36話 我が名は
急いで洞窟から飛び出した俺が見たものは、遠くの山肌で轟音を上げながら巻き上がっている雪煙だった。
ここからでははっきりと確認できないが、複数の人影がその雪煙の中で戦っているように見える。
静寂に包まれていた雪原は、今や地響きや怒号のせいで喧騒に満ちていた。
そして次の瞬間には、俺も戦場のど真ん中に向って走り出す。
「どこだ・・・」
別に今がどういう状況なのかを理解したわけではない。
それにその姿を確認できたわけでもない。
だが俺には確信があった。
奴はあの戦場にいる。
ならば見つけ出して、殺す、それだけの話だ。
抑え込んでいた怒りに、もう一度火を灯す。
黒い衝動が、再び意識を支配し始める。
心の命ずるまま、俺は全速力で白銀の世界を駆け抜けた。
やがて視界が、戦場を明確に捉え始める。
いたるところで地面がえぐれ、地形が滅茶苦茶になった戦場で戦っているのは、当然のことながら獄吏と囚人だ。
少し前に見た戦場と同じように、彼らは双方入り乱れての白兵戦を繰り広げていた。
だが、一つおかしな点がある。
この地形変動はなんだ?
さっき感じた地響きの原因はなんだ?
そんな現象はこの地獄では起こりえない。
この世界では、人にも、使徒にも、そんな力は与えられていないのだ。
ならば考えられる可能性とは何か。
まさか・・・。
思考が結論へと至り始める。
それはここまでの経緯を知っていて、冷静に考えれば当然辿り着くもの。
だが頭を焦がす熱が、判断能力を鈍らせる。
「ああ・・・」
結局答えを出しかけた思考は、ただ一つの存在によって塗りつぶされていく。
「バスピーーーーー!!!」
ようやく見つけた。
いや、見つけてしまった。
わかっていたことだが、その姿を目にすれば、俺は狂う。
さきほどまで考えていた何もかもを置き去りにして、俺は加速した。
周りにあるものすべてを意識から外し、たった一人、己の仇だけを見つめて走る。
そして一気に間合いを詰めると、拳を振り上げた。
「死ねぇぇぇぇぇ!!!」
振り返ったバスピーと目が合う。
俺という死を目前にして、奴は笑っていた。
「馬鹿め」
心底呆れた表情で、バスピーはそう吐き捨てる。
「ぐはっ!」
次の瞬間、俺の体は吹き飛ばされていた。
体が宙を舞い、そのまま地面に叩きつけられ、息が漏れる。
蹴られた腹が、打ち付けられた背中が、悲鳴をあげる。
「うっ・・・」
自分の身に何が起きたのかわからない。
あと一歩で届いたはずの拳は解け、気づいたら地に伏していた。
すべては一瞬の出来事だったのだ。
「バスピー、こいつはなんだ?」
「特にお気になさる必要はないかと。ただの弱小の王でございます。私に騙された結果ここにいるだけで、地獄には直接関係のない者です」
「ああ、なるほど。そういうことか」
混乱する俺をよそに、話声が聞こえてくる。
まるで今起きた出来事など些末なことだと言わんばかりに、その声は穏やかだった。
痛みに耐えながら立ち上がり、その声がする方へと視線を向ける。
そこに、そいつはいた。
瞳孔のない黒眼、ボサボサの黒い髪。
ボロボロの衣服を身にまとったその姿は随分とみすぼらしかった。
だが、その場に漂う雰囲気は異様だ。
「お前、何者だ?」
意味のない問いだった。
この状況下において、目の前の使徒がどういう存在かなんて火を見るよりも明らか。
しかしそれでも俺は敢えて問うた。
その推測を確定させるために。
「トト、貴様如きが我が主の名を聞くなど無礼であるぞ」
だが先に反応したのはその使徒ではなく、後ろに控えていたバスピーだった。
奴はこちらを睨みつけ怒りを露わにしているが、それは図らずも答えを示すことになる。
相対する相手が誰なのかを理解した俺はバスピーから視線を外し、改めて正面の使徒に向い合った。
互いの視線が交わったタイミングで、黒色の使徒はバスピーを手で制す。
「よい、バスピー。我は機嫌が良いのだ。多少の無礼は許すとも」
しわがれた声が響く。
射殺さんばかりの視線を俺に注ぎながら、その使徒は口を開いた。
「我が名はラゴーン。かつて、天界を支配した者。この名を魂に刻んでおくがよい」
その名乗りに俺は一瞬呆ける。
あまりにその内容は聞くに堪えなかった。
「何を言っている?天界を支配?馬鹿なのか?」
「ふっ、貴様如きでは理解できないか。だがそれは紛れもない事実だ。そして我は再び天界を支配するために蘇った」
ラゴーンと名乗った使徒はどこまでも自信ありげに夢物語を語る。
その瞳には嘘偽りがない。
だからこそ俺は、これ以上の会話の無意味さを悟る。
こいつは間違いなく、頭のおかしい部類の使徒だ。
まともに相手をするだけ無駄である。
「もういい、お前がなんだろうが俺にはどうでもいいことだ」
「ほう、ならば何故我の前に立つ?」
「お前の後ろにこそこそ隠れているくそ野郎を殺すためだよ!」
再び殺意を身に纏い、俺は怒声を上げた。
だがそれを受けてもラゴーンは涼しい顔をしたままだ。
「それは困るな。これでもこやつは我の配下であり、この地獄から抜け出すための道案内を頼んでいる。ここで死なせるわけにはいかん」
「邪魔をするなら、お前もまとめて殺す!」
「我の攻撃を食らって無様に転がっていたくせによく吠える」
「不意を突かれただけだろうが!」
「ふっ、よかろう。そこまで言うのなら、もう一度試してみるが良い」
そう言ってラゴーンは俺を手招いた。
安い挑発だがバスピーを前にして止まる理由などありはしない。
俺は姿勢を低くして構える。
もういい加減、我慢の限界だった。
バスピーを殺したいだけなのに、騙され、邪魔され、なかなかそれを成し遂げられない状況にイライラする。
早く殺したい!惨たらしく殺したい!
この胸の痛みを晴らしたい!
「うあああああああ!!!」
もはや理性など放り出して、雄叫びを上げながら、俺はラゴーンに挑みかかるのだった。
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