第九十二章 有志竟成
1
ーーあんたもあたしの息子だよーー
天鳳四年八月のある夏の日、照りつける太陽のもと、一つの復讐が達成されようとしていた。
「ついに杜先を捕まえたぜ。おっかさん、あんたの手でやってくんな」
県宰の杜先を縛って転がすのは、若き日の張歩である。また、おっかさんと呼ばれた中年の女性は、呂母と後世に呼ばれる事となる者であった。
女だてらに商売で成功した呂母、その人生は県宰に息子を処刑されたことにより激変した。呂母はその財産と残りの人生を復讐に費やすことを決めた。徐次子や張歩という町の不良少年に金をバラ撒いて手なづけ、海賊団を結成して周辺を劫掠、勢力を拡大した。ついには討伐に乗り出した県宰を返り討ちにして、捕らえるに至ったのである。
杜先と共に縛られた官吏達は叩頭して助命を願った。杜先はがたがたと震えるばかりだ。
「私の息子は殺人をしたわけでもないのに、あんたの手で死刑にされた。だから、殺人をしたのはあんたさ。殺人をした者は死刑だね。何を今さら請うのかね」
呂母は手斧を県宰の首に振り下ろした。一度では首が落ちず、県宰はしめ損なった鶏のような寄声を発して転げまわった。徐次子と張歩が県宰の身体を押さえつけ、呂母は再び手斧を振り下ろして、その首を落とした。
「遂にやったな、おっかさん」
「ああ、息子の仇を討てたのはあんた達のおかげさ」
呂母の目に涙が浮かんでいた。彼女は二人の不良少年を抱きしめようとした。叙次子は年かさだったので、赤面して、寄せやい、といって後ろに退いた。呂母は張歩を抱きしめた。
「あんたも私の息子だよ」
張歩の心中は温かな血で満たされた。野良犬のような生活をしてきた張歩にとって、必要としてくれる人がいる、それだけの事がとても重要だった。呂母のために働く海賊稼業は、本当に楽しかった。ましてや、この人は自分を息子と言ってくれる。あんたなんかとは親でも子でもないと言った実母よりも、おっかさんのほうが大切だ。
大切なおっかさんは、しかし燃え尽きたように病に臥せり、三月の後に亡くなった。
「……王よ、斉王陛下。お休みのところ、申し訳ありませんが、至急の報告です」
温かな記憶を夢に見ていた張歩だったが、重要な要件ともなれば午睡を続けるわけにも行かない。報告を促した。
「洛陽の劉秀、耿弇を総大将として、総勢六万の軍勢で我が斉の国へ侵攻を開始しました」
張歩は深く長いため息をついた。
ーーおっかさん、海賊やってる方がよっぽど楽しかったよ。ーー
張歩は弟の張藍等の幹部を集め、対策を協議することとした。
2
耿弇は陳俊と劉歆(王莽の腹心とは同姓同名の別人である)を佐将とし、数万の軍勢で済南郡の祝阿に侵攻を開始した。耿弇が斉の国を平らげてみせると劉秀に願い出たのは五年前、それから折にふれ侵攻を建言し、ついに斉侵攻の司令官に任命された。
迎え撃つ張歩は部下を済南郡に派遣していた。大将軍の費邑は、歴下という城に駐屯し、様子を伺っていた。歴下の周囲には西に祝阿、東に巨里、南に鐘城という拠点があり、歴下にいればどの拠点が攻められてもすぐに救援を出せる。
「総勢六万とは舐められた物よ。我が斉の軍勢は二十五万、叩き潰してくれるわ」
「将軍、祝阿と鐘城が相次いで陥落しました!」
「嘘ぉ!?」
耿弇は最も守りの薄い祝阿に全軍を投入、陳俊を先頭に屠城する勢いで攻め立てた。そして、落城寸前にわざと包囲の一部を空けた。逃げ出した祝阿の兵は鐘城に逃げ込み、その恐怖が伝染する。鐘城の兵は、何と戦わずして城を放棄してしまったのである。
費邑は弟の費敢を巨里に派遣して守りを固めた。そんな折、逃げ帰ってきた捕虜から有用な情報がもたらされた。
「捕虜の話では耿弇は先に巨里を攻めるという。巨里を包囲する耿弇の背後を突くのだ!」
費邑は精兵三万を選抜し、巨里に向かった。しかし、巨里は包囲されていなかった。
巨里城の前に広がる平原に到着した費邑。
彼を待っていたのは、周囲の山々から猛烈な勢いで駆け下りてくる上谷郡の突騎兵と、死であった。
耿弇は偽情報を捕虜に掴ませ、制高点を確保して、費邑がノコノコ現れるのを待ち構えていたのである。
耿弇は費邑の首を槍に突き刺して高く掲げさせ、巨里城の周囲を回った。兄の死に恐怖した弟の費敢は投降してしまった。
済南群は耿弇の情報操作に踊らされ、あっさりと劉秀の手に帰したのである。
3
済南郡の西には、斉の国の本拠地である斉郡がある。斉郡の重要拠点は三つ。規模は小さいが守りの固い西安、鉱業都市である臨淄、そして斉王こと張歩の君臨する都の劇である。
「さて、西安は張歩の弟が駐屯し、守りも固い。手のかかる西安を先に攻略し、臨淄は後回しにする。五日後に侵攻を再開する」
張藍は耿弇軍に潜入させた間者から、耿弇がそう宣言しているとの情報を得た。
張藍は警戒を厳にし、耿弇を迎え撃つ態勢を整えた。
五日後、耿弇は臨淄を強襲し、半日で壊滅させた。
張藍は劇との連絡を絶たれることを恐れ、また策に嵌った混乱も相まって、西安を放棄して劇に逃げ込んでしまった。
陳俊は会議の席で、にやにや笑いながら耿弇に話しかける。
「俺達のことも騙しましたね」
「なに、敵が情報を取りに来る頃合いだと思いましてね。敵を欺くにはまず味方から、と言うでしょう」
耿弇は陳俊と劉歆に目配せすると、次の策について話し始めた。
「さて、これからいよいよ劇を攻めるわけですが、お二方に守って頂きたいことがあります」
合いの手のように耿弇の愛犬、皺が一声吠えた。
「それは劇までの道中で、略奪を決してしないことです」
「なに、そんな事ですか」
「続きがあります。劇についたならば、一斉に略奪を開始してください。田畑を荒らし、家財や婦女子を掠めてください。略奪がないと油断している張歩を慌てさせ、また、激怒させて冷静な判断力を奪うのです」
「耿将軍は……若いのにえぐいこと言いますね」
張歩もまた間者からその情報を得た。張歩は自ら二十万の大軍を率いて、劇の前面に陣を敷いた。
耿弇は張歩の大軍を見て、呟いた。
「罠だとわからなかったか、あるいはわかっていても釣られざるを得なかったか」
会議での略奪予告は張歩をおびき出すための罠だった。
王を名乗って君臨している以上、民の支持は欠くことが出来ない。略奪を予告されたのに手を拱いてるなどと知られたら、張歩の政権は成り立たないのだ。真相はともかく、慎重だと言われていた張歩を戦場に引きずり出すことに、耿弇は成功した。
「慎重、か。劉永が健在だった頃に打って出られていたら、我々も危なかった。石橋を叩き過ぎて壊してしまう者を慎重とは言わない」
張歩は腹心の重異を前面に置いて耿弇の到来を待った。重異は大彤という盗賊団の頭であったが、張歩に降り、その部将となった人物である。
耿弇軍の先鋒を務めるのは劉歆である。劉歆は重装歩兵を率いてゆっくりと進んでいった。劉歆は張歩軍の手前で進軍を停止すると、盾と槍を打ち鳴らさせた。
「ふん、こちらから仕掛けねば始まらぬという事か」
重異は仕方なく前進を開始した。
重異が劉歆の兵と干戈を交えたその時、側面から弩の矢が飛んできた。
「かかれ!張歩の横腹を食い破ってやれ」
陳俊率いる赤備えの弩兵の攻撃を合図に、上谷の突騎が出撃し、張歩軍の側面を襲った。予期せぬ方向からの攻撃に張歩軍は動揺した。
「伏兵がいた、だと!」
重異は混乱の最中、高台に登って戦場を見渡す耿弇の姿を見つけた。
「大彤の重異、ただでは死なん!」
目を血走らせ、弓矢を構えて耿弇に向かって放つ。その結果を見ることなく、突騎に背中から槍で貫かれ、重異は絶命した。
戦いは数的な劣勢を覆し、耿弇の大勝利に終わった。
「素晴らしい作戦でした。直ちに追撃を……耿弇殿、脚を負傷しているではないか!」
陳俊が叫ぶ。重異の最後の一撃は、耿弇の太腿を貫いていた。文字通り、一矢報いたのである。耿弇は矢が刺さったにも関わらず、佩刀で素早くその矢を刈り取り何食わぬ顔で指揮を続けていた。それがために、誰も気づかなかった。
「陛下が近くまでいらっしゃっていると聞きます。負傷しているのなら、無理せずに近衛の銅馬軍と兵を合わせて張歩を討ちましょう。」
「陳俊殿ほどの方がぬるいことを仰る。天子の乗輿が来るのなら、臣下は牛を潰し酒を温めて百官を迎えねばなりません。楽をするために賊を残しておくなど、あり得ませんよ」
耿弇は陳俊、劉歆を率いて張歩を執拗に追撃した。張歩は味方を盾にして逃走した。その逃走経路には死体が百里以上も続いたという。張歩は劇の内城に逃げ込もうとしたが、そこに劉秀が到着した。張歩はやむなく劇を放棄し、平寿という近隣の拠点に逃げ込んだ。
劉秀は耿弇に追撃をやめさせて、劇に呼び寄せ、宴を催してその労をねぎらった。
「卿の働きは、かつてこの地を攻略した韓信に並ぶ……いや、それ以上だ」
劉秀は耿弇を見つめて言った。
「有志竟成(志有る者は事ついに成る)。卿の信念が不可能を可能にしたのだ」
「私などには、もったいないお言葉です」
耿弇は周囲から酒を注がれすぎて些か酔ってしまった。酔い覚ましに庭に出ると、皺が尻尾を降っている。老犬とまではいかないが、すっかり大きくなった。
「なあ、皺。私は韓信のようにはならないよ」
皺は首を傾げて耿弇を見上げた。
「私は韓信がすべきだったことをするんだ」
耿弇はその後もいくつかの戦闘に参加するが、その活躍は主に佐将として卒なくこなす、といった地味なものに留まった。
斉攻略時に受けた怪我が尾を引いて活躍できなかったのだとする説、耿弇が残した調薬の処方箋がある事から医学の道に転じたとする説、諸説あるがどれも推測の域を出ない。
天下の平定を前に三十五歳の若さで将軍位を返上。以降は特進、つまり顧問として一歩退いた立場から政権を支えた。劉秀の信頼は変わらず、様々な問題に耿弇が呼ばれ、その意見が反映された。
後漢王朝末期、曹操の手によって滅ぼされるまで、耿弇の一族は繁栄した。
4
平寿に逃げ込んだ張歩はその後どうなったか。
平寿に待ち受けていたのは、同盟を組んだ蘇茂であった。
「耿弇はあの猛将、延岑をも破った知将なのよ。私を待たずに軽々しく事を進めて、どういうつもりなの」
「か、返す言葉もない。恥ずかしい」
張歩は顔を覆った。その顔は逃走の最中に泥がはねて汚れていた。
暫くすると、蘇茂の元に劉秀から書状が届いた。蘇茂は張歩の居館に出向いた。
「貴方を斬って降れば、列侯に封じてやるって。」
蘇茂は竹簡を張歩の目の前でバラバラにした。
「同盟を組む以上、隠してはおけないと判断したわ。私は、私は周建の仇を討つ。絶対に降伏しない」
「くふふふ、お綺麗なことを言う」
張歩は後ろに飛び退いた。箪笥の影や瓶の中から武器を持った兵士が飛び出し、蘇茂を囲んだ。張歩は懐から竹簡を取り出した。
「生憎、こっちも同じ物をもらったんだ。俺は乗ったぜ」
「薄汚い男ね、張歩。組む相手を間違えたようだわ」
蘇茂は九節鞭を構えた。
「美学を捨てたら、人間はおしまいよ」
張歩は蘇茂の首を手土産に、列侯に封じられた。
しつこく劉秀に抗ってきた蘇茂だったが、ここで命を失ったのである。
蘇茂を裏切って安寧を手に入れたかに見えた張歩。しかし、その心には空虚が広がっていた。
数年後、張歩は突然軍船を買い取り、昔の部下を集めると武装して海上に飛び出した。正確には、飛び出そうとした。
湾内から出ぬ内に、陳俊率いる赤備えの弩弓手に狙撃されたのである。情報が漏れていたのだ。
張歩の脳裏に走馬灯のように過去がよぎる。思い出すのは、呂母とともに海賊をしていた頃の事ばかりだった。
血溜まりの中で、おっかさん、と呟くと張歩は事切れた。




