64話 昔話
地獄に静寂が満ちている。
希望を失った囚人たちはもはや動けない。
言葉を失う者、すすり泣く者、反応は人それぞれだが、もう戦いを続けようとする者はいなかった。
絶望し、自ら命を絶とうとするものもいるが、この地獄でそれは許されない。
自傷したそばから傷は塞がり元に戻る。
彼らに逃げ場などなかった。
「帰ろう」
そんな絶望が支配する空間で、ただ一人声をあげる者がいた。
裏切り者のシュウである。
仲間に取り押さえられていた彼は事態の収束と共に解放され、その後の成り行きを見守っていたのだが、動かなくなってしまった囚人たちを見かねて声をかけたのだ。
だが返事を返すものはいない。
皆項垂れて動けずにいる。
「ずっとそうしているつもりか?」
だがそれでもシュウは彼らに向かって声をかけた。
いったい今の彼を突き動かすものはなんなのか。
この場にいる誰もがそれを理解することはできない。
希望は絶たれた。
もはや立ち上がる理由はないはずなのだ。
「裏切り者が何の用だよ」
やがてポツリと返事が返ってきた。
囚人の長たるナックの声だ。
彼はシュウを睨みつける。
「もう放っておいてくれよ」
「そういうわけにもいかない。俺はお前らを助けに来たんだから」
「どの口で言ってやがる」
「事実そうなんだよ」
裏切り者のシュウは平然とそんなことを言った。
「さあ、帰ろう。別にいつも通りにしていれば、いつかはこの地獄から出られるじゃないか」
「冗談じゃない。そんな来るかもわからない救いを待っていられるか。もうあんな生活は嫌なんだよ」
「だから逃げ出すと?」
「そうだよ。そう思うのが当然だろうが。どうしてわかってくれないんだ」
「わかるとも。俺もお前たちとこの地獄を生き抜いてきたんだ。わからないわけがないだろうが」
「だったら!」
「だけど俺は知っている。お前らのしようとしていることの無意味さを。その選択がどれだけ愚かなものなのかを、俺はよく知っている」
「何を言って・・・」
確信をもって語るシュウの言葉に、ナックは戸惑いを隠せない。
囚人たちの持つ知識など皆似たり寄ったりだ。
そもそもの話、囚人たちにはこの世界における情報がほとんど与えられていない。
だから誰か特定の一人しか知らないような情報など本来ありはしないのだ。
それなのに目の前のシュウは、何か確固たる根拠があるような口ぶりで話をしている。
「少し昔話をしようか」
やがてゆっくりとその場に腰を下ろしたシュウが、落ち着いた声音で言葉を発した。
「遥か昔、ある一人の男が大罪を犯した。そいつは生まれつき心が壊れていてな、無自覚なまま考えうる限りの暴虐を世界にまき散らしたんだ。ひどい話だがそいつに罪の意識はなく、ただ自由に生きているだけで人を不幸にしてしまう、そいつはそういう奴だった」
遠い記憶を懐かしむように、彼は地獄の天蓋を見上げる。
「散々世界を壊したそいつは、死後この地獄に落とされることになってな」
「・・・そんな話、別に珍しくもなんともない。この世界にいる人間はたいていそういう奴らばかりだ」
「その通りだな。だがこの話にはもう少し続きがある」
そこでシュウは一度言葉を切ると、苦しそうに笑った。
「その男はな、結局地獄に落ちても変われなかった。己が犯してきた罪が何なのかさえわからないまま、地獄での日々を過ごしていたんだ。そしてある時、悪魔が彼の元を訪れた」
「悪魔?」
「そう、悪魔だ。お前たちはあれを神様なんて呼んでいるがとんでもない。あれは正真正銘の悪魔さ。耳ざわりのいい言葉だけ並べ立て、人間を堕落へと導き破滅させる、そういう類のもの。決してその手を取ってはいけなかった。取ってはいけなかったのに、その男は誘惑に負けてしまったんだ」
「・・・」
「そして最終的に、その男はこの地獄からの脱出を成功させてしまう」
「・・・は?」
シュウの話を聞いて、ナックは目を見開いた。
いや、ナックだけじゃない。
俯いて、絶望することしかできなかった囚人たちも、今は顔を上げ、シュウを見つめていた。
「嘘だ。脱獄に成功した話なんて聞いたことがない」
「いいや、確かに脱獄者は存在した。遥か昔のことだし、おそらく獄吏たちも秘密裏に処理しただろうから、他の囚人たちは知らなかったんだろう」
囚人たちが半信半疑で聞くのも構わず、シュウは話を続ける。
「状況は今とまったく同じ。お前らが脱出に使おうとしたあの扉を使って、その男は悪魔と共にこの地獄から逃げ出した。晴れて自由の身となった彼は、悪魔に願って元の世界に転生してもらった。そして前世を忘れ、新たな人生を歩み始めたんだ」
「・・・仮にその話が本当なら、そいつはさぞかし幸せだったんだろうな」
「いいや、それは違う」
ナックの言葉を、シュウははっきりと否定した。
「結果は最悪だった。結局のところ、そいつは変われなかったのさ。まるで前世の罪に導かれるように、彼は再び世界を破壊した。記憶はないはずなのに、まったく別の人間に生まれ変わったはずなのに、結局彼は狂ったままだった。当然のことだが、彼は死後再びこの地獄に呼び戻されることになる。ご丁寧に一度目の記憶も蘇った状態でな。そこでようやく彼は悟ったんだ。この世界に来た時点で、最初から逃げ場なんてなかったんだと」
「・・・」
囚人たちは動揺を隠せない。
やっとの思いで見出した自分たちの希望がすべて虚構だったのだと彼は言う。
しかしそんな事実を認めるわけにはいかない。
ナックは必死になって言葉を絞り出す。
「なんでそんな話を知っている。どこからそんな情報を・・・」
「もうわかってるんだろ?」
一切の容赦もなく、シュウは続く言葉を吐き出した
「今のは全部”俺“の話さ」
そう、それがすべて。
彼は知っていたのだ。
その試みの行く末を。
だからこそ囚人たちを止めようとしていた。
「・・・嘘だ。バスピー様はあの扉の向こうに楽園が待っていると」
「あの悪魔は前回も俺に同じようなことを言っていたな」
「なっ!あの御方のことを知っていたのか」
「ああ、だって俺は前回あの悪魔と一緒に脱獄を計画したんだから」
「そんな馬鹿な。あの御方はお前にそんな素振りを見せなかったではないか」
「そりゃそうだろ。今の俺は転生して前回と姿形が違うんだから、気づかなくて当然だ」
「そんな・・・、なら・・・」
ナックは次第に言葉を失っていく。
だがそんな彼に容赦なくシュウはありのままの現実を叩きつける。
それが彼ら囚人たちにとって一番大事なことなのだと自分に言い聞かせ、残酷な事実を言葉に紡いだ。
「もうわかっただろ。俺たちは逃げられないんだよ」
かつて犯した罪と、変えられない過去を、その身に浴びながら彼は告げる。
たとえその言葉が彼自身を苛み、苦しめることになろうとも、自分と同じ間違いをしてほしくなくて、意味のない遠回りをしてほしくなくて、彼は語り掛けるのだ。
「だからこそ俺たちはちゃんと己の罪を償わなければならない」
彼はこの世界で与えられる痛みこそが、救済への道なのだと言う。
だがたとえそれがどれだけ正しい言葉であったとしても、囚人たちには到底受け入れられる理屈ではなかった。
「・・・お前が失敗したからって、俺たち全員がそうだとは限らないだろうが」
抵抗を諦められないナックが、なお言葉を募る。
だがそんな軽い言葉になど何の意味もない。
「ここにくるような最低最悪の罪人共が、その身に刻んだ業を、そう簡単に忘れられるわけがないだろうが。たとえ記憶を失おうが、魂が覚えてるんだよ。断言してやろう。もし今逃げ出せたとしても、お前らは必ずまたここに戻ってくることになる」
「ならば耐えろと言うのか?このいつ終わるともわからない地獄を、前世で犯した罪を悔いながら耐えろと言うのか!」
ナックは悲鳴を上げて、シュウの言葉を打ち消そうとした。
しかしシュウはそれでも、ただ淡々と言葉を紡ぐ。
もはや彼の答えは揺るがない。
「そうだ。そうすることでしか、俺たちは前に進めない」
そこまで言って彼は立ち上がる。
「俺は先に行く。覚悟のできた奴から、戻ってくるといい」
最後にそれだけ言い残して、シュウは来た道を引き返していくのだった。
―――――
どれだけ時間が経ったかわからない。
それでも一人、また一人と囚人たちは立ち上がって村へと帰っていく。
いずれ彼らは元の苦しみに満ちた生活に戻ることだろう。
罰を受け、罪の清算を終えた者からそれぞれの世界へと帰っていく、当たり前の日常へ。
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とろりんちょ @tororincho_mono