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ぼくの消しゴム

作者: 白樺土竜

 小学六年生の時の話です。

 当時の僕は、消しゴムをよく失くす子でした。勉強が苦手で、よく消しゴムを投げて遊んでいました。そのせいで消しゴムはまだ半分くらいしか使われていないのに机の隙間や見つけられない場所にコロコロと転がっていって死んでしまいました。


 その日も僕は母親に新しい消しゴムを買ってもらいました。「今度は無くさないでよ」と母親は言いましたが僕は聞く耳を持ちませんでした。どうせまた転がって行くだろうと思っていました。

 家に帰ると僕は早速消しゴムで遊びました。椅子に座ったまま消しゴムを天井高く投げてキャッチする遊びです。僕は昔からこういう単純な事が好きだったのです。

 十数回目でしょうか。僕はようやく消しゴムをキャッチし損ねて床に落としました。運良くその消しゴムは転がりませんでした。良かった、とホッとしながら拾い上げようとした時です。「いてて……」とどこからともなく女の子の声が聞こえてきました。驚いた僕は部屋を見回します。しかしどこにも僕以外の人間はいませんでした。代わりに居たのは、真っ白いセーラー服に身を包んだ女子高生の格好をした無機物でした。消しゴムと同じくらいのサイズの女の子が、ホログラムのように消しゴムの上に立っていました。

「もー、何回も何回も投げて! 頭くらくらしちゃうじゃない!」

 女の子は僕を指差して怒ります。どういう事でしょうか。僕にはさっぱり訳がわかりませんでした。

「えっと。君は誰?」

 恐る恐る僕はその女の子に尋ねてみました。

「あ、自己紹介がまだだったね。私は消しゴム。あなたの消しゴムよ」

 女の子は自分の事を消しゴムの妖精だと言いました。とても信じられませんでした。しかし改めて見るとやっぱり女の子は消しゴムの擬人化のようでした。白くて、小さくて、可愛くて、清楚で……。すっかり僕はその気になってしまいました。

 一度受け入れると好奇心が勝りました。僕は消しゴムにあれこれ質問しました。消しゴムは一つ一つ丁寧に答えてくれました。

「ねぇ、もっと私と話したい?」

 不意に消しゴムは僕にそう尋ねてきました。

「うん!」

「じゃあ条件があるの。これは私にも何故だか分からないんだけど、私達消しゴムは君が勉強している時にしかこの姿になって話せないの」

「勉強?」

「そう。だから私と話したかったらちゃんと勉強してね。今はその初回特別イベントみたいなものだから。うーんそうだね。じゃあ5秒後には消えるね」

 そう言うと、消しゴムはきっかり5秒で消えてしまいました。


 普段は自分から勉強しませんがこの時ばかりは強い好奇心に駆られ早速勉強しました。勉強している間はずっと消しゴムと話していました。僕は頭が良くないからすぐに間違えます。だからよく消しゴムを使いました。消しゴムはいつも、使われるとなんだか嬉しそうな顔をしました。その顔を見ると、僕の方まで嬉しくなってきちゃいます。僕は消しゴムの可愛い笑顔が好きでした。次第に好奇心は恋へと移り変わっていきました。馬鹿げた話かもしれませんが、僕は消しゴムに恋をしてしまったのです。


 どうやら消しゴムの年齢は使った消しゴムの量だけ減っていくようです。初めて出会った時は高校生のお姉さんのように感じましたが、しばらくすると少し幼くなり中学生のように感じ始めました。それでも消しゴムは可愛らしかったので僕はどんどん消しゴムを使っていきました。

 勉強はやっていく内にどんどんと分かる事が増えていき楽しくなりました。成績もぐんぐん伸びて、消しゴムも母も嬉しそうでした。僕ももっと勉強したいと思いました。だから私立の中学校を受験する事にしました。今まで以上に、より一層勉強しなければなりません。秋になる頃には消しゴムは僕と同い年になっていました。


「あー、半年前までは君よりもずっとお姉さんだったのに、今はもう同い年か……。それだけ君は頑張ったって事だよね」

 消しゴムは感慨深そうにそう言いました。けれど僕はこの時初めて思いました。このペースで消しゴムを使っていったら、冬にはもうなくなっているかもしれない。僕は消しゴムの事が大好きでした。ずっと居たいと思いました。消しゴムのいない人生は考えたくありませんでした。

 僕は大量の紙を買ってきました。もうこれ以上間違っても消さないように。僕はその大量の紙の余白にぎっしりと書き記しました。間違いは斜線で消して放っておきました。これで消しゴムを使わなくて済む。それに、もっと勉強すれば間違いだって減らせる。そう僕は希望を抱きましたが、消しゴムはどこか寂しそうでした。

 やがて紙はなくなりました。12月の事です。新しい紙を買おうにも小遣いは底をつきました。裏紙もある分は全て使いました。受験本番までそれほど時間ほありません。どれだけ勉強しても元の頭の出来は変わらないようで、合格圏内にあと一歩届いていませんでした。勉強しないという選択肢はありません。

 一瞬、別の消しゴムを買うという考えも浮かびました。しかしそれは浮気です。新しい消しゴムという案は僕の中で即座に却下されました。仕方ありません。僕は消しゴムを使いました。


「もう大分小さくなってしまったね」

 気づけば消しゴムは僕の年齢を下回っていました。もう小学校低学年です。あと少ししたら消しゴムは消えてしまうでしょう。僕は泣きたくなりました。

「よしよし、そんなに悲しい顔をしないで」

 小さな手が僕の右手を叩きました。本当に小さな手です。こんなに可愛らしい子を僕の手で殺さなければいかないなんて、そんなのあんまりです。僕は泣きました。ポロポロと流した大粒の涙は消しゴムに当たって、消しゴムの小さな体を濡らしました。その晩、僕は久し振りに今まで僕が失くしてきた消しゴムの事を思いました。彼らはどんな気持ちで僕に使われていたんだろう? 僕は非常に申し訳ない気持ちになりました。今度家の中を捜索して全部見つけようと決意しました。


 それから数日が過ぎました。入試本番です。僕は小指の第一関節くらいになった小さな消しゴムの一欠片を持って会場に行きました。家を出るときに母に「そんなにちびた消しゴムで大丈夫なの?」と言われました。どんなにちびていても僕にとっては大事な消しゴムです。

「僕の消しゴムはこれだから」

 それだけ言って家を出ました。恐らくあと二、三回使えば消しゴムは消滅するでしょう。僕は一度も間違えないつもりで受験しました。

 国語や理科が終わり、いよいよラストの算数です。今までに僕は二回消しゴムを使いました。もし次に消しゴムを使えば、彼女は死にます。僕は絶対にミスをしてはいけませんでした。


 最後の問題が解けて気が緩んでいたのでしょう。僕は失敗を犯しました。取り返しのつかない失敗です。やってしまいました。0と書かなければいけないところを、勢い余って6と書いてしまいました。どう見ても6です。消して0にしなければいけません。実のところ、入試の手応えはよくありませんでした。ボーダーラインギリギリです。もしかすると落ちているかもしれません。しかし、この問題を取れば受かるかもしれません。それほどギリギリでした。幸い計算は合っている筈です。消しさえすればいいのです。しかし……。悩んでいると消しゴムが声を掛けてきました。あまりにも小さくて幼くて消え入りそうな、しかしはっきりとした声でした。

「その6を消しさえすればいいんだよね? お願い。使って?」

「え? でも……」

 使ったら、君は消えるんだよ。

「分かってる。ギリギリなんでしょ? ここで使わなきゃ、今までの努力が無駄になっちゃうよ」

「うん」

 そんな事、僕にだって分かってる。でも、君を殺したくはないんだ。

「……ねぇ、知ってる? 消しゴムの使命は『消える事』なんだよ?」

「消える、事?」

「そう。どんなにくだらない落書きでも、どんなに素晴らしい計算間違いでも、どんなに大事な入試の文字でも、消しゴムは消さなきゃならないんだよ。みんな自分の身体を犠牲にして消してるの。何故だか分かる? その先に残るものがあるからだよ」

「残る……」

「消しゴムはいつも間違いを消してるの。そうやって間違いを消した先に残るのはみんなの笑顔なんだよ。私は君の笑顔を残すために消しゴムをしているだ。だから、君がこの先笑顔になれないなら私は幸せじゃないな。君はきっとこの6を消さないと後悔するよ」

「でも僕は君だって殺したくないんだ」

「ふふ、ありがとう。そんなに想ってくれるなんて嬉しいよ。でもよく考えてみて。君は落ちてもいいなんて気持ちで受験してないよね?」

 そう言われて僕は考えてみました。やっぱり、消しゴムの事を抜きにして僕は今勉強がしたいんだ。沢山勉強する為にはこの中学校が最適だ。僕だって本当は落ちたくない。

 ふと時計を見ました。もうあまり時間がありません。そろそろ決めないと。



「……ごめんね」

 この一年を振り返ってみました。消しゴムと出会って、消しゴムと一緒に歩いてきたこの一年を。この日の為に僕達は頑張ってきたんじゃないか。僕は震える手で消しゴムを手に取りました。

「あ、そうだ。さっき消しゴムの使命は消える事だって言ったけど、消しゴムが消せるのは所詮文字や絵だけなんだよ。誰かの言葉や思いまでは消さない。だから私のこの思いもきっと消えないんだと思う。……今までありがとう。大好きだよ」

「っ!」

 6の上部に消しゴムを優しく撫でました。6と共に消しゴムは消え、0を残しました。僕は声を殺して、答案を濡らさぬように静かに泣きました。


 あれ以来、どんな消しゴムを使っても妖精が出ることはありませんでした。けれど、僕の消しゴムに対する思いはいつまで経っても消えなかったのです。僕は今、ある文具店の店主をしています。小さな町にある小さな文具店です。売り上げは少ないけれど、毎日誰かは買いに来ます。ほら、今日もまた一人。

「おじさん。この消しゴムください」

「うん。大事にするんだよ。消しゴムには小さくて真っ白な可愛らしい妖精がいるんだから」


ー了ー


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