はじまり
俺は高校生になってから2度目の春を迎えた。昨年の春、事故で両親を失った俺の胸中は穏やかではなかったが、長いようで短い一年を経て迎えた今春ではようやく心が癒え、校門の入り口にずしりと根を下ろしている桜の薄桃色をおおよそ見知った顔ぶれに囲まれながら楽しむことができるほどになった。両親の死後俺を預かって面倒をみてくれている叔父母や級友たちとの関係も良好で、率直に言えば楽しい日々を過ごせている。
「おい、大七。なにぼけっと突っ立ってんだよ!黄昏てんのか? 」
何者かに急に背後から話しかけられ、心臓が飛び出そうになる。それにしても──大勢の人で賑わう通りでもよく通るこの声は──きっと貴だな。俺は風に煽られ空を舞う花弁が、長い年月風雨にさらされすっかり黒ずんでいるレンガの上に羽毛のようにふわりと不時着するのを目で追いながら返事した。
「黄昏てんだよ。なんだよ貴、なんか用か? 」
「なんでわかったんだ!? 」
正体不明の声の主はやはり貴だった。続けざまに「心理眼か!? 」なんて馬鹿みたいに声をあげるものだから、俺は振り返って得意げに言ってやった。
「テレパスさ。」
「.........テレパスかぁ。」
納得した。と言わんばかりの一切の曇りなき顔。
やっぱり馬鹿だなこいつは。俺は貴に気づかれないよう手で口元を隠してくすりと笑った。
「ご馳走様~ やっぱり叔母さんの作るカレーはおいしいや。」
俺は少し膨れた腹をさすりながら言った。本当だ。夕食がカレーの日は必ずおかわりしてしまうくらい叔母さんの作るカレーはおいしいのだ。
「あら嬉しいわ。七ちゃんは本当にカレーが好きねえ。」
叔母さんは俺のことを“ななちゃん”と呼ぶ。大七の七をとってつけられたあだ名だ。当時の傷心していた俺を叔母さんなりに迎えようと、親しみを覚える呼び名を考えてくれたのだろうけど今となっては女の子の名前のようでちょっと恥ずかしい。
「うん、好きだよ。れいちゃんも好きだよね叔母さんの作るカレー。」
俺は黙々と夢中でカレーを頬張るれいちゃんに尋ねた。れいちゃんは年の離れた従妹だ。確か今年で9歳になる。
「うん!お母さんのカレーは世界で一番おいしいよ! 」
年相応の女の子らしくれいちゃんはスプーンを右手に握りこんだまま無邪気に笑った。うん、相変わらず眩いほどの笑顔だ。
「はいはい、ありがとね。でもれい、溢してるわよ。」
叔母さんに皿の周りに溢れたカレーを指摘されてきまり悪そうに顔を伏せる。そんなれいちゃんの様子がなんだか飼い主に叱られて落ち込む犬のようにしょぼんとしていて愛らしい。俺は叔母さんと顔を見合わせてどっと吹き出した。さながら二人してしばらく笑っていると玄関口からただいま~と一家の大黒柱の挨拶が聞こえてきた。拗ねてしおれているれいちゃんが、あ!お父さんだ!と元気に立ち上がりとたとたと玄関へ駆けて行ってしまった。廊下からおっ、れい パパが帰ってきたよ~なんて少し間の抜けたトーン。ぬっと廊下を抜けて出てきた叔父さんの左脚にれいちゃんが持ち前の眩い笑顔を浮かべながら抱きついている。今のれいちゃんはお父さんという水を得た魚だ。
「おかえりなさい。」
「おう、大七。ただいま。」
それから俺は叔父さんの晩酌に付き合わされた。はじめは俺の学校生活の話とか、趣味の話をしたのだが、叔父さんが一杯、また一杯と飲み干すとすっかり酔いがまわったようで、今度は俺にもそれ一杯と勧めてくる。ここらが引き際だ。俺と叔母さんは目を合わせ、互いに頷く。
──バトンタッチ
俺はついさっきまでの頼もしい大黒柱から一転、のんべえになった叔父さんを背に二階の自室へと階段を上っていった。