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シェイクスピアの消失

 挿絵(By みてみん)




 シェイクスピア研究者である私の元に審議官がやって来たのは、夏の暑い盛りだった。彼は扉を二度ノックしてから、研究室に入ってきた。研究室は狭い。三年前に、シェイクスピア程度に大きな研究室を与えているという事が大学組織で問題となったので、小さな部屋に移されたのだった。

 「はじめまして。審議官の佐川と申します」

 佐川という男はそう挨拶した。スーツ姿で、白髪が目立ったが、それほど年には見えなかった。四十代だろうか。私もスーツだったが、彼のスーツに比べればはるかにくたびれていたので、同じ服装とは思えないほどだった。私は椅子から立ち上がった。

 「『シェイクスピア』研究をしている山崎です」

 私はあえて文学研究と言わず、「シェイクスピア研究」と言った。その言葉に佐川は顔をわずかにしかめた。

 「シェイクスピア研究ね…」

 審議官は研究室を眺めた。洋書が至る所に積んである。シェイクスピアの全集が本棚には並んでいる。

 私は審議官に椅子を進めた。粗末なパイプ椅子だ。彼は座った。が、用件を切り出してくるわけではなく、まだ物珍しそうに研究室内を眺めていた。私も椅子に座った。

 すでに審議官については噂に聞いていた。学長から、今日という日が来るのを直接知らされてもいた。世の趨勢は私の向かう方向とは真逆に向かっていたし、大学もそれに従うの必然だった。だから、審議官がやって来た事に驚きはなかった。私は自分の死刑宣告の日をある意味で、快活な気持ちで迎えていた。今、目の前にいる男が私に対して、実質的な死刑宣告を行ってくれるであろう。そこに何か爽やかなものを私は感じていて、それは死刑囚にとっての死刑執行日のような爽やかさにも思えた。

 各地の大学に審議官が現れている話はもうどの教授も知っていたし、次はどこの学部が潰され、どこの学部が増強されるのかというそんな話で学内はもちきりだった。生徒達もそんな話ばかりしていて、おとなしく授業などできない状況だった。

 私がシェイクスピアの授業をしていると、突然立ち上がり、こんな事を言った生徒もいた。

 「先生、シェイクスピアなんか学んで一体、何の得になるんですか?」

 その生徒は優秀な学生として知られていた。成績も良かった。後に、彼は大企業に就職していった。その会社とは「我々の為の我々」を標榜した企業系列に属していた。「我々の為の我々」は今や、社会に広がる大きなテーゼとなっていた。「我々の為に我々は生きるのであり、我々の為にならないものは除外すべきである」 これが大きな倫理であって、シェイクスピアは除外される流れにあったというわけだ。

 …私は今、審議官と相対して、何となくその生徒の事を思い出していた。あの時、私は生徒の問いにまともに答える事はできなかった。彼の答えにまともに答える事は「原理的に」不可能だった。何故なら、「我々」が全ての意思決定を行う世界では、それに反するものにはどんな答えも無意味だから。あの時の教室の雰囲気は、みな生徒の方に肩を持つ、という風だった。私は…目の前の審議官に何故か、あの生徒の面影を見出していた。

 「シェイクスピア研究ね…一体、何年やられているんですか」

 審議官は積み上がっていた本の一つを手に取り、ぼうっと眺めていた。それは当時のイギリスの舞台装置について書かれた洋書だった。

 「二十二年です」

 私は審議官の顔を見ていた。それは、くたびれた、人生に疲れた顔にも見えたし、あるいは自分は高潔な義務を負っているという気概のある顔にも見えた。いずれにしろ、生真面目な人物であるのは確かなようだ。

 「二十二年……ですか」

 審議官は本を元に戻した。全然興味がなさそうだった。

 「あなたの事を、他の方々がどう思っているかというのはご存知ですか?」

 「他の方々とは?」

 「『我々』に決まっているでしょう?」

 審議官は眉間に皺を寄せた。『我々』という言葉はこの社会では、最も大切な言葉と言えた。それには重要な意味が込められていた。

 「失礼ですが、山崎さん、あなたは自分が『我々』の一人だという意識があるんですか?」

 「もちろんです。信号は守りますし、法律も守ります。人を殴ったりもしませんし、飲み会で自分の話ばかりしたりしませんよ」

 はあ、と審議官は大きく溜息をついた。本当に呆れた、という感じの溜息だった。

 「一体何年前の話をされているんですか」

 審議官は私を睨みつけてきた。私は無意識的に、微笑んでいた。

 「『思想調整』の事は知っているでしょう。『我々は我々の為に』 これが社会のテーゼです。もう十五年も前にこの運動は始まって、一般化しています。『我々』が『我々』である為には効率化が必要です。我々の目的と、その為の過程を一致させる必要がある。くだらないろくでなしばかりの社会ではどうにもならないし、ろくでなしには自分はろくでなしだと認識させる必要がある。その方が全体を考えた時には効率がいいですからね。だから、全体の価値観を統一する必要がある。我々は自分達の中から、ほんの少数の些細なノイズを除去する事によって、社会を効率化する事を望んだのです。その為の『思想調整』です。思想調整官とはあなたも会った事があるはずだ」

 「ありますね」

 私は去年にあった思想調整官を思い出していた。若い女で、弁護士だったそうだが、自分の頭の切れ味に酔っているようなタイプの人間だった。

 「その時は、なんと言われたんです? 思想調整官に」

 「嫌味を言われました」

 「嫌味じゃないですよ。…どうしてわからないんですか? 正論ですよ、正論。思想調整官は正論しか話しません」

 審議官はイライラして立ち上がった。私はその様子をじっと見ていた。審議官は軽く、書棚を拳で叩いた。

 「どうしてわからないんですかね? 学長からあなたの所に何度か打診が言ったはずだ。研究対象を変えろ、と。もっと効率の良い、『我々』の為になるものにと」

 「はあ。じゃあ、『我々の為になるもの』とは一体、なんですか?」

 「…言わずともわかっているでしょう? 言わせたいんですか?」

 審議官は腹を立てているようだった。私は妙に落ち着いた気持ちだった。

 「まず、基本的に文系は駄目です。あまりにもノイズが多く、リスクも多い。役に立たないものが多すぎる。昔は我が国の最高学府に『インド哲学科』というものがありましたが、そんなもの一体、何の役に立ちますか? あれをさっさと排除したのは政府の英断でしたよ。…まあ、文系は基本的に駄目ですね。哲学なんかはほとんど役に立たないし、文学は意味のわからないものが多すぎて、それはほんの一部の好事家の為にしかならない。だから、我々はその大半を切り捨てたわけです。ですが、その中には残るものもあります。『我々の愉しみ』になるものも中にはあるのでね。しかし、そういったものも、順に新しいものに書き換えられていっています。西洋では、ようやくホメロスを捨てたらしいですがね。何故かはわかりませんが、向こうではホメロスを排除するのに反対運動が起こったそうですよ。まあ、ほんの一部の人間が騒いだだけだったので、すぐに収まりましたが」

 「それで? 理系だといいんですか?」

 「理系の方が、我々の為になるものが多いですからね。かつて人間は宗教に囚われて、自分達の事を蔑ろにしていましたが、今や宗教から解き放たれて、自分達の事を考えるようになりました。その中でも科学は特に、生活の礎になっている。様々な科学理論は我々の生活の下支えになっている。そしてその元になるのは数学だ。だから、数学や科学は基本的に奨励されます。当然、工学や建築学などもそうだ。あなた方がやっている文学研究などは基本的に一番無駄なものだ。特に、今は人工知能が、我々の為の『作品』を多く輩出してくれますからね。その流れは21世紀初頭から始まりました。当時は人間がクリエイティブな部門を請け負っていて、その為、人々は『独創性』などというわけのわからないものに振り回されましたが、今はそうではありません。今、『クリエイター』はほとんどいない。我々の視覚を完全に計算しつくした上で出てくるアート作品、我々の脳に快を与える音楽、映画。そういうものを最も高度な人工知能が作り出してくれます。最も、人工知能もまだ完全とは言えないから、人の手直しがまだ必要ですがね。ま、それもいずれ必要なくなるでしょうが」

 私は男の話をじっと聞いていた。もちろん、全て知っている話だったが、私はここでじっくりと話し合うつもりだった。

 「ではシェイクスピアはどうなんですか?」

 「…散々、それも聞いたはずでしょう。シェイクスピアは、政府の会議によって否定されました。『我々』の投票においても、シェイクスピアは必要ないという判断が出たのです。脳科学的に見ても、シェイクスピアは人間に良い影響を及ぼすという結果は出ていない。ですから、シェイクスピアは否定されたのです。あなただけですよ、シェイクスピア研究なんて酔狂な事をやっているのは」

 「ですが、シェイクスピアの美というのは…」

 「『美』ですか。そんな古臭い観念を振り回されても困るのですよ。困りますねえ。我々の文化の形成期、その初頭にはあなたのような人物はいました。自分達のしている事は高尚な文化だと主張し、既得権益を守ろうとする人々が。ですが、彼らは、少数の意固地な人間を除くとみんなこちら側へ来ましたよ。実際の所、彼らに対してはより高い地位、報酬、より多くの権利を約束したら、みんなこちら側にあっさりと移動しました。お笑い草だったのは、『文学を守る会』の会長なんていうのが、真っ先に、自分の主張を捨てて『文学は一種の洗脳にすぎない』という論文を書いて我々に貢献したという事です。最も、洗脳が悪い事だなんて主張は前時代的ですがね。どちらにしろ、『美』なんてものにしがみつく人はあなたのような骨董品を除けばほとんどいません。誰しも時代の流れに従います。多くの人間はただ慣習にしたがって事を行っているにすぎない。信念や価値観など、我々にとっては必要のないノイズでしかありません。まあ、あなたは自分の信念を持っていると主張するんでしょうが、実際の所は社会にとってノイズでしかない。昔から大切にされていた古典というものは、人々の脳を調べた所、それほど好影響を与えない事がわかりました。二十年以上前に発表されたあの有名な論文ですね。アメリカと日本の科学者が共同で研究したものです。あの研究によって我々の文化は一気に促進しました」

 「それでシェイクスピアは脳科学的に不要だと?」

 「その通りです。一万人の脳を精密に検査した所、そういう結論に達しました。シェイクスピアだけ調べただけではありませんがね」

 私は研究室を見渡した。書棚には本が詰まっていて、そこらに本が積んである。これら全てが「ノイズ」だとは…。

 「で、シェイクスピアもゲーテも、モーツァルトもラファエロもみんなノイズなんですか?」

 私はやけくそになって質問した。審議官は微笑んでいた。

 「残念。一つだけ例外があります。モーツァルトです。モーツァルトは脳に良い影響があります。ですから、我々の文化に保存されます。これは日本の脳科学者、ナカミチヨシコが発見した事です。ナカミチはご存知でしょう?」

 「モーツァルトを聴くにも一々脳の電流を測定しなきゃいけないんですかね。単にモーツァルトを聴く事すらできないんですかね。あなた方の文化というのは」

 「『我々』の文化です。あなたの間違いはですねーーー」

 審議官は熱意のある目になっていた。この手の議論はさんざんやった事があるのかもしれない。

 「そこですよ。いつも、『私』と『私以外』を分割する。それがデカルト以来の間違いですよ。その考え方が人間を孤独にさせ、不幸に陥れてきました。『我々』の文化です。あなたは言い直すべきだ」

 「どっちでも同じでしょう。くだらない。パンとサーカスの延長だ。パンとサーカスで一生遊んでろと命じる親のようなものですね。あなた方は。本当にくだらない。思えば、21世紀初頭から全てが狂ってきたんだ。…いや、歴史を調べれば二十世紀末からですかね。ここで、カルチャーが失墜し、サブカルチャーが興隆してきたと歴史書にはあった。それが『我々』の文化の素です。審議官さん…」

 「なんです?」

 私は笑っていた。

 「知ってます? 21世紀初頭に『異世界小説』というものが流行ったのを。今は一つも残っていませんがね。データベースに寄れば、『一部の人々の嗜好に合致した、各個人の欲望を叶えてくれる理解しやすい物語。複雑な言語表現は禁じられていた』となっていますね。あれは、脳に良い影響を与えたんですかね?」

 「『異世界小説』ですか…。私も読んだ事はありませんが、もちろん知っていますよ。古臭い物ばかり研究しているあなたは知らないでしょうが、『異世界小説』は我々の文化にきっちり流れ込んでいます。ただ、あの手の作品の問題はそれが一部の人間の嗜好しか満足させなかった事と、作り手が人間であったために限界があった事です。その問題は後に解決されたのですよ。我々は常に最高度のクオリティの作品を作る人工知能を生み出したのです」

 「ああ、そうですか。あなたの言う最高度のクオリティというのが、どうにも程度の低いものに思われて仕方ないのですがね。私には」

 「あなたはノイズですからね。致し方ありません。今は過去の哲学者がうんうん頭を悩ませていた問題が、システムによって、工学的に解決可能となったのですよ。それが実現しつつある今、あなたのようなへそ曲がりに時間を費やしている暇はない」

 「……ああ、後、YouTuberなんてのも知ってます? データに寄ればそういう人もいて、一世を風靡したそうですが? あれはこの文化に流れ込んでいるんですか?」

 「YouTuber? …ああ、それも同じですね。『充足コミュニケーション』として、それも今は人工知能が役割を果たしています。YouTuberというのは当時は簡単に得られる充足コミュニケーションの類で、動画を見ている間は脳が活発化している事が確認されました。ですが、これも人間がやっている事で限界が生じましてね。今は各人が自分にあったコミュニケーション相手と親密な関係を築く事が可能になっています。脳に様々な情報を送り込む事で。大体、こんな大学という実在の建築物自体ももう必要ない時代なんですよ。あなたの所の学長にも忠告したんですがね」

 「ああ、そうですか。色々、よくわかりましたよ」

 私は立ち上がった。随分喋ったなと思う。そんなに喋る事はなかったのに。

 「『我々の文化』は完璧なんですね。そういう事ですね」

 「いいえ、我々の文化はまだ完璧ではない。まだまだ改善の余地がある。例えば、あなたのようなエラーが発生するとか。人はシステムによって、構造によって救われるし、ほとんどの人間は生まれ育って、自分が生きてきたシステムに反しようとはしない。今や、犯罪者というのは激減しました。犯罪を起こす脳のパターンが特定されて、そのパターンが検出されれば直ちに排除されるので。私はあなたも、そのパターンをいくらか発しているのではないかと疑っていますが」

 審議官は痛いところを突いているかのような雰囲気を出していた。私は窓の外を見た。曇り空だ。

 「…で、シェイクスピアはどうなりますか?」

 「削除されます。データベースから削除されます。授業もなくなります。あなたは違う分野を研究する事になる」

 「そうですか。ここの本は?」

 「燃やされます」

 「人類の貴重な遺産を消しているという感覚は?」

 「何が人類の貴重な遺産かを決めるのは『我々』だ。それも、我々が主観的に決めるのではない。我々の脳の状態をスキャンして科学的に決定する。例えば、宗教的な祈りは脳に良い影響があるとナカミチヨシコが発見した。それで、祈りというものは文化的に残してもいいという事になった。…実際には、わざわざ祈らなくても、脳に好影響を与える方法はいくらでもあるので、本当に『祈る』人はもう一人もいませんがね」

 「『神を信じるとは、世界の事実によって問題が片付く訳ではないことを見てとることである』 この言葉を知っていますか?」

 「…いいえ、なんです? それは?」

 「ウィトゲンシュタインという哲学者が書き残したメモですよ。彼はこうも言っていますね。『祈りとは世界の意義についての思想である』と。これがどんな意味かわかりますか?」

 「さっぱり。興味がありません」

 「世界というのはただそれだけであるというものではないという事ですよ。そう『思う』から祈るのです。事実としての世界の外側に何かがあるからこそ、人は『祈る』のです。ウィトゲンシュタインはそれを『語り得ぬもの』と呼んだ。それは神であり、倫理であった」

 「それで? 何が言いたい?」

 「別に。ただ、なんでもドーパミンやオキシトシンと関係づけなければ話せない連中よりはマシだと思いましてね。人間というのは、自分達の世界の外側を認める所が面白いのだと思いますね。脳の中の事実は我々の外側ではない。正にそれが我々そのものなんでしょう。だったらそのトートロジーから抜け出る事がない。何も成長せず、苦しみもせず、ただ無限に自分を肯定しているだけの『我々世界』。歴史的にはインターネットの普及が『我々世界』の形成の第一期と見られているようですけれどね。相互の主観の交流によって、『我々』の根幹が次第に形成されていった、と。ウィトゲンシュタインなら『我々』の外側に語り得ぬものがあると、語ったかもしれません」

 「くだらないおしゃべりは良しましょう。ウィトなんとかいう哲学者は聞いた事がない。多分、データから消されたんでしょう。ま、哲学者は大抵役立たずですから。それより、あなたの処遇です。これには同意していただけますね?」

 「同意しなかったらどうなるんですか?」

 「修正所送りです。『我々』に適合できるよう、再教育がされます」

 「『馬鹿』にさせられるんですね」

 「…そんな物言いが二度とできないようになります」

 私はふんと鼻で笑った。修正所に行って、帰ってきた人間というのを一度も見た事がない。向こうで何が行われているかはわからない。…もしかしたら『異世界小説』を百時間ぶっ通しで読まされ続けるなんて原始的拷問をやっているのかもしれない。…いや、原始的「快楽」と呼ばなければいけないのだろうな。

 「わかりました。同意しますよ」

 私はにこやかに答えた。体制に反抗するつもりはない。なにせ、この世界は『我々』で構成されている。レジスタンスがどこかにいるとは聞いた事がない。それに、レジスタンスはどうやって抵抗するんだろう? 密かにシェイクスピアの読書会でもするか? そこに思想警備隊が乗り込んできて、片っ端からシェイクスピアを破り捨てていくのか?

 …何もかも嫌だった。私は、敗北する事にした。

 「同意しますよ。シェイクスピアも焼き捨てる事にしますよ。捨てるのはそっちでやってくれるんでしょう?」

 「いいえ、山崎さんあなたにやってもらいます」

 それも自分でやらせるのか…。私は少々落ち込みながら、首を縦に振った。やれやれ。

 「山崎さん、それにしても、こんなに簡単にあなたが我々の意向に同意してくれるとは思っていませんでした。あなたに関してはもっと手を焼くと思っていました。今の今までそう思っていた。あなたはきっと抵抗すると。それが、こうも簡単に…。我々としては感謝しますよ」

 「それはどうも。ところで、次の研究課題はエックハルトなんてどうでしょう?」

 「なんですか? それは?」

 不穏な空気を感じて審議官は眉をしかめた。警戒しているらしい。

 「昔のキリスト教徒なんですけどね。なかなか野心的な人で、まあ、実質的には哲学者ですね。かなり変わった説を唱えて、仏教に似ていると言う人もいますが、非常に面白い思想を唱えた人なんです。かなり難解でしてね。まあ、脳に好い影響はないでしょうな。あまりにも異端な説を唱えたんで、キリスト教から破門されたんですよ。誰かに似てますね。でも、エックハルトの思想は二十世紀頃までは保存されていました。私の持っているデータにその事が載っています。古びた図書館に行けば、まだ本があるかもしれません。私も直接は読んだ事はないのですが。非常に興味深いのですがね。特に、異端な説を唱えて破門された所が。しかし、そういう人の思想が重要視されて、ある時期まで残っていたとは興味深い。そういえば脳に好影響のモーツァルトもまた、当時の社会とは馬が合わずに借金まみれで死にましたっけ……」

 「修正所送りだ!!」

 審議官は突然怒鳴った。彼は満身を怒りに震わせて、立っていた。

 「修正所送りだ!! ちっとも更生する気がない! 『我々』になるつもりがない! あんたは人としては未成熟な人間だ! この愚か者だ! 直ちに修正所送りにしてやる! あんたは、私がそれをするだけの権限がないと踏んでいたのかもしれないが、あんた一人を修正所送りするぐらいなら可能だぞ! やってやる! やってやるからな!」

 「まあ、そう言わず…。このエックハルトっていうのは面白いんですよ。なんでも、ハイデガーに影響を与えたらしくて……」

 「修正所送りだ! ふざけるな!」

 審議官は怒鳴ると、くるりと後ろを振り向いて、扉を開けて部屋から出て行った。相当に怒っているようだった。

 やれやれ、怒りっぽい奴だな、これではどっちが成熟しているのかわかりゃしない。私はブツブツ言いながら、再び窓の外を見た。相変わらずの曇り空。

 審議官が出て行った部屋には静寂しか残っていなかった。あとは埃っぽいシェイクスピアの著書。あの審議官は、きっと一時間としない内に、執行者をよこすだろう。審議官がそれぐらい荒っぽい事をする、というのは知っていた。私は無駄に挑発してしまったわけだ。

 しかし、修正所に行くのなんてごめんだった。

 それで私は常日頃から、あたためておいた秘策を実行する事にした。なんてことはない、それは昔から人がやってきた事だった。小説なんかでもよくある。

 私はニヤッと笑った。自分自身に対して、自分がタフな事を見せようとした。

 それが私の最後の『抵抗』だった。


 私は机の中の拳銃を取り出す為に立ち上がった。引き出しから拳銃を取り出し、こめかみに当てると、躊躇なく引き金を引いた。



 ……それにしても、と私は思う。どうして拳銃なんてものがこの社会で簡単に手に入ったんだろうな。「我々」社会にも「穴」があるという事なのだろう。じゃあ、完璧な社会じゃないじゃないか。「我々」もまだ完璧ではないんだな。

 不思議だな。不思議だなあ。


 私のこめかみには穴が開いていた。



 まあ、そんな事があったという事だ。我々諸君。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 皮肉なところがとても面白かったです
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