第八十八章 劉永
1
使者として斉の国へ派遣された伏隆が洛陽の劉秀の元へ帰還した。
劉植亡き後、言葉が巧みであるとして説客に選ばれた伏隆は数城を降伏させ、その仕上げとして斉の張歩を劉永陣営から寝返らせる事に成功したのである。
「なんとも素晴らしいことだ。君は私の酈食其だよ」
祝賀の宴会で劉秀は伏隆を褒め称えた。
朱祜が引きつった顔で言う。
「縁起でもない。伏隆が煮殺されでもしたらどうするのです」
「あ、最期は確かにそんなだったな。とにかく良くやってくれた。いやあ、この鰒魚の美味いこと。伏隆も遠慮せずに食べてくれよ。君のもたらした戦利品だからな」
鰒魚は斉の国の名産品である。一度茹でてから干すと旨味が凝縮される。戻すときは水で戻すのだが、斉の国では“戻し屋”などという職業まであるほど珍重されている。伏隆は口の中に一切れ含んで噛み締める。得も言われぬ風味が口中に広がる。それは伏隆にとって単に珍味というだけでなく、成功の味だった。
伏隆は盛大な見送りを受けて再び斉の国へ向けて出発した。東萊太守に張歩を任じるという詔を届けるためである。
しかし、伏隆を待っていたのは歓待ではなく牢獄だった。
「くふふふ。お前が去った後に、劉永は私を斉王に封じると言ってきた。劉秀はなんだって?東萊の太守?見劣りするなぁ、がっかりだよ」
手足を縛られて牢獄に転がされた伏隆を見下ろして張歩は笑う。
「まあ、勢力として魅力的なのは劉秀のほうだ。そこで、どうだ。今からもう一度洛陽に戻り、私を斉王に封じるように劉秀を説得してくるのだ。さすれば、その縛めをといてやるぞ」
伏隆は横になったまま唾を吐き捨てた。唾は張歩の足元に飛んで、その履物を汚した。
「劉氏にあらざれば王たるを得ず。賢明な陛下が、高祖の決めごとを破るものか。禁じ手を使った劉永の運命も決まったな。愚か者同士で仲良く心中するがいい」
張歩は残酷な笑みを口元に張り付かせ、伏隆の首を右足で踏みつけた。徐々に足へ力を込める。伏隆は歯を食いしばり、悲鳴を決して上げようとしない。
張歩は遂に全体重をかけて伏隆の首を踏みおると、死体の処理を獄吏に命じてその場を後にした。
2
張歩を斉王、董憲を海西王、蘇茂を大司馬兼ねて淮陽王に封じた劉永は、その勢いを取り戻して本城である睢陽を回復した。
この事態を重く見た劉秀は大司馬の呉漢、杜茂、陳俊を援軍として送る事にした。
呉漢は劉永側の軍事拠点、広楽を包囲していた。
「速やかに降れ。今降れば苦しませずに処刑してやる」
呉漢の呼びかけに、蘇茂は九節鞭を構えた。
「ご生憎様。私という美しき蝶はまだまだ戦場の空を舞い続けるのです」
呉漢の背後にいる陳俊が狼牙刀を掲げると、赤備えの弩弓手が一斉に矢を放った。
蘇茂は九節鞭を縦横に回転させて自身に向けられた矢を撃ち落とした。その妙技に漢軍からも感嘆の声が上がったが、蘇茂の部下はそうはいかない。精鋭部隊の矢は正確に敵兵の急所を貫いた。
杜茂が軽騎を率いて、蘇茂に挑みかかる。
「終わりだ、裏切り者め」
勢い良く振り下ろされた杜茂の戟を九節鞭が弾く。
「あんな馬鹿の下につけて、私の期待を裏切ったのは劉秀よ。」
「降将のくせに思い上がりも甚だしいわ。いや、今は賊将か」
蘇茂は口角を歪める。
「正義面してらっしゃるけど、貴方の黒い噂をいくつか聞いたわ。蛮族に賄賂を渡してわざと負けてもらった、とかね。ああ、汚い汚い。汚物と話すと汚れた気分になっちゃうわ」
「耳ざといところも女のようだな。その話を持ったままあの世に行けッ!」
しかし、横合いから急に矢が飛んできた。それも尋常な数ではない。
劉永の部将が援軍を率いて現れたのだ。
「お、多いぞ。畜生め、まだこんなに兵を隠していたのか」
一見して万単位の兵が砂塵を巻き上げて急迫してきていた。
「遅いじゃないの、周建」
「ははは、そう怒るな。巻き返しと行こうじゃないか」
周建と蘇茂の兵は合わせて十万余り。四万の兵を率いる呉漢は混乱する戦場を見るにつけ言った。
「一度退く!態勢を立てなおして再戦する」
その時、呉漢の馬の脚元に矢が飛んできた。馬は悲鳴を上げて暴れ、呉漢は投げ落とされてしまった。
「主ヨ!無事か!」
副官の高午が馬を寄せて呉漢を引き上げる。呉漢の膝は傷つき、血が流れていた。
3
蘇茂と周建は兵を合わせて広楽の城に戻った。負傷した呉漢は自陣に帰還した。
「大敵を前にして主が傷つき臥せったコトで、兵士達は恐れていル」
寝台の横で高午が告げる。
呉漢は勃然として起き上がり、戟を杖として歩き出した。牛を潰して、意気消沈する兵士達に振る舞うと、兵を集めて言った。
「賊軍は多いといえども、みな財を掠め、民を脅かすあぶれ者である。勝てども互いに譲らず、敗れても救い合わないというやつらで、節義を立て義に死するの志なき者共なれば、たとえ何十万いたとしても恐るるに足らぬ敵である。封侯の基を開き、忠烈を末代まで輝かせるかは、全て今日の功名にかかっている。諸君これに勉めよ!」
普段は寡黙な呉漢だが、大軍を前にした演説には熱が篭っていた。兵士達は歓声を上げた。
呉漢の三白眼はとりわけ熱を帯びている兵士の一群を見出した。
彼らは解放奴隷の一団だった。
奴隷や奴僕は秦代の制度の名残りで、蒼頭と呼ばれる。一目で奴隷階級だとわかるように青い頭巾で髪を結わされていることから、その呼び名が生まれた。蒼い頭巾は穢れ、侮蔑の象徴だった。
解放奴隷の一団は代わりに黄色い頭巾をつけていた。
呉漢は解放奴隷の長を務める青年を呼んだ。
「解放されたのだから、もう目印など必要あるまい」
「地獄のような境遇にあった自分達は、解放令によって天子に救って頂きました。その御恩を忘れぬために敢えて頭巾をつけているのです」
溌剌と答える青年の腕には痛ましい傷があった。奴隷主による虐待があったのだろうか。
「良い面構えをしている。名を教えよ」
「ありません。仲間からは河と呼ばれています」
この世に生まれて名も与えられない者もいる。
呉漢も路傍の石ころのような境遇から大身に出世したという自負があるが、世の中には想像を絶する不遇にさらされている者がいる。苛政や乱世がそういった歪みを生むのだ。天下の趨勢を窺って自身の勢力拡大を図る連中は、そういう乱世を望み、喜んでいるに違いない。そんな連中は皆殺しにしてしまえばいいと呉漢は思っていた。
「ふん、一文字ではわかりにくい。これからは呉河と名乗るが良い。今度の作戦ではお前に先鋒を任せる。わかったか、呉河」
呉河は喜びで顔を紅潮させた。目尻には涙が浮かんでいる。
「心得ました。この呉河、必ずや任を果たして見せましょう」
翌週、蘇茂と周建は二万を予備に残し、八万の兵力で呉漢の軍勢を包囲した。
呉漢が前面に押し出すのは、呉河率いる“黄頭”である。
「雷鼓を聞いて立ち止まらずに進め!遅れる者は斬る!」
呉漢の声に精鋭は鬨をつくって進撃を開始した。二倍の兵力で取り囲む蘇茂達の軍を、黄頭は錐のように突き通していく。
「大将首を狙ってきたか?」
危機感から周建は黄頭に攻撃を集中する。そこに間隙が生まれた。
「周建の陣が乱れた。行け、高午」
高午は烏桓突騎に下知をしてその間隙に突撃をかけた。烏桓突騎は左右の敵を打倒しながら、その脚を止めることがない。
「何やってるのよ周建、頭巾の連中は囮よ」
「ぬ、抜けられた!」
烏桓突騎は周建の包囲を駆け抜けて背後を取った。包囲の後ろを周りながら次々と兵を殺戮していく。これでは数の優位が意味を成さない。
なまじ大軍だけに一度統制が乱れると収拾がつかない。武器を放棄して戦場から遁走する者が出始めた。
蘇茂と周建は敗北を悟ると、睢陽へ向け逃走した。
4
雷鳴が轟き、豪雨が降り注ぐ中、巨大な輿が山中を進んでいた。豪奢な巾帛に彩られたその輿は今や泥水を被って汚れていた。縦の轅に四人、横の轅に四人がつかないと運べないこの輿の中には、睢陽から敗走する劉永その人が乗っていた。
蘇茂と周建を打ち破った呉漢は杜茂ら佐将を広楽に駐屯させると、自身は睢陽に進んで蓋延と合流した。
旧知の呉漢の助けを得た蓋延はその勢いを取り戻し、再び劉永の本拠地である睢陽を陥落させたのである。
輿の轅の一本がみしみしと嫌な音を立て始めた。
劉永の体重に素材が耐えられなくなったのだ。
ついに一本の轅がへし折れて、輿は地に塗れた。
怒号や悲鳴が響く。中から転がり出た劉永が泥まみれになって喚く。
「ぬぬぬ、この屈辱、はらさでおくべきか。いつか劉秀めに万倍にもして返してやる」
劉永の背後から冷ややかな声がかかった。
「そいつは、もう、ちょっと無理なんと違いますか」
「なんだと、輿舁ごときが偉そうな口を聞くな」
「輿舁じゃない」
劉永が振り向くと、配下の部将である慶吾が剣を抜いて立っていた。劉永と同じく泥まみれだった。逃走のさなかに蒼頭たちも抜け出し、将軍までもが輿舁をするような羽目になっていたのだ。
「お、おお、慶吾であったか。汝の忠節に報いる時がいつか来るだろう。だから、一先ずその物騒な物をしまえ」
「そんな時はこない」
「愚か者め!朕は大漢帝国の正当なる継承者、劉永であるぞ!朕に剣を向けることはすなわち……」
最後まで言い切る前に慶吾の剣が劉永の喉を切り裂いた。
翌日、劉永の首を持って降った慶吾は列侯に封じられた。
別の逃走経路から脱出し、劉永と合流する計画であった蘇茂と周建は、劉永の死を知るとその遺児である劉紆を立てて抵抗を続けることを決めた。
「ふぅー、この劉紆が必ずや父上の無念を晴らそうぞ。蘇茂、周建、そのために力を尽くしてもらいたい」
劉紆は体型こそ劉永に似ていたが、あまり目つきに険がない。劉永のような強烈な個性がこの二世にはないのだ、と蘇茂と周建は気付かされた。
劉紆の前から退出すると、周建と蘇茂は謀議をはじめた。
「どうする、ぜんぜんアクがない感じだぞ。あれが頭領で行けるのか?」
「ま、劉紆様の足りないところは我々で補いましょ。さしあたって、他勢力と連絡を取り合うのよ」
河東の雄、梁の劉永は倒れた。しかし、その勢力は変容しつつ抵抗を続けようとしている。天下の情勢は未だ流動的であった。




