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第10章 神の値

「2020年から、2021年にかけて新型コロナウイルスが蔓延したじゃないですか」


 徳丸省吾の研究室では、貴重な戦力である研究員(ポスドク)のアディル・カーンが言った。


 彼の座るテーブル上の液晶画面には、多種多様な腫瘍学(オンコロジー)に関係する研究論文が散らばって描画されていた。それらの資料と、この話題は関係ないだろう。ただの雑談だろうか。


 その画面の片隅には、最近家族で撮った写真も表示され、飾られていた。大家族のため、後ろに写る背景はわずかだが、彼はしばしば自慢げにインド・カシミール地方の自然の素晴らしさを自慢した。彼にとって「故郷」とは、その家族と風景が一緒になったものなのだろう。


「だが、もうだいぶ落ち着いてきている」


 2029年現在、新型コロナウイルスを完全に撲滅したとは言い難いが、いくつもの変異株を経ても、さまざまなワクチンの普及や、治療薬の進歩が目覚ましかった。いまや人類はインフルエンザウイルスよりも、抑え込みに成功していた。


「そうですね。ただ、蔓延していた時期、変異株がいくつも起きました。2020年末のほぼ同時期に、別の場所で、かなり酷似したものです」


「それなら知ってる。英国、南アフリカ、ブラジルだ。それが最初の大きな変異株と言っても良いね」


「その通りです。ヒト細胞に侵入する際に重要なスパイクと呼ばれる部位の変異です。発生元の中国・武漢のものとは遠縁ではありながら、まったくちがうものです。501番目のアミノ酸が変異したというのが共通点です」


「よく知っているね」


「ええ。この前、たまたま昔の論文を漁っているときに目にしたものですから」


「どうしてまた、その論文を?」


「この変異は、N501Yと呼ばれましたが、先ほどの三ヶ国で同時に発生してます。不自然ではないですか?」


「ウイルスは、自身のRNAを転写しながら増殖を行っていく性質がある。当然、途中で転写ミスも起きる。感染が多く持続したことで変異する回数が増え、凝縮された結果とも言えるのでは?」


 徳丸はそう答えた。


「でも、12月、1月と、ほぼ同時期というのが気になります。しかも発生してからパンデミックになるまで、一年は経っています」


「なにが言いたいんだい?」


()()()()()()()()()()()()としたらどうですか?」


「まさか。ある一定の期間をおいて、特定の変異株が生まれるよう仕組んだのかい? しかも誰が?」


「そういう論文を読んだんですよ。もちろん、誰が、とは書かれていませんし、発表当時、論文は誰からも相手にはされませんでしたが」


 アディルは笑って、手元のコンソールを操作した。


「実は、腫瘍学(オンコロジー)に関する論文でも、面白いものを見つけたんです」


「どんな論文だい?」


「少々お待ちを」と言って彼は、その大切な家族写真画像を大切そうに避けると、論文データを手で掻き集めた。


 徳丸省吾もまた、2026年に、日本からアメリカ・ニューヨークに渡り、この研究所での生活は三年になる。オンコロジー研究を続け、ついに自身の研究室(ラボ)を起ち上るまでは苦闘の連続だった。このラボには、彼の他にもう一人ポスドクがいるが、三つの研究室を掛け持ちしていたため、ここでは事実上、アディルが貴重な戦力だった。


 彼はつい最近までコロンビア大学の博士課程で研究をしていたが、一時休学して故郷へ帰っていた。インドのカシミール地方は、アクサイチンという印パ中の国境紛争地帯にほど近かった。紛争が再燃、頻発し、ついには両親や親戚の安否が分からなくなった。それを心配しての帰郷だった。


 だが、インド軍が、中国兵とパキスタン兵を退け、アクサイチンから追放したことで、彼の両親の無事も確認できた。彼の親族たちが住む地域も平穏を取り戻しつつあるという。


 とはいえ、一時、中国人民軍がアクサイチンから、さらにカシミールへ侵攻してきたため、銃弾が飛び交う中、家族と逃げ惑ったこともあったようだ。そのときインド軍と中国軍は拮抗していて、勝敗がどちらにどう転ぶか分からない状態にあり、インド軍の勝利はまさに奇跡である、とアディルは言った。


 そうして、アディルはコロンビア大学へ戻り、博士課程を終え、この徳丸省吾の研究室付けのポスドクとなった。


「いま、徳丸先生のタブレットに転送します」


 アディルは手元の論文の山から一束、指で弾き出すと、さっと徳丸に向かって手を払った。受信したという電子音と共に、徳丸のタブレットにその論文が表示された。


『あるアーミッシュのグループにおける突出した大腸癌罹患率についての研究』


 表紙が少し滲んでいて、所々にブロックノイズが載っていた。


「おやおや。スキャンデータかい?」


 2000年前後を境目にして、それ以前はタイプライター、あるいはパソコンのワードプロセッサで書いたとしても、わざわざプリントアウトして提出することが多かった。そのため、古い論文はそのままスキャンされた()()が多い。


「しかも、まったく聞いたことのない研究者だ」


「ええ。大学や専門の研究所の人間ではありません。在野の医療現場で働きながら研究論文をまとめたようですね。1990年代前半に、アメリカ合衆国のペンシルベニア州のごく一部の地域に、アーミッシュたちが住む町があって、その一団のDNAなどを含む健康調査を行っていたものをまとめた研究論文です」


「あまり参照された形跡がない」


「ええ。なぜかこの論文に付けられた検索タグが、『宗教社会学』とか『コミューン』といった医学とは程遠いものだったからでしょうね」


「そりゃあひどい。でもなぜ君が見つけられた」


光学文字認識(OCR)検索をかけておいたんです」


「おいおい、それってスキャンデータ化された論文を片っ端から文字起こしして、検索かけたってことか? メタフィルターに引っかかるだろう?」


「いいえ。検索ワードをスーパーコンピューターに投げて、一致する論文の主題と論旨だけをピックアップするようなスクリプトを喰わせただけですので、ネットワークの帯域はほとんど使いませんでしたよ」


「それでもスーパーコンピューターの時間貸しもバカにならない」


 ウチの研究室の予算はスズメの涙ほどなんだよ、と諭そうとしたとき、彼は補足した。


「アメリカ国立衛生研究所(NIH)が所有するスーパーコンピューターや、日本のスパコンは、夜間は安価か、使用用途や負荷によっては無料になるってご存じでしたか?」


 徳丸は両手を上げた。


「なるほど。降参だよ」


 アディルは笑ったが、こういった奇抜なアイデアを出し、それを実行に移せるだけの柔軟なスキルと知識が彼にはあった。ウチの研究所にはもったいないくらいの人材だ。


「とりあえずその論文に目を通してみてください」


 そう促されてサマリーにざっと目を通した。


「アーミッシュは閉鎖的なグループだ。大腸癌因子を持った家族が濃縮されて、罹患率が高くなるのは当然じゃないのか?」


 アーミッシュとは、キリスト教の信仰を忠実に守るため、他の共同体との接触を一切断ち、移民当時の生活を守って暮らしている人たちを指す。一切の現代的な機器を用いず、農耕と牧畜を行い、素朴な自給自足をしていた。いわゆる外部的な接触も少なく、近親での結婚も多い。


「たしかに大腸癌は、癌の中でも癌家系と呼ばれやすいですね。特に五十五歳以前での罹患率で顕著です。ですが、このグループで大腸癌が見つかる年齢は、60歳から62歳と極めて限定的です。


「60歳から62歳の間?」あまりに短いので驚いた。


「大腸癌は自覚症状に乏しいので、この誤差は、発生時期が異なったからではなく、そこにある癌に気がついた時期のズレとも考えられますね」


 徳丸は思わず笑ってしまった。本当にアディルは面白いことを考えつく。


「まさか、どれも同じ年頃に癌が発生したと? それは突飛すぎる」


 だが、彼は真面目な顔で続けた。


「あと、大腸癌に罹患した人たちは、すべてS字結腸です」


「すべて?」


 大腸癌とはいっても、発生部位は様々だ。大きく分けて、盲腸、直腸、結腸付近にできるが、すべてS字結腸にできるという点は不可解だ。


「しかも予後が良いはずの大腸癌の早期発見で、摘出手術や、放射線、化学療法と、手を尽くしても、ほとんどが命を落としてしまっています。とはいえ、アーミッシュの人たちは、現代的な医療と距離を置く人たちも多いですし、放射線や化学治療にまで行わず命を落とす方が多かったということもあるでしょう」


 それと————アディルが言いかけて、手元の論文を見た。


「徳丸先生にお渡しした論文にもブックマークを付けておきました。32ページをご覧下さい」


 そこには、執筆者によって編纂された、大腸癌に罹患する人たちの膨大な家系図だった。それを元に、おおよそ罹患するであろう人の予測も印が付けられていた。


「彼は、その家系図で導き出した予測から、予防医療とも言えない、法律ギリギリの手術を行っています。まだ大腸癌に罹患していない人のS字結腸を生活に支障が出ない程度に切り取ったそうです」


「おいおい・・・・」その医者の頭は大丈夫か————そう言いかけたとき、アディルは遮るように言った。


「でも的中したんですよ。癌が発現しました。しかし、その予防手術を受けた患者は、六十歳ちょうど、その切り取った縁に、悪性腫瘍が生じて、その一年後に命を落としました」


 その研究者は、膨大な摘出した癌組織と、治療から手術までの詳細な記録などから、データ分析を行い、論文を発表したが、この不可思議な現象を解き明かすことまではできなかったようだ。かといって論文自体に新規性もなく、癌家系に起きた偶然の出来事というだけで、研究者たちの衆目を集めることはできなかったのかもしれない。彼がただの在野の研究者だったということもあるだろう。


 徳丸はその論文にざっと目を通したとき、これは大規模で、好奇心に満ち溢れる研究材料になるかもしれないと、思った——


***


 この論文を読んだ後、すぐにその研究者が働いていたというペンシルバニア州のある病院と連絡を取った。彼はすでにこの世を去っていたが、彼が遺した手術時の病変部位が大切に保管されていると知らされた。


 徳丸は、ニューヨークから車で飛ばして、それらの研究データのコピーと、大量にある癌組織が入った容器を病院から、まったくの無償で借りることができた。それは、その研究者が「後世にもしこの研究結果を精査したいという人が現れたならば、喜んで提供してほしい」との遺言が遺されていたそうだ。


 徳丸は、オンコロジー・ラボに戻ると、その月からずっと、アディルとその病変を片っ端から分析機にかけ、DNA解析をするという地道な作業が始まった。


 数百はあろうかという検体だった。下手をすれば、何年もかかる作業だったが、その研究者の丁寧な仕事のお陰で、半年という短期間で、データを合理的に分類、分析ができた。


 そして、徳丸はそのS字結腸癌を患った人たちの共通項を見つけ出した。あるDNAの一箇所が完全に一致したのだ。


 同じ大腸癌でも、S字結腸ではない患者のDNAを解析したところ、その箇所の値は異なっていた。さらに徳丸は、米国内でS字結腸を罹患した人たちの病変部位を集めて回ったが、DNA解析を行うと、その箇所の値は、そのアーミッシュのグループで罹患した人たちと、まったく同じ値だった。


「信じられない・・・・」


 その解析結果にアディルが呟いた。


 この大腸癌に限らず、あらゆる癌病起因となる遺伝子変異は、数百という数に上る。「コピー数多型」と言われる、DNAの広範囲に渡る重複や欠損の組み合わせで起こるものだ。


 がんや肥満、糖尿病に関与する遺伝子が新たに発見されたというニュースを聞くにもかかわらず、治療法へなかなか繋がらない一因はここにある。これらの病気は、何十、あるいは何百もの要因が、ときには直観に反するようなやり方、つまりは相互作用することによって引き起こされる。それだからこそ、それらの要因がすべて解明されるまで治療法は見つからないのだ。


 むしろ、S字結腸癌を罹患する患者のDNAの、特定の一箇所が、まったく同値であるという方が不可解なのだ。


 さらに研究データの中には、両親ともに、その値を持たず、当然その両親は大腸癌ではなく、他の病気により他界しているのにも関わらず、その子どもたちが、後にS字結腸癌となり、その遺伝子を持って生まれた、という事例もあった。


 徳丸はその結果をにわかに信じることができなかった。


「これはつまり、親から遺伝したものではなく、受精卵で初めて生じた変異————『新生変異(de novo)』の可能性が高い。これは偶然か?」


「これまでの分析結果を見てきて、今さら『偶然』で片付けられますか?」


 アディルは笑って答えた。


 徳丸は、この分析結果を基にして、解析プログラムを書いた。この特定のアーミッシュグループの患者と、一般の患者のDNAデータを比較し、その解く「鍵」を探し当てるアルゴリズムだ。お世辞にも、きれいなソースコードではなく、力任せのプログラムを書いた。さながらアマチュアのクラッカーが、サーバにブルートフォースアタックをかけて、ルート権限を奪うようなやり方だった。つまりは遺伝子情報の暗号解読手法だ。アディルがやったように、夜間の安価帯にスーパーコンピューターを時間借りして計算した。


 そして、徳丸のアルゴリズムは、二週間後、ついに驚くべき結果をもたらした。


 人のDNAにある、二つの部位を求めるだけで、将来S字結腸癌の発生の可能性があるか、一〇〇%分かるというものだった。その後、様々な地域、様々な人種での臨床試験を行っても、まちがいなくその癌の発生を予想することができた。


 徳丸は、人類は初めて、病気の扉を開ける「鍵」を手に入れたような気がした。その分析結果とともに、徳丸はその出生時に与えられる新生変異と、DNAの箇所を総称して、

(goddam)(value)」と名づけた。

「第11章 預言者」へ続きます。

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