悪役令嬢に転生した私ですが、吐血したことで全ての歯車が狂いました
今日も、私の婚約者は私じゃない女へと微笑みかけている。
私、アルノーラ・ディアップルはディアップル公爵家に生まれた公爵令嬢。
その中身はこの世界をライトノベルで知っている、日本という国で育った転生者だ。
前世の私がよく読んでいた小説は悪役令嬢ものと呼ばれていた。この悪役令嬢ものは簡単に説明すると、本来は傲慢や横暴に育つ令嬢が心正しきヒロインに嫉妬したり、失態を積み重ねることで婚約者に断罪されてしまう。
これを前提として、その悪役令嬢に別人の中身が入って破滅の未来を回避していく、というのが多くの悪役令嬢ものの類型である。
前世の私が読んでいた小説、つまりこの世界におけるアルノーラも本来は傲慢に育つ悪役令嬢として定められていて、その中身として転生した女性が破滅の未来を回避する、という内容だった。
問題は、その破滅の回避の方法だった。アルノーラ・ディアップルは確かに破滅を回避する。しかし、それは逆に自分以外の誰かの破滅を前提とした救済方法だった。
ややこしい話ではあるが、このライトノベルの舞台はそもそもが架空の乙女ゲーム、つまり疑似的な恋愛を楽しむための物語が基盤となっている。
この世界が乙女ゲームを元にした世界なのか、それとも偶然の一致なのかは論議しがいのある話だとは思う。
本題に話を戻しましょう。乙女ゲームを元にしたこの世界の中心である主人公は、アルノーラと対立することになるヒロイン。
アルノーラはそんなヒロインを妨害したり、命を狙ったりするので悪役令嬢。この悪役令嬢をヒロインが恋のお相手である攻略対象たちと共に断罪を突きつけるのが物語におけるクライマックスだ。
一方で、小説ではこの断罪という結末を逆に自分が断罪を仕返すということで逆転現象を起こしているのが本題とも言える。
本来は傲慢に育つ筈の悪役令嬢が、真っ当な令嬢として振る舞い、逆にヒロインと浮気を楽しんでいた攻略者対象たちを糾弾する。
そして悪役令嬢は見事、破滅を回避した。これがアルノーラ・ディアップルが辿る本来の未来だった。
――その中身が、本来はアルノーラに入る筈の魂と別の魂でなければ。
「……はぁ」
思わず溜息が零れてしまう。アルノーラとして転生した自覚して早十数年ほど。幼い頃に王太子、バルドヴィーノ・アプリカス様の婚約者として定められたと報告されたのと同時に記憶を取り戻した私は、その場で卒倒した。
そんな卒倒を経験してから早十数年。私が辿る二つの結末を知りながらも、私は第三の道がないかと藻掻き続けていた。いや、人を蹴落として破滅させるとか無理ですから。
私は、はっきり言って小心者だ。血筋と家格が立派なだけであって中身が追いついているとは言えない。
それでも生きるのに必死で公爵令嬢としての立ち振る舞いを血が滲むような思いで身につけた。幸い、転生したことを自覚して精神年齢も上がったので厳しい王妃教育にも耐えることが出来た。
けれど、バルドヴィーノ様は私を見ない。彼は最初から定められた婚約者というものを嫌悪しているようだった。
王太子として窮屈に生きることに苦しみを抱えていて、そこそこ優秀なだけに他人のアラが目について仕方ない。プライドが高く、他者を顧みない。傲慢なのはむしろ貴方なのでは? と首を傾げたのは一度や二度ではない。
ちなみにヒロインと結ばれる未来の彼は、その自分の傲慢さや身分に拘る国を変えるべく周囲の反対を黙らせて結ばれるという王道の展開だった。
それで断罪されてしまうのが私でなければ好き勝手してくれとも荒んだ気持ちになる。それでも主君は主君なので立てない訳にもいかず、かといって逆にこちらからアラを探し出して嵌めるように破滅させるのも寝覚めが悪い。
だから私はなんとか彼の目に留まるように努力をした。人よりも優秀に、女として愛されなくても有能な家臣であろうとした。
その努力はこうして無駄になっている訳だけど。もう私は定められた婚約者というフィルターから抜け出すことが出来ず、バルトヴィーノ様からは小賢しい女としてしか認識されていない。
つまり、何をやっても好印象を持たれることは絶望的という状況だった。
「……どうしたらいいのかしら」
状況は私が何もしなくても悪化していっている。
デビュタントを迎えてから早一年ほど、そのデビュタントで運命の出会いだと言わんばかりに出会ったバルトヴィーノ様と、ヒロインであるリリノア・プラムは関係を深めている。
そしてリリノアが関係を深めているのはバルトヴィーノ様だけではない。他の攻略対象である貴族の子息たちと仲良くなっている。
リリノアはヒロインらしく、元々は平民として育ったが貴族の父親に引き取られることで貴族の仲間入りを果たした天真爛漫な女の子だ。
貴族としてのマナーに慣れず、それでいて平民であった頃の純真さも損なっていない。
貴族の目線でみれば成り上がりだとか、そういった目線で見られてしまう危険性を孕んでいるけれども、一人の女の子として見ればとても良い子なのだ。ただ貴族としての常識が欠けていて、反省する機会を囲んでいる攻略対象たちが奪っていることに目を瞑れば。
(……これで中身が実は私と同じ転生者で、逆ハー狙いとかだったらなぁ)
もしそうだったら私も覚悟を決めて、本来のアルノーラと同じように彼等のアラを探し出して破滅させてでも自分が生き残りたいという覚悟を固められたのかも知れない。
だが、現実は無情なものでリリノアはとても良い子だ。困っている人や悩みがある人を放っておけず、未来に向かって全力で頑張っているただの女の子だ。
最初はリリノアとは関わろうと思ってはいなかったのだけど、私が何もしないと勝手に状況が悪くなってしまったのが最初の失敗だった。
貴族のマナーに疎いリリノアを最初に糾弾していたのが、当時私の取り巻きだったご令嬢たちだ。
そこからバルトヴィーノ様を始めとした攻略対象の方々がリリノアを庇い、私が慌てて双方の仲裁に入ったという事件が起きた。
仲裁に入ったのが私だったのだけど、そもそもリリノアを責め立てたのが私の派閥にいたご令嬢だということでバルトヴィーノ様から敵視される結果に。
どうしてそうなったと頭を抱えたくなったけれど、なってしまったものはどうしようもない。挽回しようにも下手にリリノアと関われば何を言われるのかわからない。
なので私はリリノアはまだ貴族社会に慣れていないのだから、と私を慕ってくれていた令嬢を諫めにかかった。
しかし、慣れていないからといって何も言わずにいられないという気持ちもわかる。特に私と同じようにリリノアに心惹かれている殿方の婚約者の方々の気持ちは痛いほどに理解出来る。
『では、このまま黙っていることが正しいとアルノーラ様は仰るのですか?』
そんな強い言葉で問いかけられた時、私は肯定も否定も出来なかった。結果として、失望した人が私から離れていった。
リリノアに対する当たりはどんどんと強くなり、時には脅迫状を送り付けられる事件があったりもしたのだとか。
そのせいでリリノアの周囲にいる殿方もますます強固な態度を取るようになっていき、状況がどんどんと泥沼になっている。
その間、私は何も出来なかった。双方を諫めようにも誰も私の言葉を聞いてくれないのだから、何か出来る筈もなく。
令嬢たちからは私は頼りにならないという烙印を押され、なんでお前がバルトヴィーノ様の婚約者なのだと詰られる始末。
それに加えて、バルトヴィーノ様からの一言もあった。
『裏で何を企んでいるかは知らぬが、リリノアに何かあった時は貴様を許すことは出来ぬ』
な ん で ?
どうにも私はバルトヴィーノ様から裏で暗躍していると認識されている。
いや、なんで……? どうして……? 私は、ただ誰も争って欲しくないだけなのに……。
そして癒しを求めに読書をしようと思ったらバルトヴィーノ様とリリノアが逢い引きしている現場を見かけたのが現在である。
なに、その柔らかい表情。私の前ではずっとムスッとした顔しかしないよね、婚約者様?
私は何をやっても悪者にされ、その一方でヒロインであるリリノアは何をやっても誰かが優しくしてくれる。それがまるで世界に定められてるかのようだった。
――そう思った瞬間、一気に何かが込み上げて来た。
何かが罅割れ、へし折れるような音が聞こえたような気もした。
気が付けば、私は図書館の冷たい床に倒れていた。息が苦しくて、何かが喉に詰まったように苦しい。
込み上げて来る吐き気を堪えきれず、吐き出す。そして漂ってきたのは――血の匂い。
血の匂いを認識するのと同時に、お腹に灼熱で焼かれるような痛みが走った。声すらも発せられず、私は冷たい床に転がって身を捩ることしか出来なかった。
(あぁ……痛い、な……)
痛い、とにかく痛い。それだけしか考えられず、私はそのまま意識を闇に落とした。
* * *
次に私が目を覚ました時、私は自室のベッドに寝かされていた。まだ起きて間もない意識は現実を認識出来ず、意識がぼんやりとしていた。
ドアがノックされ、中に私の専属侍女であるセリスが入って来た。セリスは水色の髪を尻尾のように一本に縛っている、桃色の瞳を持つ少女だ。
なんとか首だけ動かして視線を向けると、セリスが目を見開いて私へと駆け寄ってくる。
「お嬢様! お目覚めになりましたか!」
「セリス……私は……」
「お嬢様は図書館で倒れたのです。しかも吐血までして……医師からは絶対安静を申しつけられています。どこか身体の不調はありませんか?」
「……全身が怠いわ」
そう、とにかく怠い。指一本も動かすのが億劫だ。その状態を伝えるとセリスは私を労しそうに見つめる。
「私が倒れてから……どれだけ経ったの?」
「丸一日経過しております。まずは寝汗を拭いますね。それからすぐ水を持ってきますので」
力が入りきらないのでセリスに身を任せて寝汗を拭って貰う。なんだか全身の感覚が薄い膜一枚張ったような曖昧さがあって、身体を動かそうとすると無闇に疲れる。
私の寝汗を拭ったセリスが一度退室して、すぐに水差しを持ってきてくれた。おまけにレモンまで添えてくれている。
「医師の見たてでは内臓を痛めている可能性があるとのことで、食事が辛い可能性があると聞いています。なので、せめてと思いまして厨房から頂いてきました」
「ありがとう、セリス……頂くわ」
私にとっては心安まる味方であるのがセリスだ。両親は仕事や社交に忙しくて私に見向きなんてしないし、この家を継ぐ兄とて似たようなものだ。
なので身近に接してくれる人と言えばセリスだけだった。そんな彼女の心遣いを嬉しく思いながらレモン水を口につけた。
「……あれ」
そこで私は愕然としてしまう。最初は気のせいかと思い、一度、二度、舌の上で転がすようにレモン水を飲む。
――しかし、味がまったく感じない。冷たさは辛うじてわかるも、味覚がまったく機能していなかった。
「……お嬢様?」
セリスが不審げな声で私を呼ぶ。私は思わず水差しに添えられていたレモンを外して、直接齧り付いた。
セリスがギョッとした顔を浮かべた。しかし私は気にしている余裕がなく、レモンを手から落としてしまった。
「……セリス、どうしよう。味がわからないわ……」
セリスが息を呑んで目を見開かせたのを、私はどこかぼんやりとしたまま見つめることしか出来なかった。
* * *
私の味覚が何も感じなくなった症状は、それからも改善しなかった。
そして常に倦怠感が身体を襲い、立ち上がるのも億劫だった。歩けばすぐに息切れを起こし、足が言うことを聞かずに膝が震える始末。
何もかもが嫌に感じてしまい、気力がごっそりとなくなっていく。症状の確認に付き合ってくれたセリスが涙目で両親へ報告に向かった後、すぐに医師が呼ばれた。
「お嬢様の症状ですが……戦争病に近いですね」
「戦争病? 戦争病って……戦帰りの兵士が煩うことがある病ですよね?」
今世では戦争というのは割と身近だ。それでも私が記憶を取り戻してから戦争が起きたという話も聞かないし、戦争病なんて身近なものではなかった。
それでも、その病気のことを知っていたのは教育の賜物だ。
「はい。過酷な体験によって心身にかかった強い負担で心が弱り、倦怠感や味覚の異常を伴う病です。お嬢様の症状はよく似ております」
医師の診断に聞いていたお父様、お母様、そしてお兄様は唖然とした表情を浮かべている。
思わず私はPTSDかな? と思ってしまった。
「この病気は長期的な治療が必要となります。再発の可能性も高く、完治は見込めない場合があります」
「な、治らない……?」
「この病は心の病なのです。心というのはとても繊細であり、通常の傷のように目に見える訳ではありません。……お嬢様はよほど心労を溜め込んでおられたのではないでしょうか?」
医師にそう言われても、そうかもなぁ、と私はぼんやり思ってしまった。さっきからどうにも思考が鈍くて危機感が働いていると思えない。
「ア、アルノーラ……一体何があったと言うのだ?」
「何かって言われても……自分でも、いきなりプツンと行ったので自覚がなくて……」
「つまり、今までお前は耐えていたと……?」
「バルトヴィーノ様に浮気されてれば、まぁ……別に側室に迎えるというなら否定出来ませんし、何も言う資格はないですし。ただ、それで注意しても改善しないし、私が憎まれるばかりですし……皆、私が役に立たないと見限っていますしね……」
「は? 待て、役に立たないと見限ったとは、誰がだ?」
困惑したように問いかけるお父様に私はリリノアに心惹かれている殿方と、その婚約者たちの諍いについて説明した。その双方の仲裁に入ってから私が双方から悪者扱いされていることも添えて。
「お前に非はないではないか!?」
「いや……私が悪いって話が既に前提でもう進んでるので……何を言っても板挟みで説得力がないんですよ」
「何故、相談してくれなかったの?」
「相談してどうにかなりましたか……? 仮に国王陛下に苦言を頼むにしても、バルトヴィーノ様がそれで納得すると?」
「う……」
家族が揃って何故相談しなかったのかと訴えましたが、訴えた所でどうにもならなかったから相談しなかったと伝える。私が悪者になってる原因が目上の存在であるバルトヴィーノ様の振るまいが原因だから。
例えば、それでお父様経由で国王に伝わって叱って貰ったのだとしてもバルトヴィーノ様が従うとは思えないし、私の力不足を責められては否定出来ないし……。
「だからって、血を吐くまで耐えるなんて……」
「私もまさか血を吐くとは……病気って突然悪化するんですね……」
「そんな事を言っている場合か! ……はぁ、まさかそこまで事態が悪化していたとは」
お父様は頭が痛そうに抱えて、深々と溜息を吐いた。
「……アルノーラ、ひとまずお前は領地に戻りなさい。お前には療養が必要だ」
「賛同致します。お嬢様を追い詰めているのはまず環境です。環境を変え、心静かに過ごさせることがよろしいかと」
「申し訳ありません……」
……いや、大変なことになってしまったなぁ。
* * *
私がセリスを連れて王都から領地に戻ってから一ヶ月が経過した。
その間、私の症状は良くも悪くもなっていなかった。日によっては気力がまったく湧かず、ベッドの上で天井を見上げて過ごすだけなんてこともあった。
食欲も湧かず、病人食を流し込むように胃に収めるだけの日もあった。味覚は相変わらず戻っていない。セリスがその事を伝える度に泣きそうになるので申し訳ない気分になる。
ただ気は楽だった。バルトヴィーノ様の顔を見なくて済むし、リリノアとの逢瀬の場面を目撃する訳でもない。リリノアの取り巻きになった殿方と令嬢たちの争いも目にしなくて済む。
王城に上がって王妃教育を受けなくて済むし、気が向かない時はずっと寝ていて良い。……ダメになりそうだけど、既に身体の方がダメになってるので今更かとも思う。
領地に戻った私を訪ねてくる友人もいないし、気心が知れたセリスや領地の屋敷の使用人との触れ合いで私の心は少しずつ癒しを得られるようになった。
時に、無性に泣きたくなって涙がぽろぽろと出てしまうのでセリスには慌てさせてしまうこともあるけれど。
そんな療養をしていた私だけど、そんな私に手紙が届けられた。
「手紙? 私宛に?」
「はい……バルトヴィーノ王太子殿下からです」
「……げるるぅ」
「お、お嬢様!? しっかり!?」
バルトヴィーノ様からの手紙と聞いて、私の胃が捻り上げられるように痛みを訴えた。
流石に侍女や使用人が見る訳にもいかないという事で、私は渋々バルトヴィーノ様からの手紙を開封した。
「……ぉぅげぇ」
「お嬢様、さっきから令嬢として出てはいけない鳴き声が出ています!?」
「……大丈夫よ、セリス。だから口元にハンカチを当てなくても良いわ」
「そうですか……あの、お手紙にはなんと?」
「身体が治ったら王都に戻ってこい、だそうよ」
「……それだけですか?」
「要約すると、それだけね」
もっと正確に言うなら、私が王都にいた頃に王妃教育の一環として担当していた仕事が私が抜けた事で人手不足になっている。早く身体を治して戻ってくることを望む、といった内容だった。
望むと言いながらも事実上の命令のようなものなので、本当に何の関心も持たれてないのだなぁ、としみじみ思ってしまう。
「……戻られるのですか?」
「……無理よ。足がこの様だもの」
膝から下の感覚が消え失せ、小刻みに痙攣している。暫くは歩くのも辛そうだ。
「……返信しないのも失礼だけど、お父様に報告してお父様からお断りして貰いましょう」
「畏まりました」
セリスに指示を出し終えて、私はバルトヴィーノ様から届いた手紙をビリビリに引き裂いた。
少しだけ気分がすっきりした。
* * *
バルトヴィーノ様からさっさと戻ってこいという手紙が届いてから二週間が経った。
手紙が届いてから数日は症状がぶり返してしまってベッドの住人になっていた私だけど、ようやく良くも悪くもないという状態にまで回復した私。
そんな私に再び手紙が届けられた。
「……今度は誰の手紙?」
「それが……リリノア・プラム嬢からです」
「げるるぅ」
「あぁ、お嬢様!」
なんでリリノアから私に手紙が届くのよ?! どうして!? なんでなの!?
最早瘴気でも漂って見えるような手紙を私は恐る恐る開き、薄目で文章を見る。
「ごぼぉっ」
「お嬢様!?」
無理、耐えられなかった。可愛い丸い文字で書かれている文面を追って、どうしようもなく胃が締め上げられて胃液が逆流してきた。
なんとか気力を振り絞って内容を見たけれど、まずは私の体調を案じているという挨拶から始まり、そしてリリノアの虐めを主導していたのは私なのではないかという疑惑がかけられているという事、それが真実でないのならばどうか言って欲しいという内容だった。
「お嬢様、しっかり! 誰か、誰かお医者様を、誰かー!」
私は耐えきれなくなって机に突っ伏して、そのまま意識を投げ出した。
次の日、私は食べ物を胃に入れることを受け付けなくなっていた。そして胃液はすっぱいのだと気付きを得た。
* * *
リリノアからの手紙が届いてから一週間後、お父様が慌ただしく王都から領地の屋敷へとやってきた。
「アルノーラ! 大丈夫か!?」
「お父様……どうされたのですか?」
「お前が倒れたと聞いた! それも殿下と例のプラム嬢からの手紙が届いたのが原因と……大丈夫か?」
「とりあえず生きてますが……」
大丈夫って、どこまでいけば大丈夫なんだろう? と考えているとお父様が悲痛な表情になってしまった。
セリスに至っては肩を震わせながら俯いている。ごめんなさい、とは思うけれどどうしようも出来ないのよね……。
「……アルノーラ、お前は殿下のことをどう思っている?」
「今は出来るだけ視界に入れたくないと思っています」
きっぱり本心を打ち明けると、お父様ががっくりと肩を落として項垂れてしまった。
無理。多分、今のバルトヴィーノ様の顔を見ると無限に嘔吐出来る気がする。
「……アルノーラ。私は爵位をライモンドに譲ろうと思っている」
「へ? お兄様に爵位を? いや、お父様、まだそのようなお年では……?」
「爵位を譲るのと同時に職も辞そうと思っている。今後は領地の経営に専念し、王家とは距離を取る」
「えぇっ!?」
我がディアップル公爵家は国王の相談役という要職に就いている。その地位を辞するつもりだとお父様が言うのは貴族としてあり得ない発言すぎる。
ディアップル家は王家の後ろ盾として権勢を誇っていたのに、その我が家が抜けると権力闘争が始まってしまうのではないだろうか?
「お、お兄様だって困るのでは?」
「アイツも私が引退したのを理由に領地に引っ込むつもりだ。正直、もう好きにしろと言う気持ちしか王家には湧かん。陛下の治政の間はともかく、次代の問題で良いだけ迷惑をかけられた」
愛想が尽きたと言わんばかりに言い捨てるお父様に私は目を白黒とさせてしまう。
い、良いのだろうか? お父様にこんな事を言わせてしまったのは……。
「何も反旗を翻す訳ではない。今の王家には信が置けないと示すだけだ。それで我が家を蔑ろにするというのなら、こちらとて考えがある」
「お、お父様……」
「そもそも陛下が私に仕事を押し付けるから家庭を顧みることが出来なかったのだ……王家に選んで頂いた婚約だが、これでは白紙撤回した方が良いだろう。殿下もそれを望むだろうからな」
「白紙撤回って……私とバルトヴィーノ様の婚約をですか?」
「あぁ、そうだ。決めるなら早くした方が良い。王妃教育だって次の婚約者に受けさせなければならんしな。まぁ、誰が婚約者になるかで揉めるのではないかな。私の知った事ではないが」
「それは流石に問題発言ではー!?」
「では、お前は殿下との婚約継続を望むか? 今なら不治の病を理由に破棄が出来る。お前の次の婚約は厳しくなるが……」
「結婚は別に良いんですけど……確かに、このまま婚約を続けたいとは思わないですね……」
こんな厄付き物件の女になってしまった私に結婚が望めるとは思わないし……。
「うむ。であれば王家に慰謝料をたんまり払って貰わなければな……娘を傷物にされた訳だからな」
「……良いんですか?」
「これはお前を除いた家族で既に話し合った事だ。後はお前の意志次第だ。……今まですまなかったな、アルノーラ。これからはゆっくり休んでくれ」
本当に良いんだろうか、とは思いつつも私が再びバルトヴィーノ様の婚約者でいられるとは思わないので、とにかく婚約を撤回することは必要だとは思う。
正直、私が口を出してどうにかなる話ではないし、お父様に任せるしかないと思い、黙って頷くのだった。
* * *
お父様が辞職を叩き付けにいくと王都に戻ってから二週間が経過した。
王都から届く家族からの手紙には、王家との交渉が難航していることが書かれていた。バルトヴィーノ様との婚約は私の病気を理由に撤回することまでは速やかに進んだらしい。
ただ、お父様が爵位を譲った上で辞職して、お兄様も若年の理由に領地の経営に専念したいと告げると王家から待ったが入った。辞職なんてとんでもないし、引き継ぎの問題もあるのだから考え直して欲しいと言われている。
それでもお父様とお兄様は頑なに、次期王妃たる私を導くことが出来ず、王家の支払った労力を不意にしてしまった。その責は取らなければならないと言って譲らない。
王家も王家で、それを否定してしまったらバルトヴィーノ様の不貞を理由にされてしまっては堪らないと上手くお父様たちと交渉出来てないらしい。
まだ時間はかかるが、必ず辞職を勝ち取ってくるので領地で待っていて欲しいと揃えて手紙を終えるお兄様とお父様に思わず苦笑してしまう。
一方で、お母様は社交会に積極的に参加して私のことを貴婦人方に語っているそうなのだとか。娘はよく努力していたが、孤立した挙げ句に婚約者にも責め立てられ心を病んでしまった。こんな事になって不甲斐ない、と。
程良い悪評なら王家が無理に我が公爵家を引き留める理由も弱められるし、真実を知るものならば王家に疑いの目を向けるだろう、と。一番暗躍に生き生きとしているのは母なのではないだろうか? と思ってしまう。
そういえば、リリノアの取り巻きと化していた貴族令息とその婚約者だけど、こちらでも動きがあったらしい。
バルトヴィーノ様が私との婚約を撤回したことで、次の婚約者を選定しなければならなくなった。そこに乗じて次の王妃になれるかもしれないということで今結んでいる婚約を見直す家が増えたのだとか。
そこで真っ先に婚約が解消されたのがリリノアの取り巻きとなっていた貴族令息たちだった。婚約を解消したご令嬢たちは、この混乱に乗じて次の婚約相手を探すのに躍起になっているのだとか。
中には私の後釜としてバルトヴィーノ様を狙う人もいれば、この婚約撤回が連続して起きている混乱状態でうまくお相手を掻っ攫う令嬢だとか、かなりの騒ぎになっているらしい。
正直、そうなったらそうなったで生きていける気がしない。なので領地でのんびりさせて貰えて良かったと胸を撫で下ろしていた。その内、刃傷沙汰が起きないかと不安にはなるけど。
「まぁ、殿下は私との婚約がなかったことになって良かったでしょう。この状況なら自分の意志でお相手を選べるとも言える訳だし」
もう私には関係のないことだ。婚約も撤回したのでお名前で呼ぶ必要もない。これで殿下とリリノアを見て思い悩むなんて必要はない。
身体の調子もゆっくり治していって、改善したら領地で出来ることを探そう。
「あの……お嬢様」
「ん? セリス、どうしたのかしら?」
「お嬢様にお手紙が届いております」
「……誰から?」
「それが、王宮の様々な部署から届いておりまして……」
「はぁ?」
私は思わず間の抜けたような声が漏れてしまった。セリスから手渡された手紙を見れば、それは確かに王妃教育の一環でお仕事を手伝っていた部署からの手紙だった。
見ない訳にもいかないと中身を開いてみたけど、その内容はどれも同じだった。
「……文官として戻って来て欲しい? どうしてまた……?」
「いや、なんでも……私は各部署にお手伝いで顔を出していた訳なのだけど、どの部署も万遍なく手伝っていたので全体像を一番把握しているのが私だったそうなのよ。それで私が抜けたことで調整がうまく出来なくなって、しかも王都のお父様の辞職騒ぎでしょう? 現場の混乱も酷くて、お父様を宥めるためにも好待遇を約束するので戻って来て欲しいという話らしいのよ」
「……それ、お嬢様がやる必要があります?」
「いえ、これからはバルトヴィーノ様のお仕事でしょう。もしくは次の婚約者様のね。だから私が戻ったら余計にややこしいことになるわよ」
「では、戻らないのですよね?」
「……今更よねぇ」
そう、今更な話だ。色んな意味で戻るにしても手遅れだ。もう身体が執務に耐えられるとは思えない。
私から直接、お断りの返事を出すのは問題が起きそうなのでお父様宛にお断りの返事をお願いしますと添えると共に私は送り返すのだった。
* * *
それからまた時間が経過したある日の事、屋敷の入り口が騒がしくなっていた。
何事かと思って覗き込んで見ると、驚きの人物が屋敷の入り口に立っていた。
ピンクブロンドのふわふわした髪に、青空のような瞳を涙で滲ませたのは私の胃をしこたま痛めつけた人物だ。
「お願いします! どうかアルノーラ様に会わせてください!」
リリノア・プラムーッ!? どうして貴方が屋敷に来ているの!?
鬼気迫る様子で縋るリリノアを追い返そうと執事が四苦八苦しているけれど、下手に怪我でもさせようものなら殿下に難癖をつけられかねない……!
胃が引っ繰り返りそうになりつつも、私は入り口へと歩を進めた。
「これは一体、なんの騒ぎですか?」
「お、お嬢様!」
「アルノーラ様!」
私の登場に慌てる執事と、私を見つけるなり私に近づこうと迫ってくるリリノア。
すぐに控えていたセリスが間に入り、リリノアを今に射殺さんばかりの眼光で睨み付ける。
「先触れもなく屋敷に訪れて、無礼だとは思わないのですか?」
「そ、それは……お手紙を出してもお返事が貰えると思わなくて……」
「なんと非常識な……それで屋敷まで押しかけてきたと?」
「お願いします! お話をさせて欲しいんです!」
「セリス、良いわ。……それでリリノアさん、一体何の用ですか?」
私がセリスを宥めてからリリノアに問いかけると、リリノアははっと顔を上げて私を見つめる。
「アルノーラ様……私、どうしてもお伺いしたい事があって……アルノーラ様がバルトヴィーノ様と婚約破棄をしたのは私のせいなんですか!?」
……頭が痛くなってきた。頭痛を堪えるように目を閉じて、額を押さえる。今更その話します?
「……そうだと言ったら?」
「そんな……私のせいで……」
「それに付きましては、既に他の方々が苦言を呈されていた筈では? 今になって理解したのですか?」
顔を青ざめさせて震え出すリリノアに私は深々と溜息を吐く。そんなことを確認しに来て、何がしたいのかこの子は……。
「私……こんな、こんな大事になるまで、本当に何もわかってなくて……でも、どうしたら良いのか、わからなくて……」
「……はぁ。確かにリリノアさんの軽率な行動が大きな要因になっているのは否定しません。ですが貴方にばかり責任があるとも言えません。貴方は苦言に耳を傾けるべきでしたが、それを遮っていたのは殿下たちなのですから」
リリノアは私の言葉に震えながらも顔を上げて私を見つめる。
「……私を責めないんですか?」
「責める理由がありません」
「だって、私が……」
「殿下には元から嫌われていましたし、私としては貴方を側室や愛妾にしたいと申されるなら受け入れる準備をしました。別に貴方個人に思うことはありません。私も、周囲から誤解されてしまったために何も出来ませんでしたので加害者でもあるのです」
「じゃあ、やっぱりアルノーラ様が私を疎ましく思っていた訳では……」
「いえ、疎ましかったですよ。ただ、言葉や行動にしなかっただけですが」
リリノアは私の言葉に頭を殴られたかのようによろめきましたが、それでも踏み止まって自分の身体を抱き締めるように腕を回しました。
「……用件はお済みですか?」
「待って、待ってください。アルノーラ様、私、どうしたら良いのかもうわからなくて……」
「私に言われても困ります。私は既に婚約を撤回されて、王都に戻るつもりもないのですから」
「でも、アルノーラ様がいなくなって困ってる人がたくさんいるんです!」
「……私を王都から追い出したのは貴方たちでしょう?」
流石に頭に来たので、冷ややかに言い捨ててやる。すると、リリノアは思わぬ反応を見せた。
神妙な顔を浮かべて、私の言葉を受け止めるように唇を噛み締めた。けれど、それは泣くのを堪えて向き合うとする姿勢を感じた。
「……はい。どう言い繕っても、私が軽率な行動したのが悪いんです。だから償わないと……」
「……償う、ですか。それはどういう風に?」
「わかりません……でも、償いたいんです……!」
……ふむ。ヒロインであることは伊達ではないのね、私には到底出来ない立ち回りだ。
やっぱり良い子ではあるのよね、この子。性根が腐ってたり、ただの甘ったれだったら見捨てられるのに。
「良いですか、リリノアさん」
「は、はい……」
「まずはっきり言います。もう何もかも手遅れです」
「……ッ、は、い」
「最早この問題は個人で解決出来ることではないのです。貴方一人が頑張っても元に戻ることなんてありません。その上で貴方がやるべきことがあるとすれば、貴方の責任を果たすことです」
「私の責任……」
「いつまでも平民気分でいるのは止めなさい。もう学び、考えなければならない立場なのです。貴方は貴族の一員であり、その自覚を持って自分の行動が何を引き起こすのか考えながら生き抜かなければならないのです。それが果たせないなら、貴族として生きることを捨てるしかないのです。私のように」
私の言葉にリリノアは涙を流しながらも、歯を食いしばって静かに頷く。
力を込めすぎて硬くなっているリリノアの肩に手を置いて、私は言葉を続ける。
「貴方がすべき事はここにはありません。……帰りなさい」
「……はい。……アルノーラ様、最後に怒られるのを覚悟してお願いしたい事があります」
「……何かしら?」
「一緒に王都に戻ってくれませんか?」
「お断りします」
「……はい。失礼なことを申しました。罰を受けます、どうぞ気の済むように」
「では、今すぐ王都に帰りなさい。さっさと私の目の前から消えて」
敢えて冷たく聞こえるように言い放つ。私の言葉に苦痛を堪えるように唇を引き結んだリリノアが深く頭を下げて、何も言わずに出て行った。
彼女が出て行ったのを見届けて、私の膝が力をなくしたように崩れ落ちた。
「お嬢様! しっかり! しっかりしてください!」
「……セリス、ごめんなさい。後は任せるわ」
心配そうに私の顔を窺うセリスに一声をかけて、私は目を閉じて力を抜くのだった。
* * *
リリノアという嵐がやってきて、また時間が経過した。
体調は良くなったり悪くなったりを繰り返していて、落ち着く様子を見せない。
この調子で王都になんか戻れないし、留まっていたらもっと酷くなってたんだろうな、と思っているとセリスが険しい顔を浮かべて私の部屋にやってきた。
「セリス? どうしたの?」
「……また先ぶれのないお客様です」
「……また?」
「……バルトヴィーノ殿下です」
「は?」
な ん で ?
もうリリノアに続いて勘弁して欲しい、なんで揃って先触れなしで訪ねてくるの? 私にとって疫病神か何かなのだろうか、あの二人は。
「……どうします?」
「……どうするって」
「お嬢様と会うまで、動くつもりはないと門で待ち構えているそうなのです」
「……おぉう、もう」
そんなの門番が困るだけでしょ! 本当に迷惑な人たちね!
「……通してあげて。ただ、私は今日は動けないから部屋まで案内して」
「よろしいのですか?」
「よくないけど、そうするしかないでしょう……」
私が諦めたように言うと、セリスが苦々しそうに唇を噛みながら退室していった。
それから少しして、セリスが部屋に戻ってきた。彼女の後ろには確かに殿下が立っていた。
灰色混じりの黒髪に金色の瞳、私と顔を合わせていれば不機嫌そうな表情しか浮かべていなかった彼は今は感情を一切感じさせない無表情だった。
「……お連れしました。殿下、お約束は守ってください」
「わかった。……アルノーラ、これ以上は近づくなと言われている。会話には困らないか?」
「……困りますが。あと、名前で呼ばないでください。そして、さっさと用件を伝えて帰って頂けますか?」
私は殿下から視線を逸らして、感情が失せた声でそう言い放った。これ以上、殿下を視界に入れてると具合が悪くなりそうだった。
「……アルノーラ、貴様は俺との婚約をどう考えていた?」
「最悪でしたが? 今は白紙になって清々しています」
「そうか。俺が疎ましかったか?」
「何故、自分を疎ましく思う人に情を抱けると思うんです?」
「……そうだな」
そこで殿下は言葉を切った。沈黙の間が出来ると、胃の奧がギリギリと締め付けられて不愉快だった。
「……リリノアに拒絶された」
「……はぁ?」
「多くの人に迷惑をかけた責任を取るために立場を弁える、だそうだ。貴様が何か言ったそうだな?」
「それで私に恨み言でも言いに来たんですか?」
「……そう思われても当然だな」
自嘲するように呟く殿下が意外すぎて、視線を彼に向けてしまう。
すると殿下の視線が私を真っ直ぐに捉えていることに気付いた。
「アルノーラ。……婚約の白紙を撤回せよ、と命じれば従うか?」
「……どういうつもりですか?」
「俺とやり直す未来はあるか? と聞いている」
「あると思ってるんですか?」
「俺はある、と答えるぞ。貴様がどう思っていようと。だから貴様の答えを、己の口で言え。これは命令だ」
「……お断りです。それが王家からの命令だとしても、絶対に」
私は殿下を睨み付けながらきっぱりと言い切った。私の言葉を受けて、殿下は静かに目を伏せた。
……調子が狂う。なんなんだ、この人。
「……そうか。わかった」
「なんのつもりですか?」
「なんのつもりも、俺は貴様とやり直す可能性があるのかどうかを確認しに来ただけだ。そしてその可能性がないと知った以上、貴様と問答する意味もない」
淡々と言ってから、殿下は目を開いて私を見た。
……何故か、その姿が小さくなったように見えて仕方ない。
「貴様には伝えておこう。貴様との復縁が叶わない場合、俺は臣籍へと下ることになった」
「……は?」
「次期国王には弟がなる。弟はまだ幼く、婚約者に王妃教育を施すとなれば猶予がある。今から俺の婚約者を選定し、王妃教育を施すよりは良いと判断された」
私は信じられないような思いで殿下を見つめる。あの殿下がそんな決定を受け入れると到底思えなかったからだ。
なのに殿下は激昂した様子もなく、ただ淡々とその事実を受け止めているように見える。
「俺は一代限りの男爵位を授かり、王都から離れることになるだろう」
「……はぁ」
「……これで満足か?」
「は?」
「この仕打ちで溜飲が下がったか?」
……何言ってるんだ、この人。
「……どうでも良いです。興味ありません」
「そうか」
「用が済んだら帰ってください」
「あぁ。……俺が王都を去った後、病が良くなったら王都に戻るつもりがあるなら戻ると良い。貴様を待ち望む者は多いぞ」
「今更です。……もう遅いんですよ」
私は苛立ちに布団を掴んで、強く握り締めながら殿下を睨み付けた。
「貴方のせいで、誰も助けてくれなかった。誰も私の言葉を聞かなかった。私だって望まなかった婚約で、こんなに虐げられて、なのになんで尽くしてやろうなんて気になると思ってるんですか?」
「……」
「困るなら困れば良い。苦しむなら苦しめば良い。もう知ったことじゃないんですよ!」
息を荒らげながら私は言い放った。身体が痙攣して、小刻みに震える。視界がぐるぐる回って気持ち悪い。
込み上げて来る吐き気に嘔吐いてしまう。けれど、込み上げて来るのは胃液だけだ。今日は何も胃に入れてなくて良かった。
「……帰ってください」
「あぁ」
「二度と顔を見せないで」
「わかった。……アルノーラ嬢、快復を祈っている。これで失礼する」
「貴方から受け取るものなんて、もう何一つありません!」
私が叩き付けるように言うと、殿下は去っていった。
震える身体を抱き締めていると、セリスが駆け寄ってきて私の身体を強く抱いてくれた。
あぁ、本当に。ただ最悪だった。それしか言えなかった。
* * *
バルトヴィーノ殿下が王太子の地位を辞して、一連の騒動の責任を取る形で臣籍へと下ってから数年が経過した。
王太子の地位にはバルトヴィーノ殿下の弟である第二王子がつき、一連の騒動は収束を迎えた。
なんだかんだで辞職しそこねたお父様は今でも王家との相談役を務めている。そして同じく領地に戻り損ねたお兄様は、私の仕事を引き継ぐ形で文官として栄転していった。
私も強く王都に戻ってきて欲しいと乞われたものの、すぐに復帰出来るような体調でもなかったので、代わりにお兄様が引き継ぐことなった。
この数年で様々な変化があった。その中でも大きな変化の一つがリリノアが文官として王宮に勤めていることだろう。
あれからリリノアは様々な人の教えに耳を傾け、見事文官として登用されるための試験で優秀な成績を叩き出して認められたのだとか。
なので、リリノアは現在お兄様と一緒の職場で働いている。最初こそ、私との関係もあってギクシャクしていたらしいのだけど仕事をしている内に気にならなくなったそうだ。
リリノアは生涯、結婚しないと宣言していて文官として国に尽くすつもりらしい。お兄様曰く、根を詰めすぎる傾向があるので目が離せないのだとか。
文官として国に仕える、なんて未来は乙女ゲームでも、小説でもあり得なかった結末だった。
今や男爵となったバルトヴィーノ様も統治している男爵領の発展に貢献していて、現地での評判は良いらしい。
ただ本人が王都に来ることはほとんどなく、聞こえて来るのは領地の良い評判だけだ。彼のことを惜しむ勢力もあるらしいが、バルトヴィーノ様が王都に来ないのもその勢力を危惧してのことかもしれない。
数多の婚約が撤回された一連の騒動は、様々な人に波紋を齎した。良い未来を勝ち取った者もいれば、その流れに乗れずに不利益を被った者もいる。
混乱は大きく、残した爪痕は決して浅いとは言えない。それでも人は未来に進んでいく。生きている以上、それは避けては通れない道だから。
そして、それは私もだ。
「お嬢様、本当によろしいのですか?」
「私は大丈夫よ、セリス。それに王家との和解も兼ねてるのだから、悪いことにはならないわよ」
「王妃教育の教育係次期候補ですか……確かにお嬢様には良い職かと思いますが」
「まだ候補だもの。実際になれるかはわからないわよ」
王妃教育を施す教育係、その担当者が代替わりを考えた時に後継者として実際に教育を受けていた私に是非と打診が送られてきた。
私の教育係を務めてくれていた先生は私のことを強く惜しんでくれていたので、数年前から考えてくれないかと言われていた。
私もただ介護されてるだけではいけないと思ったので、体調が快復したら王都に戻るという旨を伝えていた。
それでも、やっぱり一度狂った身体というのは良くならずにベッドの上の住人になったり、リハビリしたりを行ったり来たりしていた。
そして、ようやく症状も落ち着いてきたので数年ぶりに王都へと舞い戻ることになったのだった。
「……筋書きのない未来ね」
私の知らない結末、私の知らない未来がこれから待っている。
リリノアは誰とも結ばれることはなく、私は断罪されず、逆に誰かを断罪した訳でもない。
正直に言えば、あの一連の騒動の結末は良くもなってないし、悪くなってもいない。だからこそ、それではダメだったのではないかと後悔している部分がある。
だからこそ強く思う。願わくば、この先に続く未来が良い未来であるように。願うだけで終わらせず、今度こそより良い未来になるように進んでいきたい。
「行きましょう、セリス」
「はい、お嬢様」
明日への筋書きを、今度こそ自分の手で描くために。
自分の出来ることを精一杯尽くそう。誰も知らない未来のために。