第9章 薄れゆく感情
桐生は、日比谷公園を一望に見晴らせるずいぶんと良いホテルの上階へと連れて来られた。自ら連れて来られたとはいえ、拉致されたのとほとんど変わらない。広い部屋をあてがわれ、明日まで好きに使って良いと言われ、できれば休養をとるようにとも言われた。ただし外出は厳禁とのことだった。
室内に武器になるものはないかと探し回ったが、せいぜいグラスくらいしか見つからなかった。無いよりはマシかと、バスタオルに包んで割り、持ちやすい破片を選んで懐に入れた。
窓は高層階ということもあり、一定以上開かないようになっていた。窓を破壊して出られなくもないが、まあ、この階数から飛び降りたところで、ただで済むとは思えない。
部屋の鍵は内側から開け閉めができるようになってはいたが、扉越しに外廊下を窺うと、屈強そうな男たちが入れ替わり立ち替わり、監視を続けているようだった。おそらく、いや間違いなく、彼らのすべてが何らかの武器を携行しているだろう。
もはや、どうすることもできなくなったので、仕方なく、二日ぶりに睡眠を取ることにした。
久しぶりに「あの夢」を見た。
最後に参加した戦争————インド軍の傭兵として加わったアクサイチン侵攻での撤退作戦だ。
karfa が、ある村で、敵の中国人民軍に捕らわれ、後ろ手に縛られ、両側の兵士たちから引きずられるように、桐生がいる楼閣へ向かって歩いてくるのが見えた。
桐生は、7.62ミリNATO弾が装填された旧式な狙撃銃に付けられたスコープから照準を定め、安全装置を外した。彼の顔には暴行の痕もあり、足も引きずっていた。おそらく捕らえられたときでも銃で撃たれたのかもしれない。彼が歩いていく地面には、点々と赤い液体が線を描いた。
距離はここから300メートルを切っていた。
《ユウ》
インカムに、もう一人の狙撃手から催促の通信が入った。彼は、ここから数百メートル離れた、土煉瓦造りの家屋の上に寝そべっているはずだった。
《もうギリギリのラインだ》
桐生はそれに応えなかった。
そのとき、迷わず彼の額に照準を合わせて撃っていたからだ。
弾は karfa の頭部を貫き、崩れ落ちるように地面に転がった。両脇の兵士は、急いで銃を構えたが、やや遅かったようだ。二人とも桐生たちの手によってすぐさま射殺した。
さらに、少し後ろを歩いていた三人の兵を立て続けに撃った。最後の一人がくるりと、背中を見せて逃げ出した。しかし、桐生の位置から撃った方が当たりやすく、狙撃人数、狙撃位置も特定しにくくさせるだろうと思った。このスキルはもちろん、karfa から教わったものだ。
桐生はその男の後頭部も正確に撃ち抜いた。
「俺に撃たせたな?」
《ビューティフル!》
人の頭を吹き飛ばしておいて、その表現はどうかと思った——
たいてい夢はそこで終わった。寝汗を大量にかき、そのときの従軍で蓄積された疲労感が、戻ってくるような気がした。
あのとき、彼が引きずり歩いていた後方には、支援部隊が控えていた。何百人もの中国兵と戦車が、侵攻してくるのがすぐに見えた。
《すぐに撤退だ。だが、逃げるには充分な時間稼ぎになった》
仲間は慰めとも思えることを言ったが、桐生はもはや気にしていなかった。
時と共に、karfa と過ごした日々や記憶が脱落しているからだ。時間が経てば経つほど記憶が消されつつある。なにか重要なことを託されたはずだが、霞がかかったように、要領を得ない。
「ああ、たった一人のために、全滅は避けたいからな」
桐生は何事もないと、まるで冷静を装った体で答え、その場から撤退したのだった。
***
ホテルでは、四時間ほど眠っていただろうか。周囲を見回したが、何も変わったところはなかった。どうせ監視付きなら何をしても無駄だろうと、部屋の鍵さえ掛けずに眠っていたが、桐生の眠りを邪魔するような闖入者もいなかったようだ。少なくとも気づかなかった。
あの夢を見るとき、いつもあの判断を下したときの「感情」を思い出そうとした。karfa は、両親がおらず戦地で捨て置かれた戦災孤児の桐生を育て、生きる術を授けてくれた。彼からは「出自は日本だろう」と聞かされ名をくれ、日本語教育も受けたが、いまこうして日本に来ることになるとは思ってもいなかった。
彼には感謝しかない。親であり、師であり、友人であった。彼からたくさんのものを授けられ、語り合ったはずだが、記憶はおぼろげで、彼の「存在」も、「感情」と共に希薄になっていった。そもそも彼は何者だったのだろうか。桐生を成している、いわば根幹部分が希薄になることは、自身の存在理由も希薄になるということだ。
桐生は、ホテルの室内で、できるかぎりの通常ワークを終え、シャワーを浴びた。その後、すぐに内線でフロントを呼び出し、朝刊を何紙か持ってくるように頼んだ。電話に出たホテルのフロント係の対応に不自然さはなかった。フロント係もヤツの手下なのだろうか。数分ほどで、扉下から今朝の新聞が三紙ほど差し込まれた。
やはり、どの新聞にも、昨日の日比谷公園での爆発事件は載っていなかった。ただ、南極にある日本基地で起きた惨劇のニュースが大きく報じられていた。基地のフランス人スタッフが精神異常を来して、研究者の一人を殺害し、その他数人に大けがを負わせたようだ。彼はアメリカの基地が派遣した隊員で、現在行方不明とのことだった。果たして南極で行方をくらますことは、この都会と同じと考えていいのか? その逃走犯はすでに氷の上でカチコチに凍っているのではあるまいか。
一通り新聞に目を通したとき、ガタイのいい男が扉をノックして入ってきた。
「ボスがお呼びです。部屋を出てください」
ボスとは一体なんのボスなのかわからなかったが、桐生は急かされることもなかったので、ゆっくりと服を着直すと、部屋を出た。
ボディガードと思しき二人が、前と後ろで、間隔をおいて歩いていた。おそらくは銃器を携行している二人相手に、グラスの破片だけで無力化できなくもない。が、こちらも手傷を負う可能性も高いだろう。しかも、逃げ切ったとしても、どうせまたあの白い伯爵様がお越しになるのなら同じことの繰り返しだ。
やはりここは一つ、ヤツから具体的な話を聞いてから、すべての事を終わらそう。桐生はそう考えた。
「第10章 神の値」に続きます。