第九十四章 決裂
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「桟道は敗れ乱れ、白水険阻にして、蜀を伐つ事甚だ易からず。また北辺には、劉文伯なる徒者ありて、民草を騒がす事急なり。臣隗囂、公孫述の討伐に與力せんとの熱き忠烈の心は燃え盛れども……えいっ!」
「来歙殿!竹簡を勝手に割らないで!」
「申し訳ありません。読んでる内に腹が立ってきて……私は臣下なのですから、殿をつける必要はありません」
来歙は割ってしまった隗囂の竹簡を拾い集めた。
来歙は隗囂の書簡を携えて一度帰還していた。
隗囂は相変わらずのらりくらりとして、計画中の公孫述討伐に加わろうとしない。
「仕方がない。公孫述の討伐を開始する」
「隗囂を放置して出征するのは、些か危険ではありますまいか」
馮異のいる長安から蜀郡へ侵攻するとなると、隗囂のいる隴右を背にすることとなる。隗囂が公孫述についた場合は背後からの攻撃を受ける事になるのだ。
「それは私も懸念するところだ。これを見てくれ」
劉秀が広げた革の地図には隗囂のいる隴右を踏破し、公孫述の支配する蜀郡へと向かう太い矢印が引かれている。凄まじい遠回りだ。来歙が想定していた長安からの経路には細い矢印が引かれている。
「なるほど。長安からの侵入は助攻撃。主攻撃は敢えて隴右から行なうのですね。公孫述もこのような大迂回は想定外でしょうな」
「隗囂がこの侵攻を妨げれば、敵として行き掛けの駄賃に滅ぼす。兵馬を供出するなど協力の姿勢を見せれば味方と判断する。今度こそ最後だ。卿には、協力を求める最後通牒を届けて貰いたい」
来歙は劉秀の璽書を携えて再び隗囂のもとへ向かった。
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「……という訳で、隗囂殿には蜀討伐へご助力頂きたく、重ねて申し上げる次第であります」
来歙から手渡された璽書に隗囂が目を通す。
隗囂の周囲には王元、王遵、牛邯といった主立った配下が集められていた。
隗囂は読み終えると憂鬱そうにため息をついて言った。
「申し訳ないが、我が領土では難事が多発しており、兵馬を割く余裕がない。陛下の壮図に参加できぬこと、臣は誠に心苦しく、また歯痒く思う次第である 」
来歙は立ち上がって隗囂を睨みつけた。
「貴方という人は……ここで協力しなければ叛逆と見なす。何度もそう言ったはずだ」
隗囂は口元を歪めて反駁する。
「乱暴なものの見方をされる。味方でなければ敵だ、などと。まるで夷狄のような発想です。白と黒の間に灰色があるように、物事には中間やどちらとも割り切れないものがあるのです。そういった立場を認めないのは、世の中が殺伐としていることの現れですな。恐ろしいことです」
「そんな話に付き合う気はない。隗囂殿、貴方は長男を洛陽に人質として差し出しているではないか。まさか、息子を見捨てるというのか」
隗囂は顎に手を当てて髭を触った。そして、無表情で言った。
「あれには可哀想なことをした」
来歙は全身の血が沸騰するのを感じた。
「てめぇの血は何色だ!」
来歙は懐刀を引き抜くと、渾身の力を込めて隗囂に投げつけた。
金属音が響き、大斧で跳ね飛ばされた懐刀は天井に突き刺さった。王元が咄嗟に防いだのである。
「何のつもりだッ!来歙」
来歙は王元と睨み合ったまま、じりじりと退り、やがて踵を返して走りだした。
「王元、牛邯、追いかけて始末しろ」
隗囂が言うが早いか二人の大将は駆け出した。隗囂は群臣を見渡して宣言した。
「この隗囂、公孫述に与し、銅馬帝を退ける。如かる後、天下を三分する」
王元と牛邯は来歙を見失ったが、考えられる逃走経路に別れて先回りをし、木を斬り倒して道を封鎖しようとした。しかし、この措置を妨害する者がいた。
「牛邯!やめろ。来歙はこのまま逃がしてやれ」
「王遵、何を言うか。隗王のご命令だぞ」
戟を突きつける牛邯に対し、王遵は怯まずに続ける。
「来歙は銅馬帝の親族だ。ここで奴を殺したら、妥協の余地がまったく無くなる。旗色が悪くなった時のために、降伏の目を潰すべきではない」
「隗王が敗れると言うのか」
「そうは言っていない。だが、複数の選択肢を残しておくべきだと思わないか。私は洛陽と連絡がつく。ここでお前が来歙を逃がせば、それをより良く伝えることも出来るんだぞ」
王元の担当した道は完全に封鎖されたが、牛邯のそれは中途で停止した。来歙は封鎖の甘さを訝しく思いながらも、脱出に成功した。
王遵が周囲に働きかけて逃がしてくれた、という情報が入ったのは、長安まで逃げ延びてからの事である。
王遵を足がかりに内部を切り崩す余地は十分にある、と来歙は思った。
劉秀は隗囂が敵に回ったことを受け、侵攻の準備を急ぎ完整させた。
隴右に侵攻する主力は皇帝劉秀が総大将である。
その下に耿弇、蓋延、王常、馬武、祭遵などを従えていた。
漢中に侵攻する別働隊は李通、王覇が率いている。
対決の時は近づいていた。




