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存在と時間 sein und zeit を読み解く 「ダーザインとして、死を自覚して一瞬一瞬を生き切ること」 世界三大難解哲学書  ハイデッガー

作者: 舜風人

20世紀の哲学書で一番難解ともいわれている「存在と時間」

ザイン ウント ツアイトsein und zeit

をわたくしなりに読み解いてみたいと思います。


お暇でしたらお付き合いくださいませ。


この書名ですが、、

「有と時」と訳している邦訳書もあります。

確かにこれも一理あって。要するに

ハイデガーの用語法としては

「~で有る」という言い方での用語法ですから

名詞的な「存在」というよりも「有」のほうが良いのかもしれません

たとえば、、

「海である」を「海で存在」と訳すことはできませんよね。

ハイデガーの用語法は日本語の「存在」という概念では網羅しきれない、、ということです。











〇存在と時間   ハイデガー  





人間の根本的な問いが「時間」と「存在」であろう。

時間とはなに?

存在(有)とはなに?


ハイデガーはこの書で

存在一般を意味論的に位置づける、、と言っています。

一般に、普通「われ」という存在から発して対他的な「時間」を

私たちは理解してきた、

だがそうだろうか?

われから対自的に時間があたかも置時計のようにチクタクと経過するのだろうか?

時の流れに沿って、常に「われ」は永遠の今に現前する。そういう存在、

なのだろうか?

いや、そうではなくて、

むしろ、

時間軸がその永遠の軸から発して存在を逆に規定しているのではないだろうか?

時間の軸の上に存在も依拠して初めて存在たりうるのではないだろうか?

存在しているとは結局何なのか?という根本的な問いに答えようとした試み

それがこの本のテーマである(と私は思う)

そもそも存在認識はわれの意識下に起こるものであり、意識を離れて存在は在りません。

この辺はフッサールの現象学とリンクしてくるわけですが

生まれながらの盲人がもしも50歳にして初めて目が見えるようになったら?

その人は映し出される映像に「意味付け」を与えられないだろう、という記事をどっかで読んだことがあります。

つまりそもそも映像は無意味であるということです。

その映像に意味を与えるのは我の意識です。

意味づけるわれがなければ存在もないということです。

全く見たこともないような映像があなたの目に映ったとしてもあなたはそれを理解できず

解析できない。

存在論を提示するのはあなたが人間だからであり

人間はそういう意味で特別な存在です。

「ハイデッガーは人間存在を「現存在」(ダーザイン)と呼びます。

そういう存在である人間はまた「世界内存在」In-der-Welt-seinでもあります。

世界とかかわり世界に働きかける存在だからです。

存在者でそういう存在は人間だけです。

事物存在は事物として存在するだけです。

世界に働きかけたりしません・

ダーザインである人間は耐えず事物存在と関わり世界へ働きかけます。

これをハイデッガーは「ゾルゲ」という言葉で表します。

かかわることによって人間は事物存在から「意味」を抽出するのです。

かかわることで人間は新しい未来を拓く可能性を秘めています。

つまり時間軸に存在しうるという可能性です。

この生き方こそが「実存」としての人間の生き方であるのです。・

だが大方の人間は世界との関わりをより低俗化してルーティーンで過ごして終わる。

なぜなら究極の実存としてダーザインとして世界とかかわるのがしんどいからである。

現存在の日常的堕落である。

そんなことをしたら実存を脅かす「死」と常に対峙しなければならないからだ。

未来とかかわるということは必然的に「死」を予見するしかないからでもあるからだ。


ダーザインはまた、ザイン トウーム トーデ(死への存在)でもあるからだ、

ハイデッガーは死を恐れるのではなく死を現存在の完成形として

知恵を持って生きることこそが実存としての人間の理想的な生き方だという。

これをすごく平明化して言い換えると、、

死を意識して世界とかかわり続けろ

それが実存的な正しい生き方だ

ということになるのだと思います。


人生は終わりをつけることはできません。

現存在は今しか生きられれないからです

永遠の今を生きる限り実は

死は存在しないのかもしれません。



ダーザインとして世界内存在として

実存的に生きること、


それは究極的には、


死を自覚して一瞬一瞬を生ききること

その際の生きる基準は良心gewissenの呼び声に従って生きろ、

ということです。

(なんか、いかにも山の聖者の遺訓?みたいな教えですよね?)


さらにハイデッガーは

歴史と内時性について論究を続けるが、、

そこまででこの書は中断される。

ここで行き詰まってしまったのか?

それかどうかわからないがこの書は未完成に終わった。

ハイデガーはかってこういっていた


「どんな哲学も挫折する」

正にその通りになった?ともいえるのであろう。


以上が存在と時間という永遠のテーマを追求したハイデガーによる究極の

思想の苦闘の跡である。ただこの思想的冒険は

完成した書物としては存在してはいません。

未完成のままで終わったのです。




付録


存在と時間(有と時)の目次をざっと?おおよその項目だけを端折って掲げておきます。

(私がかなり意訳?しています)


以下の目次を見ただけでも、、もう難解さに辟易?ですよね?

本文の内容はもっと複雑怪奇?ですから

これを読み通して、理解するなど、、まあ、ほぼ不可能?でしょうね?




☆存在と時間の、おおよその、目次、項目



存在の意味への問い

存在論の歴史破壊

現存在を時間に対峙して解釈すること

現存在は根本的に世界内にあるということ

世界認識と世界の世界性について

デカルトにおける世界解釈

周辺世界の周辺性と現存在の空間性

共存在と自己存在であることへの世界内存在In-der-Welt-seinである吾れ

内存在であることの実存論的意義

今の実存論的構成

自己であることは世界内存在であること

内存在は実存的存在

今の日常的存在と現存在の日常的堕落

現存在と時間軸

現存在の開示性と不安

現存在は可能体としての死への存在

死の実存論的分析

本来的可能性としての現存在の証明と責任

良心の実存的存在論的基礎

良心の呼び声

世界内存在と時間の超越

現存在の時間制と日常性

現存在的空間性と時間制

歴史の実存的開示と展開

時間軸と歴史性

ヘーゲルの時間概念

歴史の通俗的理解

実存と歴史

通俗的時間概念と内時間

現存在の実存論的時間的分析と存在の意味一般への基礎的存在論の疑問





(注)1 世界三大難解哲学書



・カントの『純粋理性批判』


・ヘーゲルの『精神現象学』  http://syosetu.com/usernovelmanage/top/ncode/1131203/


・ハイデガーの『存在と時間』  http://syosetu.com/usernovelmanage/top/ncode/1215564/















付記


あくまでも私の私的見解であり学問的に正当性があるかどうかは保証できません。

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