第九十一章 董憲
1
董憲は朱塗りの槍を手に取って眺めていた。赤眉を離れて後、赤眉の名残りは眉から始めてほとんど捨ててしまった。赤い物で残ったのはこの槍だけだ。なぜ、自分はこれを捨てられなかったのだろう。
樊崇が死に、赤眉も滅んだ。一番先に抜けた自分はまだ立っている。その時々で最善手を選んできたつもりだが、ここからはどうか。劉秀は強い。蓋延は破ったし、龐萌には間髪入れず揺さぶりをかけたが、これらは所詮部将に過ぎない。もっと根本から戦況を覆さなければなるまい。
「父上、また槍を手入れしているの?」
いつの間にか五歳になる息子が自室に入り込んでいた。
「ああ、洛陽の銅馬帝はとっても強いんだ。しっかり準備しておかないとな」
「父上よりも強いの……?」
董憲は息子を抱き上げた。
「父上が負けるわけないだろ。心配ないからお外で遊んでなさい」
息子を部屋から送り出すと、来客があると伝令が入ってきた。来客とは劉紆政権の部将、蘇茂であった。蘇茂は目の下に隈ができており、化粧と相まって墓から蘇った幽鬼のようだ。
「あなたの誘いに乗って、龐萌が謀叛を起こしたそうよ。銅馬帝は激怒して親征を行うとか。名将董憲殿はこれをどう活かすのかしら?」
「龐萌を救援する。そして、親征してきた銅馬帝を討ち取るのだ。そうなれば、後継者の擁立で洛陽の政権は揺れる」
「そうなれば家柄の勝る劉紆様に民衆はなびく、と。賭けね、それは」
「危険な賭けほど儲けは大きいさ」
やがて、西防にいた佼彊と劉紆が杜茂に敗れて董憲のもとへ逃れてきた。
董憲はそれぞれの兵を合わせると龐萌の救援に乗り出した。
2
龐萌が包囲をしている桃城のもとへ劉秀は急いでいた。鄧奉の討伐以来、久々に時龍に乗っている。
「陛下ぁ、急ぎすぎです!既に遅れる兵士が出ている」
銅馬軍の東山荒禿が馬上で叫ぶ。
「今は何よりも早く桃城に向かわなければならない!遅れた者は後続の呉漢らと合流させろ」
時龍は主の意を察したかのように、更に速度を速めるのであった。
一方、董憲から救援として送られた蘇茂と佼彊は龐萌に合流し、迎撃の構えを見せていた。
「劉秀は昼夜もなく疾駆けして迫っているとか。ここを奴の墓場にしてあげましょう」
蘇茂は九節鞭を構えて笑う。
しかし、桃城の近傍についた劉秀軍は突如その動きを止めた。
この事に困惑したのは龐萌ら敵軍だけではない。荒禿は首を傾げる。
「なんであれ程飛ばしてきたのに、ここに来てゆっくりするんですか」
「戦うために急いだわけではない。助けが近くにいるとわかっていれば桃城は持つ。逆に桃城を囲む敵は疲れてくる頃だろう。そして……」
劉秀の言うとおり、皇帝自らが近くまで来ていると知った桃城の守備兵は士気が上がり、龐萌らが攻め続けても陥落しなかった。龐萌の陣では糧食が尽きかけ、長引く包囲戦から病にかかる者が現れた。
「ぬう、急いで来たかと思えば戦わずに滞陣する。動きが読めぬ」
「くっ!そうこうしてる内に呉漢達が集結したわよ」
劉秀のもとに集ったのは、呉漢、王常、馬武、王覇、蓋延、王梁といった面々だった。劉秀は自ら陣頭指揮を取り、それどころか自ら剣を抜いて先頭で戦った。
押され始めた龐萌は歯噛みする。
一方意気上がる攻め手の側では、蓋延だけがその動きに精彩を欠いていた。
「ボンヤリしてると危ないよ!替われ、蓋延!」
「……王梁。軍に戻れたのか」
予言により大司空に選ばれた王梁であったが、大規模な治水工事の失敗により既に解任されていた。その後は将軍に任命されるも、名誉挽回のために無謀な作戦を行い、劉秀に咎められるとそれを無視。命令違反により遂に捕らえられて処刑されかかったが、土壇場で怒りを鎮めた劉秀に許された。
「長いこと謹慎したけどね。だからさ、やらかしてるのは蓋延だけじゃないわけ。そんなに悄気げた顔するなよ」
王梁は得物の锏を構えた。その顔は悪い憑きものが落ちたように晴れやかだった。
この戦いにおいて諸将の中で最も奮戦したのは王梁だった。彼はその働きぶりを褒章され、山陽太守に任命された。
蘇茂と龐萌は敗軍をまとめ、東海郡の昌慮へ退却した。
2
「つ、次の策、次はどうするんだ」
狼狽えるのは昌慮に迎えられた劉紆である。一応の盟主であるから会議の上座に座っているが、見た目程には貫禄がないことが声音の怯え様から伝わってしまう。
「精鋭を選抜し、銅馬帝を直接襲撃します」
董憲は直ちに壮士三千人を選抜し、出発させた。しかし、この決死隊は呉漢率いる烏桓突騎の前に全滅させられるという、悲惨な結末を迎えた。
慌てふためく劉紆を無視して、董憲は次の策を打った。
「報告します。盗賊集団の五校、董憲軍に合流した模様」
「ほう、散り散りになったと思っていたが。」
劉秀の思案する顔を見て、蓋延が進み出る。
「董憲はこの俺を破るほどの知将、五校も凶猛さでは赤眉と並ぶといわれた集団。ここは全軍をもって叩き潰すべきです。俺を先鋒にしていただければ、必ずや雪辱を果たして見せます」
「卿が元気を取り戻したのは喜ばしい。だが、今はその元気を発揮するときではない。暫くの間、全軍停止する。長期宿営の態勢を整えよ。敵の挑発には乗らぬこと、心せよ」
数週間経つと昌慮城から夜間に逃亡する兵が相次いだ。殆どが五校の兵だった。
「糧食の枯渇という五校の問題は根本的な解決を見ていない。昌慮の食糧を食い尽くした後は、我らとの戦闘で略奪することが出来なければ、去るしかないのだ」
五校が逃げ散った後、劉秀は攻撃を再開した。まさに総攻撃といった勢いである。
「敵が強勢のときは対決を避け、弱勢となったら全力で攻撃をする。それだけの事で、これほど鮮やかにやられるとはな」
「感心している場合?私は青州の張歩を頼るわ。貴方は?」
「私は龐萌、佼彊とともに、劉紆様を伴って郯城へ向かう。武運長久を祈る」
「貴方もね」
董憲達はほぼほぼ身一つで逃げる事となった。呉漢の追撃に耐えかねて佼彊は降伏してしまった。しかし、董憲が郯城の付近の山に逃げ込んで無事であることを知った部下達は、郯城を落として董憲を迎え入れた。
「くだらん。人望の無駄遣いだ」
呉漢は郯城を激しく攻め立てる。遂に、董憲と龐萌は夜間に脱出を図った。
「待ってくれ……置いて行かないでくれぇ」
全身汗みどろになって暗い夜道を走るのは、逃走の混乱の最中に輿ごと投げ捨てられた劉紆である。
夜道の先に灯りが見えた。近づくと数人の兵士が野営をしていた。
「お、お前らは見たことがあるぞ。頼む、余を置いて行かないでくれ。一緒に連れて行ってくれ」
兵士の一人は口元に笑みを浮かべていた。
「置いていくだなんて、とんでもねえ。待ってたんだ」
この兵士達を見たことがある、という劉紆の記憶は正しかった。兵士達はかつて昌慮に出入りをしていた五校の一員であった。五校の渠師である高扈は、劉秀へ降伏するための“手土産”を狙って部下達を潜伏させていたのである。
劉紆の首は洛陽に送られた。劉永から続く梁の政権はここに滅亡した。
高扈は列侯に、五校は兵士として軍に組み入れられるか帰農した。盗賊集団五校もまた消滅したのである。
劉紆の死をもって一応の区切りと見た劉秀は、洛陽に帰還した。
3
建武六年二月、朐県に逃げ込んだ董憲と龐萌の軍は、呉漢の猛攻の前に兵糧が尽きようとしていた。
董憲は龐萌とともに贛榆県を襲撃し、これを攻略した。
「この状況でまさか一城を落とされるとはな。しかし、この陳俊の赤備えを舐めてもらっちゃあ困る」
駆けつけた琅邪太守の陳俊により、再度贛榆を奪取されてしまった董憲達は、近傍の湿地帯へ逃げ込んだ。
「朐城が陥落し、董憲様のご家族は捕縛されたとの事です」
「ふん、今さら人質など……董憲殿?」
董憲はガタガタと震えだした。その脳裏には優しい妻と天真爛漫な我が子の姿が浮かんでいた。廉丹を討ち取った頃には酷薄だった董憲、その精神の刺を長い時間をかけて抜いていったのが家族だ。
「こ、降伏する……降伏だ」
「ふざけるな!今さら降伏だと」
しかし、龐萌は董憲と自分では立場がまるで異なるという事に気づいて押し黙った。龐萌は裏切り者の謀反人だが、董憲はただの敵対する群雄である。今までの劉秀の振る舞いを見れば、董憲は許される可能性が高い。
「畜生!勝手にせい!劉秀はともかく、あの呉漢が降伏を受け入れるとは思えんがな」
龐萌は自らの部下を引き連れると董憲の軍を離脱し、逃走した。龐萌が潜伏先で恩賞目当ての一般人に呆気なく殺されるのは、もう少し先のことである。
董憲は部下達を集めると涙して謝罪した。
「智将などと言われて舞い上がっていたのだ。お前達には長いこと苦労をかけたな。それももう終わりだ」
部下達も嗚咽に包まれていた。土壇場で家族を捨てられないその優しさは弱さでもあるが、部下達に愛されたのもその優しさからだった。
「顔を上げてください、董憲様。貴方が降るというならついていきましょう。しかし、龐萌の捨て台詞が気になります」
「そう、呉漢に降れば殺されるだろう。しかし、降る相手は呉漢ではない。これが私の最後の策だ」
董憲は数十騎を引き連れて出発した。その目指す先は呉漢が占領した朐城ではなく、遥か百里(400粁)以上も離れた洛陽であった。洛陽の劉秀に直接降る。これが董憲の最後の策だった。
昼夜を問わず駆ける董憲達、しかし道半ばまで進んだ頃、森の中で異様な風体の集団に囲まれてしまった。鉄騎に跨り武将のように鎧っているが、黒い羽をあしらった服飾品はまるで烏の怪人のようであった。
「貴様らは、烏桓突騎!」
「主はこの事あるを予期し、予め我らを向かわせていたのダ。主は言われタ。例え降っても危険な人物、陛下のためには消しておくのがイイ、と」
高午は韓湛ら烏桓突騎の中でも最精鋭を引き連れていた。殺気に満ち満ちている。
董憲は朱塗りの槍を握りしめた。
この槍を捨てられなかった。見切ったつもりでも、自分は赤眉にいた日々を愛していたのだろう。
家族も捨てられなかった。戦乱の世だ、いつかは失うかもしれない、そう思っていながら、この様だ。
董憲は自身の終わりが近づいていることを知った。
だからといって足掻かないのは違う。
「我が名は董憲!小癪な蛮族どもめ、かかってこい!」
董憲が討たれたとの報が劉秀にもたらされたのはそれから間もなくのことであった。
「董憲は家族を助けるために降伏しようとしていた模様ですが、それを知らなかった呉漢殿の部下が殺害してしまったとのことです」
「知らなかった、ねえ。まあいい。董憲の妻子は洛陽で処刑するので、こちらに送れと呉漢に伝えよ」
伝令はいつになく冷酷に振る舞う劉秀に違和感を覚えたが、恭しく退室した。劉秀は花窓から洛陽の華やかな街並みを眺めた。威勢のいい轡売りの声が響く。美しく着飾った女性が科を作って練り歩く。洛陽も大分復興してきた。
「董憲よ。お前がいなかったら、王莽はもう少し長く君臨していたかもしれん。だから、これは手向けだ」
呉漢から送られた董憲の妻子を、劉秀は秘密裏に逃がしてしまった。




