議室で、衛星経由の高速なインターネット回線が敷かれていた。塩田遠韋は、その部屋の一番末席に座り、正面にある巨大なプロジェクターに映し出される各国の会議室の様子を注視していた。
その中には、スイス・ジュネーブ近郊にある欧州合同原子核研究機構(CERN)のオフィスが映し出されていた。向こう側の研究者も、こちらと同じ二十名くらいいるだろうか。
通信回線は、W3Cからの許諾を得たメタフィルターレベル「最優先」————映像と音声は遅延無くリアルタイムで世界各国へ、CERNオフィス内の映像が中継されているはずだが、映像はずっと止まったままに見えた。そのせいか、CERNオフィスの重苦しい雰囲気がそのまま、この遠く離れたここ会議室へも伝播し、同調していった。沈黙が支配し、魔法をかけられたように誰一人として動けない。少しでも動けば、世界中の会議室の中で一人だけ浮いてしまうように思えた。
高度な送信アルゴリズムは、回線に載せられる前に、多くの沈黙と動きのない動画は削られて、ビットレートを大幅に節約するはずだ。「最優先」を申請する必要はなかったかもしれないな、と思い、塩田は一人苦笑した。
今日のミーティングの議長を務めるのは、CERNにいるジルベール・ジャウイ博士で、現在大型ハドロン衝突型加速器で検証実験を続けている。チームの中では最年長の研究者で、76歳のリーダーである。
彼は「超対称性理論」研究のトップを走り続けている研究者の一人だった。この理論は50年以上の歴史を持ち、今ある素粒子物理学の礎となり、数々の疑問を解消してきた、今や事実上の「標準理論」だ。
CERN研究室の地下100m以下に埋没された加速空洞は、スイスとフランス国境をもまたがる形で、全周は約27kmに及ぶ。しばしば日本では山手線の全周と比較されるほど、世界でも他に例を見ない実験施設だ。その空洞内に陽子ビームを高速に走らせ、互いに衝突させることによって、高エネルギー状態で起こる素粒子の振る舞いを観測する。
素粒子は、なぜ観測できるほどの質量を持ち、様々な力の値がどうしてそうなっているのか。ひいては現宇宙の成り立ちまで、その理論によって説明できるとされていた。
この理論によれば、既知のすべての素粒子に対して、超対称性粒子が存在していることになる。もしそうなら、宇宙の隅々まで充たしている可能性が高く、ひょっとすると、暗黒物質の正体そのものであるかもしれない、と考えられていた。
「第一期」と呼ばれた実験では、2012年、ついに最後の素粒子で、神の粒子とも呼ばれていたヒッグス粒子発見のニュースで世界中が沸いた。実はこの裏で、ヒッグス粒子が崩壊する過程において、この標準理論どおり、超対称性粒子の関与が疑われる観測もあった。しかし、いずれの兆候も、後の追試実験で否定されていた。そして、当の超対称性粒子自体の発見までは至らなかった。
それからCERNは加速器の陽子衝突頻度を大幅に上げ、検出器の精度向上を行い、満を持して、2015年から長年、第二期、第三期と実験が行われた。この実験では、超対称性粒子の発見だけに注力した。
だが、その実験は事実上、失敗に終わり、こうして沈黙の長い報告会が開かれたというわけだ。
長い沈黙の後、ジルがようやく口を開いた。
「我々、研究チームは、一度の実験で数兆回にも及ぶ衝突時の振る舞いの観測と、データ解析を何タームとなく繰り返し行った」
映像を見るかぎり、彼の口だ動いているように見えた。他の部位や、他の研究者の身体は微動だにしない。どこまでの映像は本物で、どこまでのデータが間引きされているのかまったく分からなかった。
「そしてついに、その兆候を見つけることができないという結果に至った」
ジルはそう息をつくように彼は言い、再び口を閉じ、石像のように机の上で両手を組み、顎を乗せ、あの姿勢に戻っていった。
この長くて重い沈黙を破るには、それ相応の実績を持つ人間でないとダメだろう。
やはりその口火を切ったのは、アメリカ・フェルミ国立加速器研究所にいるシャーロット・オルティス博士だった。このミーティングで、ジルベール・ジャウイと鍔迫り合いをやってのけるには、彼女の他にはいまい。
「超対称性理論の原則に沿うならば、どの対称性粒子も、ヒッグス粒子より質量が大きいはずもなく、第一期の実験で、すでに見つかっていたはずです」
ビデオ会議は、その会場の距離を感じさせることなく、ジャウイがみるみる渋面になっていくのを克明に捉えていた。
シャーロットは、素粒子物理学でも、超対称性理論ではない仮説も柔軟に取り入れ、素粒子の世界を記述すべきだと考える、いわば異端児的な存在だ。
また、難解な素粒子物理学の世界を一般の人たちにも理解できるような科学本を出版し、世界中でベストセラーになった。その若さと才能に溢れた美貌も、マスコミから注目を浴びる存在になっていた。もちろんこうしたことを快く思わない研究者も数多くいる。ジルベールも、そういった人間たちの内の一人だ。
「どういう意味ですかな? オルティス博士」
ジルは、大きな咳払いをした後に、刺々しい口調で聞いた。
「つまり、超対称性粒子はヒッグス粒子よりも質量が大きく、加速器でも作り出せないということでしょうか?」
逆に、シャーロットは畳みかけるように質問した。
それは暗に、そもそも超対称性粒子が、この世に存在しないという可能性にも言及していた。
これは————超対称性理論はここへ来て、限界を迎えたのかもしれない。それは素粒子物理学研究全体における、最大の危機ともいえる。
彼女の問いかけは、けっして攻撃的ではなく、素朴で、かつ冷静で、美しい声だった。その声は、この場に居合わせた研究者たちに、その堪えがたい事実を明確に突きつけられた、と思わせるほど力強く、彼女の放った衝撃的な嚆矢に思えた。
「少なくとも現在の出力の加速器ではムリだろう」
ジルは、ようやく吐き出すように答えた。
だが、シャーロットの容赦ない発言は続く。
「この宇宙は、なぜダウンクォークの質量が、アップクォークのほぼ二倍に設定されているのでしょうか。まるで最小質量の安定した水素原子をつくりやすく、生命の源である水や、有機化学に必要な炭素が発生しやすいように。もしかしたら、それぞれのクォークの質量比がちがう宇宙になっていた可能性もあったはずです。そのとき地球は、重水や、トリチウム水で構成された海で満たされていたかもしれません」
「たしかに今の超対称性理論では説明できないものの一つだ」
超対称性粒子が見つからない以上はね、と彼は呟くように付け足した。
彼女は、素粒子の世界観を多元宇宙論という仮説で描こうとしていた。
なぜ電子は今の質量を持つに至ったか? その答えは、「まったくの偶然」。
ビッグバンで、様々なパラメータを持つ宇宙が、同時多発的に生まれたが、偶然にも精緻に、微調整された、我々のこの宇宙だけが、たまたま生命を育み、今に至ったいうわけだ。先ほど彼女が言ったクォークたちの質量差違も、偶然だ。いずれも、値が異なっていたのなら、現在の人間はおろか、地球や、現宇宙の存在もなかったかもしれない。
となると、このようにパラメータが「たまたま」調整された世界で、偶然にも人間が産まれる地球も含まれていたということになる。偶然の中にいると、それはもはや偶然とは呼べなくなる。自分がたまたま生まれて、ここにいること。第三者から見ればそうかもしれないが、本人にはその「偶然」を本当の意味では理解できない。
しかし、この理論を持ち出されては、何も議論は始まらないし、いま観測していること自体も、すべて骨折り損となる。喩えるなら、砂浜に埋まっているはずもない金貨を探し続けていたことを意味する。素粒子物理学者としての存在意義も問われるような気がした。
塩田の知人だった、徳丸省吾がもし今も生きていて、この場にいたら、なんと発言していただろうか。彼は、腫瘍学の分野で「神の値」という論文を発表し、一時話題の人になった。
しかし、すぐにその説は、不定であるとの追試実験が行われ、その証拠は覆された。彼の論文は腫瘍学における黒歴史と言わんばかりに、闇に葬られることになった。そして彼は衝撃的な自殺を遂げ、その研究人生に幕を閉じた。
「ここでギブアップしてはならない」
唐突に老人は言った。
「前に進もう」
そう、ジルが力強く付け加えても、その場の雰囲気が一変することはなかった。
もはや頼れる標準理論はなく、ここに居合わせた人たち誰もが、宙に舞っているかのように、腑が抜け落ちたようだった。とはいえ、もしこのまま超対称性理論を貫き通すとしても茨の道が続くのには変わりはなかった。
それは、さらなる莫大な予算を投じて、CERNにある衝突型加速器の性能をより向上させ、超高出力状態での観測を行うか。あるいは、現在日本の福島で、CERNのものよりも、さらに大型で、超高出力の加速器を建設予定だが、莫大な予算面での折り合いがつかず、頓挫しかけていた。そこへ世界中の研究者がコミットする姿勢を示すことで、実現に向けての後押しを働きかけていくしかないだろう。
いずれにせよ、塩田は、少なくともこの分野の研究者たちは、一枚岩のままではいられないだろうと感じていた。この理論は瓦解したも同じで、また新しい仮説と、理論の構築が起こり始めるかもしれない。
塩田は、徳丸が遺した論文にある「神の値」の存在が、ずっと脳裏から離れなかった。素粒子物理学においても、その存在が横たわっているのではないか。その疑念をいつまでも払拭できずにいた。
「第13章 世界のアーキテクチャ」へ続きます。