第九十五章 大敗
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「約束の援軍は!何故来ない」
漢中から蜀に侵攻する李通、王覇を迎え撃つのは、延岑である。
延岑は公孫述より大司馬・汝寧王の位を授かっている。公孫述から賜った白い戦袍に美しい細工の施された鎧兜、刀身に龍の姿が彫られた白鞘の剣などを身に着けていた。
従者の屈狸からは、日焼けした首から上が浮いて見えて全く似合わない、と酷評されている。
援軍が来ないことを憤慨する延岑に、屈狸は言った。
「余所者が大出世したんです。失敗して処罰されろ。あわよくば戦場で死んでしまえ。そう思うやつがいてもおかしくないでしょうよ」
「この国難にそんな馬鹿なことをするやつが・・・いるのか」
動きの鈍った敵軍を訝しく思いながらも、李通と延岑は畳み掛けるように攻撃を続けた。
成都の居城で延岑の敗報に接した公孫述、その様子を見て待ってましたとばかりに進み出たのが大司徒の李熊である。
「大軍を任されながらこの体たらく。このまま済まして良いものでしょうか」
公孫述は渋面を作って返した。
「我が国は危難に見舞われている。妄りに罰して乏しい将星を損なう暇はない。嫉妬から仲間を陥れた老臣を罰する暇も、同様にない」
李熊はヒッと短い悲鳴を上げて後ずさった。
「・・・確証がないので鎌をかけたのだが、残念な事だ。しかし、先程述べたとおりである。」
李熊は震えながら公孫述の顔を見上げる。公孫述は杖をコツコツと鳴らした。
「不問に付すから退がれ、と言っている」
李熊は床に額を擦り付けながら退出していった。
入れ替わるように朝堂に入ってきたのが趙匡である。
「おお、趙匡か。探していたという書物は見つかったか」
「陛下のお心遣いもあって、三巻のうち二巻までを手に入れることが出来ました。しかし、その事を報告しに来たわけではありません」
趙匡は跪いて拝礼すると、報告した。
「隴の隗囂、劉秀率いる漢軍と戦端を開いた模様です」
公孫述は杖をついて玉座から立ち上がった。
「隗囂が漢に反旗を翻したと!てっきり、劉秀に与するものと思っていたが・・・」
趙匡は笑みを浮かべている。これで漢との戦争も、有利とは言わずとも互角まで持っていけるかもしれない。
その時、庭に音もなく降り立つ人影があった。趙匡の放った乱波の一人であった。
「続報をお知らせいたします。漢軍、隗囂軍に大敗。撤退する模様です」
公孫述は口をあんぐりと開けて杖を取り落とした。趙匡もまた、梟のような大きな目を瞬かせていた。
2
話は数日前に遡る。
劉秀率いる漢軍は祭遵を先頭に隴西に侵攻を開始していた。祭遵は隗囂に対して強硬な姿勢を取るように主張してきた急進派で、今回の遠征に乗り気であったため、先鋒に選ばれたのである。
隴山において最初の戦闘が始まった。守将の王元は、伐採した木で道を塞ぎ弓矢や投石で攻撃してきた。祭遵が障害を乗り越えて白兵戦を挑むと、王元の軍は後退していった。
祭遵は追撃を仕掛けようと先行する。後続の部隊も追従したが、道は険しく狭かった。右手には山の斜面、左手には崖が広がっている。後続の部隊は、いつしか狭い山端に沿って伸びきった陣形になってしまった。
劉秀は、ハッとして言った。
「来歙の話では、この辺りは封鎖されていたはずだ。何故、今は倒木がないんだ」
その時、轟音と共に山の斜面が揺れ動いた。
王常が叫ぶ。
「木が落ちてくる!避けろ!」
雪崩のように、切り倒された木が山の斜面を滑り落ちてきた。避けろ、といったところで避ける場所がない。多くの漢兵が悲鳴とともに木と土砂に押し流され、崖下に落下していった。
「この王元を、そして隗王を見くびってもらっちゃあ困るな」
山肌に隠れていた王元は首尾よく事が進んだのを見ると、周囲に潜む兵士達に合図をした。鎧に草木を編みこんで偽装し、吹き矢を身に着けている。天水の山岳に土着する戦士たち、毛人である。毛人達は音もなく忍び寄り、襲撃を始めた。
漢兵達は襲撃者の姿を捉えられず、混乱するばかりだ。
「撤退だ!総員撤退!荷物は放棄し、人命を優先せよ。」
劉秀は喉の潰れんばかりに叫んだ。
その声に諸将がまず冷静さを取り戻し、敗軍を纏めて反転した。しかし、王元は毛人達をけしかけて、なるべく多くの兵を削ろうとしている。
その時、山肌を駆けて敵方に進んでいく者がいた。目にも止まらぬ槍さばきで周囲の敵を蹴散らすと道の真ん中に飛び、降り立って両手を広げる。
右手には大身槍、左手には瓢箪を持っている。
「陛下ぁ!ここは、俺に任せてくれぇ!」
「馬武、しかし……」
「後から必ず戻りまさぁ。さあ、行った行った!」
馬武は劉秀を振り返ってはにかんだ。
「……わかった。恩に着る!」
馬武は遠ざかる蹄の音を聞きながら、瓢箪の酒を口に含み、槍の穂先に噴きかけた。
「この馬武が相手になってやる。面倒だから、まとめてかかって来な」
馬武に一斉に敵が跳びかかった。土煙の中に馬武は消えた。
劉秀は歯を食いしばって、振り返らずに進んだ。
劉秀達は文字通り命からがら隴山を脱出した。
危険と思われる地域を抜けると、劉秀達はひとまず野営をして、人的・物的損害を正確に把握しようとした。
遠征軍はその兵力の三分の一を失っていた。加えて兵站物資のほとんどを放棄しており、その損害も計り知れなかった。
そして、誰もが馬武のことを考えながら、口には出せなかった。
いつも明るく豪放磊落で、そして無類の強さを誇ったあの馬武はもういないのだ。
その事を口に出すと、何かが終わってしまうような気がして、誰もがその話題を避けていた。
代わりに、誰彼となく、深いため息をつくのであった。
その時、野営地の入り口に立てた松明の火に、遠く地平に映る人馬の影が揺らめいた。
見張りの兵が近づいてきたその影に誰何をする。
「合言葉!」
「うるせえ!」
見張りの兵士はいきなり瓢箪で殴られて、のびてしまった。
「戻ったぞぉー!」
諸将の誰もが天幕を飛び出して駆け出したが、一番早くその姿を見つけたのは劉秀だった。
「生きていたのか!馬武ッ!馬武!」
馬武は目を丸くしている。
「必ず戻るといったじゃあないですか」
劉秀は半泣きになって、馬武を抱きしめるのだった。
蜀侵攻の第一次遠征は、ついでのはずの隴で躓くという結果に終わってしまった。
そして、この敗北はさらなる戦火を呼びこむ事となる。
驕り高ぶる隗囂、そして司隷部を狙う劉文伯。
欲深き獣達が、その牙を剥き出しにするのだった。




